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大江親広は「関寺辺で死去」したのか?

2020-06-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月14日(日)10時36分18秒

前回投稿で引用した部分、【中略】には、

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 義時追討命令に先んじて、鎌倉から派遣されていた二人の京都守護のうち、大江親広が後鳥羽の動員に応じ(『吾妻鏡』五月十九日条)、対して義時室の兄弟である伊賀光季が「依為縁者」り追討された(『百練抄』五月十五日条)ことも、対立の基本軸が後鳥羽と北条義時との間に存したことを物語る。
 また後鳥羽の発した官宣旨は、幕府と鎌倉殿の存在を前提とする職たる守護・地頭に院庁への参候を命じており、鎌倉幕府─御家人制の否定という意図は読み取れない。院が公権力によって武士を動員するのは平安後期と同様に決して異常ではなく、後鳥羽の主要な武力たる在京武士の中でも、主力は西国に重心を置く在京御家人であり、むしろ幕府の守護制度・御家人制度は必須の要素であった。かつては承久の乱の際に在京御家人が後鳥羽の命に従ったことを異常視する理解が一般的だったが、後鳥羽の目的が義時追討であり、院による武士の動員が平安後期以来の正当なあり方である以上、なんら異とするには及ばないのである。
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という文章が入ります。(p114)
後半についてはまた後で論じるとして、前半部分、私には長村氏の論理が全く理解できないのですが、もしかしたら長村氏は大江親広の妻が北条義時の娘であり、親広もまた義時の「縁者」であることを失念されているのではないですかね。
私は大江親広の妻が土御門定通に再嫁したことに興味を持って、少し調べたことがあるのですが、この女性は比企朝宗の娘「姫の前」の所生であって、北条朝時・重時と同母ですね。
多くの研究者が漠然と義時娘の再嫁は承久の乱の後と考えている中で、岩田慎平氏は「承久の乱の前後いずれであったかは決しがたい」と慎重ですが、土御門顕親が承久二年(1220)に生まれているので、二人の婚姻は承久の乱の前であることは明らかですね。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f

ま、それはともかく、「鎌倉から派遣されていた二人の京都守護」は二人とも北条義時の「縁者」なので、「対立の基本軸が後鳥羽と北条義時との間に存したことを物語る」材料にはならないと思います。
大江親広の方は既に離縁しているので、義時に遠慮する必要性は薄れていたでしょうが、長村氏がそこまで考えておられるようには見えません。
さて、長村氏は大江親広について、もう一つ、非常に奇妙なことを言われています。
即ち、「第五章 一族の分裂・同心と式目十七条」の「一 承久の乱時の一族分裂」に次のような記述があります。(p191以下)

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大江・毛利・海東氏(名字地:〔京〕・相模・尾張)
【系図略】

 京方の大江親広は、伊賀光季追討に動員され、京近郊の攻防では食渡で戦ったが、関寺辺で死去した(『吾妻鏡』六月十四日条)。
 鎌倉方の大江佐房は、北条時氏等とともに摩免戸を攻めた。
 毛利季光は、美濃の合戦では鵜沼渡を攻め、京近郊の合戦では芋洗を攻めた。
 尾張国熱田大神宮忠兼の養子となっていた海東忠成の男忠茂は、『熱田大神宮千秋家譜』に「承久三年辛巳、雖未賜庁宣、自関東押テ入于社内、同七月賜庁宣」とあり、承久鎌倉方に属していたことが窺える。
 大江広元は宿老の一人として鎌倉に留まっていた。
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海東のことなど、実に詳しく調べておられて立派ですが、『吾妻鏡』六月十四日条を見ると、「親広者、関寺辺に於て零落すと云々」であって、死去ではないですね。
上杉和彦氏の『大江広元』(吉川弘文館人物叢書、2005)には、

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 親広は、上皇方の敗色が決定的となった承久三年(一二二一)六月十四日に、近江国関寺付近で行方をくらます。親広がいかなる経路をとって落ちのびたのかは分からないが、その後の彼は、出羽国寒河江荘の吉川邑に潜み、同地で余生を送ることとなる。親広が寒河江荘を潜伏先に選んだ理由には、摂関家領である同荘の地頭職が、奥州合戦後に広元の所領になっていたことがあげられる。
 承久の乱での親広の所業に対する幕府の処分の経緯は、明らかではない。広元たち一族の助命があったのかもしれないが、父広元の多大な功績とともに、親広の子の佐房が幕府軍に加わり奮戦したこと、在京の武士として後鳥羽の命令に応じたことはやむをえないこととする弁護論などさまざまな理由によって親広は処刑を免れ、出羽国寒河江荘への流罪という形での処分を受けたのであろう。
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とあります。(p184)
『安中坊系図』等、寒河江に残された親広子孫の記録は必ずしもすべてが信頼できるものではなさそうですが、親広の隠棲自体は間違いないようですね。

「安中坊遺跡発掘調査」
https://www.mmdb.net/yamagata-net/usr/nishikawa2/antyuubou/page/A0001.html
「阿弥陀堂跡阿弥陀屋敷(吉川館跡)」
http://www.ic-net.or.jp/home/rinet/ynskwpamdduatamdysk.html
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2 コメント

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零落にはこんな意味もあったにゃん (♡長村先生全力応援ガチファン♡)
2021-09-22 23:26:03
『日本国語大辞典』
れい‐らく 【零落】
解説・用例
(3)死ぬこと。死去。
*凌雲集〔814〕「久在外国晩年帰学、知旧零落已無其人〈林娑婆〉」
*撰集抄〔1250頃〕二・五「あしたに世路にほこる類、ゆふべに白骨となり、月をながむるとも、前後にれいらくし」
*曹丕‐与呉質書「何図数年之間、零落略尽」
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御教示、ありがとうございます。 (鈴木小太郎)
2021-09-23 07:01:26
ただ、(3)は婉曲的・文学的な表現ではないでしょうか。
『吾妻鏡』の解釈として(3)が適切なのか。
それと、寒河江には大江氏関係の史料がけっこう多いんですね。
その扱いも問題となりそうですね。
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