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「先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではない」(by 長村祥知氏)

2020-06-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月16日(火)12時47分27秒

義時追討説といっても、野口実氏や坂田孝一氏は義時一人を交代させればよいという純度100%の義時追討説ではなく、戦争に勝利した後は幕府に対する何らかの「コントロール」を必要とする考え方であることは既に確認済みです。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)

さて、『中世公武関係と承久の乱』を通読してみたところ、長村祥知氏は「コントロール」という表現は使用していないようですが、純度100%の義時追討説なのかははっきりしません。
この点、「第三章 <承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と討幕像の展開─」の「おわりに」の次の記述は興味深いですね。(p130)

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 従来、承久の乱は後鳥羽の討幕計画に発するとされてきた。その根底には、南北朝期から続く後醍醐の「建武中興」との類似性への注目や、公武対立の歴史像、幕府のみが武士を組織するという理解等があるものと思われる。もとより先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではないが、鎌倉殿を排し御家人制度を解体するものとする理解であれば、見直す必要があると思われる。
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承久の乱に関する従来のほぼ全ての学説を渉猟したであろう長村氏にしても、「もとより先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではない」とするのは少し意外でした。
ただ、仮に討幕説=「鎌倉殿の排し御家人制度を解体するものとする理解」だとすれば、逆に「鎌倉殿」を存続させ、「御家人制度を解体」しないことを最低ラインとし、これさえ守れば、朝廷側の幕府に対する「コントロール」がどれほど強いものであろうと、それは義時追討説ということになるのでしょうか。
また、長村氏自身は、後鳥羽の戦後構想としては、どの程度の「コントロール」を予定していたものと考えておられるのでしょうか。

>筆綾丸さん
>形式として、まず院宣で奉行の停止を命じ、次に官宣旨で追討を命ずる、というふうに二段構えになっているのだ、と考えれば、

慈光寺本『承久記』に記され、長村氏が実在を論証された院宣でも義時追討を命じていて、そこは官宣旨と重複していますね。
ただ、院宣の宛先は特定の有力御家人、即ち武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村の八人ですから、この院宣で「義時の奉行の停止を命ずる」のは、長村氏の主張とは別の意味で「不自然」です。
ここは、実際の経緯はともかくとして、既に義時の「奉行」は停止された、という過去の事実を八人の有力御家人に伝えて、何ら正当な資格なく「奉行」を継続している義時を追討せよ、ということになって、論理的には全くおかしくないように思います。
ちょっと複雑な話になりそうなので、次の投稿で整理してみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Verwandlung(王者から流人への変容)  2020/06/15(月) 09:49:43
小太郎さん
『第三章 <承久の乱>像の変容ー「承久記」の変容と討幕像の展開ー』を読んでみました。
要するに、原型の文言は義時追討であるが、時代が下るにつれ、個人を超えて討幕へと変容した、と史料を示して主張しているだけなんですね、といえば、語弊がありますが。

あたかもザムザが巨きな毒虫に変容したかのごとく。
Gregor Samsa wakes up one morning to find himself transformed into a "monstrous vermin".

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北条氏は、(吾妻鏡において)「自京都可襲坂東」と、あたかも後鳥羽が、坂東に特殊な行政権を有する鎌倉幕府の追討を命じたかのごとく喧伝したのである。(117頁)
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「坂東に特殊な行政権」とは何なのか、意味がわかりません。あの時代に、三権分立の概念などないけれど、立法権的なるものと司法権的なるものとは朝廷(後鳥羽院)が保留していた、ということですか。

追記
『第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨ー後鳥羽院宣と伝奏葉室光親ー』に、
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後鳥羽は「院宣」の発給時点ですでに義時の追討を考えているはずであり、即時に追討を命ずるのではなく義時の奉行の停止を命ずるのは不自然である。(90頁)
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とありますが、形式として、まず院宣で奉行の停止を命じ、次に官宣旨で追討を命ずる、というふうに二段構えになっているのだ、と考えれば、別段、不自然ではないと思います。ではなぜ、そんな回りくどいことをするのか、といえば、それが形式の形式たる所以だから、ということになります。内容より形式のほうが重要だということは、朝廷儀礼にかぎらず、世の中にはよくあることです。
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