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慈光寺本『承久記』を読む。(その2)

2020-06-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月10日(水)09時24分36秒

慈光寺本『承久記』では、頼朝は「度々都に上り、武芸の徳を施し、勲功たぐひ無くして、位正二位に進み、右近衛の大将を経たり。西には九国二島、東にはアクロ・ツガル・夷が島まで打ち靡かして、威勢一天下に蒙らしめ、栄耀四海の内に施し玉う」と絶賛されていますが、頼家には「なせる忠孝はなくして栄耀を誇り、世を世とも治め玉はざりければ、母儀・伯父教訓を加ふれども、用ゐ玉はず」と筆誅が加えられ、「伊豆国修善寺の浴室におきて、生害」されたのも当然だ、という冷ややかな扱いです。
そして、実朝については「次第の昇進滞らず、四位、三位、左近の中将をへて、程なく右大臣に成り玉ふ」と、異例の昇進についても否定的な評価はなく、「徳を四海に施し、栄を七道に耀し」と頼朝同様に絶賛です。
では、北条義時はどのように描かれているのか。(p304以下)

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 爰に、右京権大夫義時の朝臣思ふ様、「朝の護り源氏は失せ終はりぬ。誰かは日本国をば知行すべき。義時一人して、万方をなびかし、一天下を取らん事、誰かは諍ふべき」。同年夏の比、相模守時房を都へ上せて、帝王に将軍の仁を申されけり。当時の世の中を鎮めんとて、右大将公経卿外孫、摂政殿下の三男、寅歳寅日寅時に生れ給へれば、童名は三寅と申す若君を、建保七年六月十八日、鎌倉へ下し奉る。風諫には伊予中将実雅、後見に右京権大夫義時とぞ定め下されける。いかでか二歳にてはとて、三と云名を付け奉りて、十八日より廿日まで、年始元三の儀式を始めて御遊あり。七社詣して鎌倉に座す。
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ということで、「朝の護り源氏」は絶えた、今は「日本国をば知行」するのは俺だけだ、と義時の傲慢さは強調していますが、かといって、具体的に何か欠点を挙げている訳でもありません。
さて、次に後鳥羽への評価が出てきます。

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 爰に、太上天皇叡慮動きまします事あり。源氏は日本国を乱りし平家を打ち平らげしかば、勲功に地頭職をも下されしなり。義時が仕出したる事も無くて、日本国を心の儘に執行して、ややもすれば勅諚に違背するこそ奇怪なれと、思しめさるる叡慮積りにけり。凡そ、御心操こそ世間に傾ぶき申しけれ。伏物、越内、水練、早態、相撲、笠懸のみならず、朝夕武芸を事として、昼夜に兵具を整へて、兵乱を巧みましましけり。御腹悪しくて、少しも御気色に違ふ者をば、まのあたり乱罪に行はる。大臣・公卿の宿所・山荘を御覧じては、御目留まる所をば召して、御所と号せらる。都の中にも六所あり。片井中にもあまたあり。御遊の余りには、四方の白拍子を召し集め、結番、寵愛の族をば、十二殿の上、錦の茵に召し上せて、蹈み汚させられけるこそ、王法・王威も傾きましますらんと覚えて浅猿しけれ。月卿雲客相伝の所領をば優ぜられて、神田・講田倒されて、歎く思ひや積りけん、十善の君忽ちに兵乱を起こし給ひ、終に流罪せられ玉ひけるこそ朝増しけれ。
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ということで、和歌の興隆など優れた業績の指摘は皆無で、「御腹悪しくて」無茶や勝手のし放題、本当に「浅猿」しい、「浅増」しいと痛罵が繰り返されます。
そして、承久の乱勃発の発端が次のように語られます。(p305以下)

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 其の由来を尋ぬれば、佐目牛西洞院に住みける亀菊と云ふ舞女の故とぞ承る。彼人、寵愛双びなき余り、父をば刑部丞にぞなされける。俸禄余らず思しめして、摂津国長江庄三百余町をば、丸〔まろ〕が一期の間は亀菊に充て行はるるとぞ、院宣下されける。刑部丞は庁の御下文を額に宛てて、長江庄に馳せ下り、この由執行しけれども、坂東地頭、是を事ともせで申しけるは、「此所は故右大将家より大夫殿の給はりてまします所なれば、宣旨なりとも、大夫殿の御判にて、去りまゐらせよと仰せのなからん限りは、ゆめゆめ叶ひ候まじ」とて、刑部丞を追ひ上ぼする。仍て、此の趣きを院に愁へ申しければ、叡慮安からず思しめして、医王左衛門能茂を召して、「又、長江庄に罷り下りて、地頭追ひ出して取らせよ」と仰せ下されければ、能茂馳せ下りて追い出しけれども、更に用ゐず。
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段落の途中ですが、この後も長いので、いったんここで切ります。
なお、長江庄は「故右大将家より大夫殿の給はりてまします所」、即ち源頼朝から北条義時が地頭職を得た荘園ですが、坂井孝一氏の『承久の乱』では、

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 表向きは三寅が将軍予定者、北条政子が尼将軍として幕府を代表している。しかし、後鳥羽が鎌倉に送った弔問使藤原忠綱は、実朝の生母である政子に弔意を伝えた後、義時の邸宅を訪れて長江・倉橋両荘の地頭改補要求を突き付けた。実質的に幕府を動かしているのは義時だと、後鳥羽が認識していたことの表れである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/760ff0a9c4f366773d7be8bae1414821

とあって、問題の荘園の地頭が北条義時であることに触れていません。
直接の当事者が義時なのだから、義時を相手にするのは当たり前、とも言える訳で、坂井氏の書き方は自分の立論に不利な要素を意図的に排除しているような感じがします。
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