風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

東京春祭《マクベス》 @東京文化会館(4月21日)

2021-04-24 22:59:44 | クラシック音楽



世界は知らないもので、そして美しいもので溢れている。
5年ぶりのムーティさんを聴きに、上野の森へ行ってきました

19日の公演を聴いた方達が「これほどの『マクベス』には二度と出会えないだろう」とか「今まで国内外で数多く聴いたムーティの中でベスト」とか「超弩級の名演」とか書かれていて。いつものクラオタさん達の大仰な表現だろうとは言い切れないものを感じたので聴いてみたくなり、でもどうせチケットは完売か高い席しか残っていないのでしょうと半ば諦めつつ春祭のサイトを覗いたら、手頃な値段の良席が山ほど残っているではないですか
いわゆる”ムーティのヴェルディ”がこんな惨状だなんてコロナ禍の影響はこれほどなのか・・・と呆然としつつ、開演数時間前にポチ。
ムーティのイタリアオペラは一度聴いてみたいとずっと思っていたので、ちょうどいい機会となったのでした。

ムーティのオペラもヴェルディのマクベスも初めて聴くので他と比べることはできないけれど(そもそもオペラ自体が二度目)。

いやあ。。。。。
予想を遥かに遥かに超えて物凄かった。。。。。
こんなの聴いてしまったら、もうムーティさまと呼ぶしかない。。。。。

この作品はシェイクスピアの『マクベス』をヴェルディがオペラにしたものですが、聴きながら、今月の歌舞伎座の『桜姫東文章』のようだなあと感じました(『桜姫~』の感想は後日upします)。
歌舞伎とシェイクスピアは似ていると常々思っていたけれど、南北は特に似ているのかも。と思いググってみたら、坪内逍遥が南北を「日本のシェイクスピア」と譬えていた
人間の業とか殺しの残酷さとか堕ちていく悲哀とかそういう人間達の世界の裏面を、重みと軽みの絶妙なバランスを保ちながら、描いている内容にも関わらず品と格調を失わずに表現しきる凄み。最後には、どんな荒唐無稽な展開も説得力を持たせてしまう。そしてそのすべてを虚構という衣で包む視点。
とはいえどんなに素晴らしい作品も、それを形にできる人達があってこそ。
今月の歌舞伎座にはそれがある。そして今月の東京文化会館にも。
それを音楽で表現したヴェルディも素晴らしければ、それを形にして見せてくれた指揮者もオケも歌手陣も素晴らしい。

まずは何よりオケ!
始まってすぐに「なんて雄弁な音だろう」と驚きました。日本のオケからこんな表情豊かな音が出るなんて。「若手演奏家」とあったから音大生とかなのかなと思っていたら、帰宅してから知りましたが、N響やら読響やら都響やらのプロの方達ばかりなのであった。
技術的な上手さだけならもっと上をいくオケはあるだろうけれど、今回はその音の表情の豊かさと多彩さが半端ない。聴こえてくる全ての音に意味があって、それらが自然に一つの世界を築いている。
これまで聴いた本当に良い演奏というのはみんなそうで、そしてそういう演奏に出会える機会というのは決して多くはないのです。
今回は、やはりムーティの力なのだろうな。
スコットランドのハイランド地方の荒涼とした草の上に吹く風が肌に感じられるよう。魔女達が目の前にいるよう。城の中で蠢く人間達の陰謀や心の内がはっきりと伝わってくる。
人殺しの決意や人生の悲哀といったネガティブな感情が長調の軽やかな音で表現されると、凄みが増しますね。素晴らしいなあ、ヴェルディ。
情熱的だけど、知的で。美しいのに、楽しい!
力業じゃないんですよね、良いパフォーマンスって。全てが無理なく自然。
今回ノーカットで演奏されたという3幕のバレエ音楽も本当に素晴らしくて、10分近くあったそうですが、聴いていて楽しくて仕方がありませんでした。

しかし今回のような演奏を聴くと、やはりムーティとシカゴ響は音楽的な相性はあまりよくなかったのでは、と思ってしまう。。
今回は歌うようなフレーズも軽快なフレーズもめちゃくちや良かったし。
あるいはムーティはやはりお国ものがずば抜けて得意なのだろうか。

マクベスのミケレッティは表情豊かな声で、シェイクスピアの台詞が聴こえてくるようでした(話しているようという意味ではなく、声の表情的な意味です)。弱音の臆病そうな不安げな感じもとてもよかった。
マクベス夫人のバルトリも、最初の一声(歌に入る前の手紙の朗読)から『マクベス』の世界に引き込んでくれました。二幕の夜を歌う歌では、夜の空気を肌で感じた。
バンコのザネッラートもだけど、今回の舞台を観ていて、歌唱の上手下手以前に、その人が歌いだすとその世界に一瞬で引き込まれる感じになるか否かに海外勢と日本勢の大きな違いがあるように感じられました。ミュージカルでも同じことをよく感じます。
そんな中で侍女の北原瑠美さん、出番は少ないけれどよかったな。彼女が歌うマクベス夫人の夢遊病の前の場面、そのときの城の空気が感じられてぞくぞくしました。北原さんのtwitterによると、ここはムーティがこだわっているシーンの一つだそうで、ムーティ曰く「このシーンの如何によって夢遊病のアリアが生かされもするし台無しにもする」とのこと。うんうん、すごくよくわかります。
今回は「演奏会形式(字幕付)」で、私は4階正面席だったので皆さんの顔の表情が見えていたわけではないのです(主役お二人を数回オペラグラスで覗いたらしっかり演技をされていて、一階席を取ればよかったかなと少し後悔したけれど)。でも「オケの音の表情」と「ソリストの声の表情」を耳いっぱいに感じることができて、舞台の上に目に見えない世界が目に見えるように広がっていくのは演奏会形式の良さだなと感じたのでした。

合唱の皆さんも素晴らしかったです。やはりその声から世界が見えました。
女声合唱の凄みのある透明感で歌われるブラックでユーモアある魔女達の歌も楽しくて、引き込まれました。彼女達の歌い方にはシェイクスピアであることの軽みが足りないという感想を見かけたけれど、それも確かに理解できるけれど、今回はそのギャップにぞくぞくしました。
4幕冒頭とラストの祖国スコットランドを歌う合唱。マクベスの破滅から壮大な音と声の美しさにひたすら圧倒されるフィナーレで終わる流れは、単純な勝利の喝采やマクベスへの皮肉だけではない何かが心に残って、でも晴れやかな気分で劇場を後にできて、いいよね。

で、最後にムーティさま。
若いなあ!
現在79歳というと、アルゲリッチと同い年なんですね
背筋がすらっと伸びてて、動きも軽やか。シカゴ響のときほどではないにしろ相変わらず跳ねているし、スッと伸ばす手の動きも美しい。その腕の雄弁なこと、オケから引き出す音の鮮やかなこと。良い演奏ではいつも感じるように、指揮者が魔法使いのように見えました。
退場時のciao♪なお手手も変わらず。
来年の春祭は『仮面舞踏会』での来日とのこと。でもその前に今秋にウィーンフィルとの来日がありますね。聴けたらいいな。

カーテンコールは客席総立ち。私ももちろんスタオベ。
こんなに空席があることが本当にもったいないと感じてしまった。
この素晴らしい演奏を一人でも多くの人に生で聴かせてあげたかった。それは今月の歌舞伎座の桜姫にも感じたこと。
コロナのバカヤロー!!と心底思いました。
その後、三度目の緊急事態宣言の発表が。
政府のバカヤロー!!
全員マスクして前向いて座席間隔あけて黙って舞台を見ているだけの劇場を終日閉鎖して、マスクとって食べながら喋るひとたちで溢れてる飲食店は夜8時まで営業OKってどういう理屈よ8時を境にウィルスの感染力が強まるわけでもあるまいし。そもそも大事なのは時間や場所ではなく、一人一人の生活の中での注意と意識でしょう。その意識さえ徹底させられれば劇場も飲食店も美術館も百貨店も終日開けていても本来問題ないはずなのに、政府が率先してオリンピックをやるとか言ってるから国民の意識も緩むんでしょーが。
東京文化会館は緊急事態宣言により25日から来月11日まで休館とのこと。ムーティさまの悪運の強さよ


これは観客にとっても同じですよね。
少なくとも私にとっては、音が風景や人の心となって目の前に実体をもって立ちのぼって、感触や匂いも伝わってくるように感じるのは生演奏でだけ。その音が手で触れられるようなのは生演奏でだけ。機械を通しては感じられません。
数日たった今でも夜寝る前や朝目覚めたときにふと、あのとき見えたスコットランドの風景や空気を感じてしまっています。


バンダも素晴らしかったです!良い音だなと思わず舞台上で探して、ああバンダなのだと気づいたのであった。客席から聴く良いバンダってワクワクしますよね。


読んでるだけの私も萌


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イタリア・オペラ・アカデミー in 東京 vol.2
リッカルド・ムーティ指揮《マクベス》(演奏会形式/字幕付)

マクベス(バリトン):ルカ・ミケレッティ
バンコ(バス):リッカルド・ザネッラート
マクベス夫人(ソプラノ):アナスタシア・バルトリ
マクダフ(テノール):芹澤佳通
マルコム(テノール):城 宏憲
侍女(ソプラノ):北原瑠美
医者:畠山 茂
召使い:氷見健一郎
刺客:氷見健一郎
伝令:片山将司
第一の亡霊:片山将司
第二の亡霊:金杉瞳子
第三の亡霊:吉田愼知子

管弦楽:東京春祭オーケストラ
合唱:イタリア・オペラ・アカデミー合唱団
合唱指揮:キハラ良尚

ヴェルディ:歌劇《マクベス》(全4幕)
[上演時間:約3時間(休憩1回含む)]












 前回2019年の「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」の《リゴレット》のあと、「次はさらにいい歌手を呼ぶから」と予告して帰って行きました。ムーティがアカデミーに若手歌手を起用するのは、もちろん「育成」といテーマに沿っているのですが、大物歌手は10日も2週間もある長いアカデミーに付き合ってくれないし、出演料も高くなるからという現実的な理由でもあります。今回の《マクベス》では、バンコ役のリッカルド・ザネッラート(バス)は早くから決まっていたのですが、マエストロも深く信頼する彼については、アカデミーの終盤に合流してくれればいいという目算があったようです。 
 その年の夏、鈴木幸一実行委員長らがラヴェンナ・フェスティヴァルを訪れた際、「そろそろ決めてほしいのだけれど」と切り出すと、その年のアカデミーの《フィガロの結婚》の伯爵役を歌っていたルカの名前を挙げて、「彼はいいぞ。絶対にスターになる」と太鼓判。そのひとことでマクベス役が決まりました。
 一方のマクベス夫人役は少し難航しました。私たちからも何人かの候補を挙げて打診したのですが、マエストロのお眼鏡にかなう歌手はいません。夏も過ぎようとしていた頃、「見つけた!」という声が挙がりました。ラヴェンナ・フェスティヴァル総裁でもあるムーティ夫人クリスティーナからです。
 クリスティーナ夫人のプロダクションのオーディションを受けに来た歌手の一人がアナスタシアでした。ムーティ自身も彼女の声を確認して、「まだ粗削りなところもあるがいける」と確信を持ったようです。
東京ハルサイ事務局

へ~
あの海外勢の3人は日本側が決めたのではなく、ムーティが連れてきたのか。

 この日の作品解説は、アカデミーのエッセンスを伝える、いわばムーティの所信表明演説です。現代において、ヴェルディがいかに誤って解釈され、聴衆もそれを歓迎してしまっているか。象徴的な例として挙げられたのは、歌手たちがこれみよがしに、ときにはヴェルディの書いた音を変えてまで高音をのばす習慣です。
「まるでショーの要素のひとつになってしまった。『ゴーーール!』と、サッカーにたとえているテノールまでいる。あるいは背中の曲がったリゴレットが、高音をのばすために、そこだけ背中をピンとして歌ったり」
 と嘆きます。一流の演劇人でもあるヴェルディがそんなグロテスクな行為を許すはずがなく、それを聴衆がもてはやすのは、それが誤った「イタリア」を思い起こさせるからなのだと皮肉っぽいユーモアを交えて。
 「太陽! 海! モッツァレッラ! トマト!…。それが多くの皆さんの考えるイタリア。でもイタリアにはダンテもラファエロもミケランジェロもいる。それが本当のイタリアなのです」
 そうした間違ったイタリア・オペラの伝統を忘れて、今こそヴェルディを本当に理解するときなのだと、熱を込めて語ってくれました。
 ・・・
 ムーティは、《マクベス》ではとくに声の使い方が大事だと説きます。音楽的にではなく演劇的に、俳優のように、と。その最たる例はマクベス夫人の登場のアリアの前にある、手紙を読むシーンでしょう。音符のない、台詞だけの表現が難しい箇所です。
「けっして大声で読んではいけません」
 オーケストラが繊細なピアニシモで弾いているのに、突然朗々と響き渡る声でやって台無しにする歌手がいるのだそう(ムーティは、名盤として知られるフィオレンツァ・コッソットとの録音のとき、ここを彼女と念入りに練習したエピソードを話してくれました)。
 谷原さんのマクベス夫人。
「それだとちょっと甘すぎるかな」
 など、ニュアンスを細かく指摘するムーティのアドヴァイスで、繰り返すたびに、表現が見事に変化していきました。
東京ハルサイ事務局


外国人出演者の入国──コロナ禍の来日実現まで(東京ハルサイ事務局)
※リッカルド・ムーティ「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」vol.2 《マクベス》開催レポート Part1part2part3part4part5part6

オペラ対訳プロジェクト『マクベス』
いつもお世話になっておりますm(__)m


オマケ
春祭公式HPにこんなページがありました。
上野界隈は文学好きにとっても楽しい街ですよね

・・・・「楽堂の入口を這入ると、霞に酔うた人のようにぽうっとした」と、夏目漱石の『野分』にも描かれている旧東京音楽学校奏楽堂は、明治23(1890)年に完成した日本最古のコンサートホールです。

 漱石の弟子である寺田寅彦は『夏目漱石先生の追憶』のなかで、「上野の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生といっしょに出かけた」と記していますが、昭和4(1929)年に日比谷公会堂ができるまで、日本ではクラシック音楽の生演奏をまともに聴ける機会は、東京音楽学校奏楽堂での演奏会くらいでした。
 寅彦は、ここで漱石と演奏会を聴いたときのエピソードを次のように綴っています。
「ある時の曲目中にかえるの鳴き声やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウグウというかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった」・・・

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