投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月25日(木)10時58分25秒
近藤成一氏は長村著の書評(『日本歴史』837号、2018)において、
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後鳥羽による北条義時追討計画は、五畿七道を充所とする官宣旨により不特定多数の武士を動員するとともに、院宣により特定御家人に直接働きかけ、義時の追討に決起させようとするものであったと著者は考えている。つまり、義時追討を命じるものとして官宣旨と院宣の二種の文書があったことになる。後鳥羽による軍勢動員の主力が公権によるものであると考える著者の立場からすれば、官宣旨による動員こそが重視されるべきであるが、著者の分析は圧倒的に院宣の方に向いている(第二章)。院宣の本文を伝えるのが慈光寺本『承久記』であることから、その信憑性が疑われることもあったという研究状況を踏まえるならば、院宣本文の信憑性の検証に著者が力を注いだのは当然である。しかし、後鳥羽の軍事動員の主力を公権によるものと見る著者の立場からすれば、官宣旨のほうが重視されるべきであり、院宣の意義は官宣旨との関連において論じられるべきであろう。
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と書かれていますが(p98)、長村氏のバランス感覚については私も気になりました。
ただ、これに続く、
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官宣旨による軍事動員という制度について、著者は、石井進氏ほかの研究に依拠して、「関東分」については幕府により施行される制度であったこと、しかし義時はその制度を逆に利用して東国十五ヵ国の「家々長」に軍事動員をかけたことを指摘する(一一五頁)にとどまる。石井進氏は、「関東分」の諸国に対しては幕府が義時追討の宣旨を施行すべきであったとさらりと書いている(『日本中世国家史の研究』岩波書店、一九七〇年、二二九頁)が、後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっているとはいえ、官宣旨を「関東分」の諸国に対しては幕府が施行するというシステムが、義時追討を命じる官宣旨についても現実に機能する可能性があったかどうかについては、慎重な検討が必要であろう。そしてその可能性があったということになると、後鳥羽の計画が必ずしも無謀とは言えなくなる。
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という指摘は、私にはちょっと理解できません。
承久の乱の勃発時、北条義時が幕府の実質的指導者であったことは誰も争っていないのですから、「官宣旨を「関東分」の諸国に対しては幕府が施行するというシステムが、義時追討を命じる官宣旨についても現実に機能する可能性」など皆無ではないかと思います。
ただ、これは後鳥羽側が官宣旨の「関東分」ルートを工夫すればよいだけの話で、後鳥羽の計画が「無謀」かどうかとは一応別問題ですね。
実は私も、「後鳥羽の計画が必ずしも無謀とは言えな」かったのではないかと思ってはいます。
承久の乱が僅か一ヵ月で終わってしまった経緯をつぶさに見てゆくと、北条政子に加え、大江広元の的確な判断が決定的だったように思われますが、仮に後鳥羽がもう数年待って、二人が死んだ後に計画を実行したらどうなっていたのか。
北条義時は強引な手段を使って幕府内での地位を築いたので、内心では嫌っていた有力御家人も多かったはずで、対応が遅れるうちに御家人相互間に疑心暗鬼が生じ、そこを朝廷側につけ込まれて戦争が相当長期化する可能性はあったのではないかと思います。
なお、「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識」とありますが、近藤氏は『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)において、
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承久三年(一二二一)五月十五日、後鳥羽は京都守護伊賀光季を討つとともに、義時の追討を五畿七道に対して命ずる宣旨を出させた。いわゆる「承久の乱」のはじまりである。宣旨が命じているのは義時の追討であって、討幕ではない。討幕が目的であれば、追討の対象は将軍のはずである。実朝の後嗣三寅は元服前だしまだ征夷大将軍に任ぜられていないけれども、宣旨のなかでは「将軍の名を帯す」と認められている。三寅は「将軍の名を帯す」るけれどもまだ幼齢であり、それをいいことに義時が専権を振るっていることが謀反と断じられて、義時の追討が命じられているのである。三寅は追討の対象ではない。
しかも義時追討に立ち上がることが求められているのは諸国の守護人、荘園の地頭である。そもそも諸国の守護人が国衙に結集する武士を動員して王朝を警固する体制は、鎌倉幕府成立以前にさかのぼるものであり、鎌倉幕府はその体制を一元的に掌握することにより御家人体制を構築したのであるが、後鳥羽はその諸国守護人とさらには地頭に対して直接呼びかけ、自己のもとに直接再編成しようとしているのである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b5ad59292e56bd94e7c14970e019a06
といわれており(p34)、二年前の私はこの近藤説に納得していました。
しかし、幕府が「諸国の守護人が国衙に結集する武士を動員して王朝を警固する体制」を「一元的に掌握することにより御家人体制を構築した」にも拘わらず、それを「後鳥羽はその諸国守護人とさらには地頭に対して直接呼びかけ、自己のもとに直接再編成しようとしている」のであれば、仮に形式的に幕府の存在を残したところで、これは倒幕説と実質的に何が違うのか。
義時追討説といっても、野口実氏や坂田孝一氏は義時一人を交代させればよいという純度100%の義時追討説ではなく、戦争に勝利した後は幕府に対する何らかの「コントロール」を必要とする考え方であることは既に確認済みですが、近藤説ほど強い「コントロール」を認める立場なのかははっきりしません。
ここまで言うのであれば、近藤説は倒幕説と紙一重のような感じもします。
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
近藤成一氏は長村著の書評(『日本歴史』837号、2018)において、
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後鳥羽による北条義時追討計画は、五畿七道を充所とする官宣旨により不特定多数の武士を動員するとともに、院宣により特定御家人に直接働きかけ、義時の追討に決起させようとするものであったと著者は考えている。つまり、義時追討を命じるものとして官宣旨と院宣の二種の文書があったことになる。後鳥羽による軍勢動員の主力が公権によるものであると考える著者の立場からすれば、官宣旨による動員こそが重視されるべきであるが、著者の分析は圧倒的に院宣の方に向いている(第二章)。院宣の本文を伝えるのが慈光寺本『承久記』であることから、その信憑性が疑われることもあったという研究状況を踏まえるならば、院宣本文の信憑性の検証に著者が力を注いだのは当然である。しかし、後鳥羽の軍事動員の主力を公権によるものと見る著者の立場からすれば、官宣旨のほうが重視されるべきであり、院宣の意義は官宣旨との関連において論じられるべきであろう。
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と書かれていますが(p98)、長村氏のバランス感覚については私も気になりました。
ただ、これに続く、
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官宣旨による軍事動員という制度について、著者は、石井進氏ほかの研究に依拠して、「関東分」については幕府により施行される制度であったこと、しかし義時はその制度を逆に利用して東国十五ヵ国の「家々長」に軍事動員をかけたことを指摘する(一一五頁)にとどまる。石井進氏は、「関東分」の諸国に対しては幕府が義時追討の宣旨を施行すべきであったとさらりと書いている(『日本中世国家史の研究』岩波書店、一九七〇年、二二九頁)が、後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっているとはいえ、官宣旨を「関東分」の諸国に対しては幕府が施行するというシステムが、義時追討を命じる官宣旨についても現実に機能する可能性があったかどうかについては、慎重な検討が必要であろう。そしてその可能性があったということになると、後鳥羽の計画が必ずしも無謀とは言えなくなる。
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という指摘は、私にはちょっと理解できません。
承久の乱の勃発時、北条義時が幕府の実質的指導者であったことは誰も争っていないのですから、「官宣旨を「関東分」の諸国に対しては幕府が施行するというシステムが、義時追討を命じる官宣旨についても現実に機能する可能性」など皆無ではないかと思います。
ただ、これは後鳥羽側が官宣旨の「関東分」ルートを工夫すればよいだけの話で、後鳥羽の計画が「無謀」かどうかとは一応別問題ですね。
実は私も、「後鳥羽の計画が必ずしも無謀とは言えな」かったのではないかと思ってはいます。
承久の乱が僅か一ヵ月で終わってしまった経緯をつぶさに見てゆくと、北条政子に加え、大江広元の的確な判断が決定的だったように思われますが、仮に後鳥羽がもう数年待って、二人が死んだ後に計画を実行したらどうなっていたのか。
北条義時は強引な手段を使って幕府内での地位を築いたので、内心では嫌っていた有力御家人も多かったはずで、対応が遅れるうちに御家人相互間に疑心暗鬼が生じ、そこを朝廷側につけ込まれて戦争が相当長期化する可能性はあったのではないかと思います。
なお、「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識」とありますが、近藤氏は『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)において、
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承久三年(一二二一)五月十五日、後鳥羽は京都守護伊賀光季を討つとともに、義時の追討を五畿七道に対して命ずる宣旨を出させた。いわゆる「承久の乱」のはじまりである。宣旨が命じているのは義時の追討であって、討幕ではない。討幕が目的であれば、追討の対象は将軍のはずである。実朝の後嗣三寅は元服前だしまだ征夷大将軍に任ぜられていないけれども、宣旨のなかでは「将軍の名を帯す」と認められている。三寅は「将軍の名を帯す」るけれどもまだ幼齢であり、それをいいことに義時が専権を振るっていることが謀反と断じられて、義時の追討が命じられているのである。三寅は追討の対象ではない。
しかも義時追討に立ち上がることが求められているのは諸国の守護人、荘園の地頭である。そもそも諸国の守護人が国衙に結集する武士を動員して王朝を警固する体制は、鎌倉幕府成立以前にさかのぼるものであり、鎌倉幕府はその体制を一元的に掌握することにより御家人体制を構築したのであるが、後鳥羽はその諸国守護人とさらには地頭に対して直接呼びかけ、自己のもとに直接再編成しようとしているのである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b5ad59292e56bd94e7c14970e019a06
といわれており(p34)、二年前の私はこの近藤説に納得していました。
しかし、幕府が「諸国の守護人が国衙に結集する武士を動員して王朝を警固する体制」を「一元的に掌握することにより御家人体制を構築した」にも拘わらず、それを「後鳥羽はその諸国守護人とさらには地頭に対して直接呼びかけ、自己のもとに直接再編成しようとしている」のであれば、仮に形式的に幕府の存在を残したところで、これは倒幕説と実質的に何が違うのか。
義時追討説といっても、野口実氏や坂田孝一氏は義時一人を交代させればよいという純度100%の義時追討説ではなく、戦争に勝利した後は幕府に対する何らかの「コントロール」を必要とする考え方であることは既に確認済みですが、近藤説ほど強い「コントロール」を認める立場なのかははっきりしません。
ここまで言うのであれば、近藤説は倒幕説と紙一重のような感じもします。
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
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