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長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』の奇妙な読後感

2020-06-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月13日(土)21時58分13秒

昨日、長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)をやっと入手して読み始めたら、今日は国会図書館に遠隔複写を依頼していた「<承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と討幕像の展開─」(『文化史学』68号、2012)が届きました。
後者は『中世公武関係と承久の乱』に纏められた長村氏の論文のうち、一番重要かなと思って早く読もうと注文していたのですが、国会図書館の遠隔複写もずいぶん混雑しているようで、今頃やっと届き、結果的には単なる無駄遣いになってしまいました。
ま、それはともかく、実は私、長村氏が「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」と言っているらしいと聞いて、正直、長村説をちょっと莫迦にしており、不遜にも、この本はわざわざ買わなくてもいいや、などと思っていました。

「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」(by 長村祥知氏、但し伝聞)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f1a44db9f7736795561e163dc58f0ba

しかし、実際に同書を手にしてみたところ、研究史の整理は丁寧だし、史料が豊富な上にその分析も緻密であり、さすがに主要な学術雑誌に軒並み書評が載るだけあって、優れた本だなと思いました。
ただ、肝心な部分は、やっぱりなー、という感じですね。
「第三章 <承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と討幕像の展開─」から少し引用してみます。(p113以下)

-------
 後鳥羽の発給した義時追討命令文書として、院宣と官宣旨の二種の文面が今日に伝えられている。史料1 慈光寺本『承久記』所引承久三年五月十五日「後鳥羽上皇院宣」は実際に発給されたものであり、その奉者である葉室光親が、伝奏の立場で発給の根幹にも位置したのが史料2 承久三年五月十五日「官宣旨」であった。
 命令内容としては、院宣・官宣旨ともに、幼齢の鎌倉殿(九条三寅)をさしおく北条義時の追討を命じている点を確認したい。なお、文書の様式上、そこに表れる追討対象は(幕府などの組織ではなく)個人名となるため、文書を論拠に後鳥羽の討幕構想を否定することはできないという理解もあるかもしれない。しかし、仮に後鳥羽が討幕を構想していたなら、鎌倉殿(九条三寅、あるいは代行たる北条政子)の名を追討対象に挙げたはずであり、やはり後鳥羽の意図は義時追討であったと考えねばならない。
【中略】
 後鳥羽の目的は北条義時の追討であり、義時追討は決して討幕と同義ではないことを、明確に区別しておかねばならない。
-------

うーむ。
承久の乱は結果的に僅か一ヵ月で決着がついてしまいましたが、後鳥羽もさすがにそんな短期に、しかも自分が負けるとは思いもよらず、それなりの長期戦を覚悟していたはずです。
そして五月十五日付の院宣・官宣旨は、想定された長期戦の一番初期の、主として御家人間を分断し、幕府の内紛を誘発することを狙った政治的文書ですね。
仮に倒幕という目的に適合した文書の形式を整えるためには「鎌倉殿(九条三寅、あるいは代行たる北条政子)の名を追討対象に挙げ」るのが正しいとしても、それが政治的ないし軍事的に正しい選択なのか。
政子は頼朝の記憶を直接に喚起させる存在ですから、北条は憎んでも政子だけはどうにも敵にしたくない、政子には頭が上がらない、という御家人も多かったはずです。
それにもかかわらず、文書の形式を整えるという、いわば事務方の小役人的な発想で政子を正面から敵と名指ししてよいのか。
そこまで考えなくとも、仮にも武士が、四歳の幼児や六十六歳の老尼を討伐しましょうと言われて、是非参加させて下さい、と言えるのか。
まあ、恥ずかしくてそんなことはできないんじゃないですかね。
私には長村氏が政治的文書をあまりに正直に、生真面目に、子供っぽく読んでいるように感じられます。
この文書をそこまで素直に読むのだったら、長村氏は後鳥羽が一か月後の六月十五日に出した院宣も素直に、文字通りに受け取るのでしょうか。
「今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也(この度の合戦は後鳥羽の御意思から起こったものではなく、謀臣らが申して行ったものである)」という、あの素晴らしい院宣を。

『吾妻鏡』承久三年六月(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
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