第166回配信です。
一、前々回配信の補足
角田朋彦氏(京都芸術大学非常勤講師)
朝日カルチャーセンター横浜教室 「太平記を読む 南北朝内乱の実態」
https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7189997
角田朋彦氏(京都芸術大学非常勤講師)
朝日カルチャーセンター横浜教室 「太平記を読む 南北朝内乱の実態」
https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7189997
人生初の『南北朝遺文 関東編』〔2020-12-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b
0124 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その4)〔2024-07-20〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a22ec2b09965a9437b4de05d80ed824
二、『梅松論』の偏見
南北朝クラスター向けクイズ〔2021-01-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f646366405cf851acf7b8cf9ee85c1b
南北朝クラスター向けクイズ【解答編】〔2021-01-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6d0f6f585a180760d494ad4f9b0c01f
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)〔2021-01-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54
「建武二年内裏千首歌のをりしもあづまに侍りけるに、題をたまはりてよみたてまつりける歌に、月を
今ははや心にかかる雲もなし 月を都の空とおもへば」(新千載所集の尊氏の歌)
を中先代の乱を鎮圧した翌月と読めば、この月は九月十三夜の月つまり後の月を指していることになります。元弘三年で北条氏を滅ぼしたことを前とすれば、建武二年で北条氏の残党を滅ぼしたことは後になるわけで、なかなか洒落ています。しかも、反乱鎮圧後なのに、「をりしもあづまに侍りけるに」と、まるで業平の東下りのようなのんびりした筆致です。
都の空も望の月だ、という吹っ切れたような調べからすると、尊氏は道長の
この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば
を意識していたかもしれない、という気さえしてきます。題詠なので、後醍醐の世を言祝いでいるだけかもしれませんが。
「建武二年内裏千首」で尊氏は二首詠んでいて、
-------
建武二年内裏千首の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
てよみて奉りける歌に、氷
等持院贈左大臣
流れ行く落葉ながらや氷るらむ風より後の冬のやま河
(新千載六二六)
建武二年内裏千首歌の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
てよみて奉りける歌に、月を
等持院贈左大臣
今ははや心にかかる雲もなし月を都の空と思へば
(同一七八三)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0bf06ecacd790d39d7e14f7740533296
とありますから、月もあくまで題詠であって、具体的に何月と特定はできないように思いますが、ご指摘の点は再度改めて考えてみます。
いずれにせよ、激動の政治情勢に比較すると「建武二年内裏千首」はあまりにのんびりした話のようで、その扱いは難しいですね。
「折しも東に侍りけるに」という詞書が、
「昔、男ありけり。その男身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めに、とて行きけり」(『伊勢物語』第九段)
を暗示しているとすれば、
「私は業平とちがい、先頃まで住んでいた東に用があって、また下ってきた」
と言っているようにも読めますね。そして、用が済んだので、つまり、鎧袖一触、中先代の乱を鎮めたので、
「今ははや心にかかる雲もな」く、「月を都の空と思へば」(都も鎌倉も望月の如く平穏だ)
と。しかし、そうなると、平仄が合いすぎて、月という題を賜ったのは偶然か、ということになります。月は誰かの作為か、尊氏の所望か(許されるとは思えないが)・・・妄想の域を出ませんね。
後醍醐の尊氏討伐の命(建武二年十一月十九日)により、浄光明寺に籠居していた尊氏が(史実として)、一転、後醍醐に叛旗を翻す決意をしたときの歌が月の歌だとすれば、「今ははや心にかかる雲もなし」は吹っ切れた心象風景をよく表している、と読むこともできますね(もっとも、そんな歌は内裏千首に相応しくないけれども)。
浄光明寺は赤橋流北条氏の菩提寺(ウィキ)、つまり、登子の実家の菩提寺だから、尊氏はなんとも微妙な寺で謹慎していたことになるのですね。鎌倉には浄妙寺という足利氏の菩提寺があるのに(直義の死没地)、なんで浄光明寺なんだろう、と思います。
なお、昭和の大女優原節子(享年95)は、晩年、浄妙寺の隣に隠棲していました。代表作『東京物語』の舞台である尾道の浄土寺は尊氏所縁の寺で、足利氏の家紋と同じ寺紋の二つ引両が葬儀の場面に出てきたように記憶しています。
私の妄想は、氷と月という題は後醍醐によって決められ、そこには後醍醐と尊氏にしか分からない何らかの意図(過去の共通の思い出等)が込められており、それを正確に理解した尊氏は歌で応え、後醍醐も尊氏の意図を正確に理解したけれども、それ以外の人々には全く理解できなかった。というものです。
従って、現代の我々にとっても永遠の謎ですね。
昨夜は仲秋の名月でした。
「顕基中納言のいひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし」(徒然草第五段)
尊氏の月の歌に関する三つ目の妄想は、この月は後醍醐にとっての配所の月、つまり、流刑地隠岐の月を指しているのではないか、というものです(むろん、内裏千首に相応しくないが)。
月を配所の月とすると、氷の歌が流刑の暗喩のように見えてくるから不思議です。妄想の妄想たる所以ですね。
(なお、徒然草第五段の前文は遁世者への言及です)