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慈光寺本『承久記』を読む。(その1)

2020-06-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月 9日(火)10時34分3秒

義時追討説といっても、野口実氏や坂田孝一氏は義時一人を交代させればよいという純度100%の義時追討説ではなく、幕府に対する何らかの「コントロール」を必要としている点は以前確認しました。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

他方、倒幕説といっても、鎌倉に立て籠もった北条一族とその郎党を一人残さず皆殺し、という純度100%の倒幕説の他に、形式的には「幕府」を存続させても、それに対する「コントロール」を強化して、後鳥羽の意向がストレートに反映するような組織に変えてしまえば、それは実質的に「倒幕」といってもよさそうです。
ということは、倒幕説と義時追討説は二者択一ではなく、後鳥羽が戦争に勝利した後、東国武士に対する「コントロール」をどのようにしようと構想したかという、ある程度の幅を持った問題と捉え直す方が正確と言えそうです。
まあ、実際には戦争は僅か一ヵ月で京方の全面敗北で終わってしまったので、後鳥羽の戦後構想も何もあったものではない訳ですが、しかし、ひとつの思考実験として、後鳥羽が勝利できた僅かな可能性を検討し、その際の戦後の公武関係を想像することも全く意味がない訳でもなさそうです。
このような観点から野口実氏らの義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を眺めてみると、京方が勝利する可能性のひとつとして、三浦胤義の兄・義村への説得が成功し、三浦一族が総力を結集して義時を打倒するというケースが一応考えられると思います。
また、「幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至ったことを聞きつけた山田重忠が大将軍の藤原秀澄に、全軍を結集して洲俣から長良川・木曽川(尾張川)を打ち渡って尾張国府に押し寄せるべしとの献策を行った」(野口実「承久の乱の概要と評価」『承久の乱の構造と展開』、15p)際に、山田重忠案が採用されるというケースも、もう一つの京方勝利の可能性を感じさせます。
そこで、この二つの可能性に関連する部分を中心に、慈光寺本『承久記』を少し読んでみたいと思います。
慈光寺本『承久記』は『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)で読めるので、入手は簡単ですね。
さて、慈光寺本『承久記』は上下二巻に分かれていて、上巻は「娑婆世界に衆生利益の為にとて、仏は世に出で給ふ事、総じて申さば、無始無終にして、際限あるべからず」(p298)という具合いに仏教臭い雰囲気で始まります。
この後、「人王の始をば、神武天皇とぞ申ける。葺不合尊の四郎の王子にてぞましましける。其よりして去ぬる承久三年までは、八十五代の御門と承る。其間に国王兵乱、今度まで具にして、已に十二ケ度に成る」(p299)として、十二の兵乱を簡潔に紹介し、「昔、綏靖天皇より、今、安徳天皇まで、国王兵乱十二度にこそ当りけれ」(p302)と纏めてから源頼朝の話題に移ります。
文体の紹介を兼ねて頼朝の登場以降を少し引用してみます。
なお、原文は漢字とカタカナ交じりですが、カタカナは読みづらいので平仮名に代えます。
また、文章も「不可有際限」を「際限あるべからず」とするなど、校注の益田宗・久保田淳氏の読みに従いつつ、若干読みやすいように適宜変更することがあります。
それでは、始めます。(p303以下)

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 頼朝卿、度々都に上り、武芸の徳を施し、勲功たぐひ無くして、位正二位に進み、右近衛の大将を経たり。西には九国二島、東にはアクロ・ツガル・夷が島まで打ち靡かして、威勢一天下に蒙らしめ、栄耀四海の内に施し玉う。去程に、建久九年戊午十二月下旬の比、相模川に橋供養の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時より水神に領ぜられて、病患頻りに催して、半月に臥し、心身疲崛して、命今は限りと見へ給ふ時、孟光を病床に語らひて曰く、「半月に沈み、君に偕老を結びて後、多年を送りき。今は同穴の時に臨めり」。嫡子少将頼家を喚び出だし、宣玉ひけるは、「頼朝は運命既に尽ぬ。なからん時、千万糸惜しくせよ。八ケ国の大名・高家が凶害に付くべからず。畠山を憑みて日本国をば鎮護すべし」と遺言をし給ひけるこそ哀なれ。
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脚注に「孟光」は「妻北条政子をさす。本来は後漢の梁鴻の妻。醜貌であったが徳行を修め、人々に尊敬された」とあります。
「千万」は実朝の幼名ですね。
続きです。

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 少将いまだ有若(亡)の人なれば、父の遺言をも用ゐ玉はず、梶原平三景時ぞ後見奉りける。人、唇を反しけり。生年十六にて左衛門督に成る。六年ぞ世を持ち給ける。然るに、なせる忠孝はなくして栄耀を誇り、世を世とも治め玉はざりければ、母儀・伯父教訓を加ふれども、用ゐ玉はず。遂には元久元年甲子七月廿八日、伊豆国修善寺の浴室におきて、生害させ申す。舎弟千万若子、果報やまさり玉ひけん、十三にて元服有て、実朝とぞ名のり給ける。次第の昇進滞らず、四位、三位、左近の中将をへて、程なく右大臣に成り玉ふ。徳を四海に施し、栄を七道耀し、去ぬる建保七年己卯正月廿日、右大臣の拝賀に勅使下向有て、鎌倉の若宮におき拝賀申されける時、舎兄頼家の子息若宮別当悪禅師の手にかかり、あへなく誅せられ給けり。凡そ三界の果報は風前の灯、一期の運命は春の夜の夢なり。日影をまたぬ朝顔、水に宿れる草葉の露、蜉蝣の体に異ならず。
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いったん、ここで切ります。
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