プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★歴史は時間軸を遡って学べ!

2006-08-16 09:47:19 | 日記・エッセイ・コラム

 今日の中央紙の社説は、靖国問題一色。産経新聞を除き、他社の論調はいずれも首相の参拝に批判的だ。首相自身の主張も脚色せずに紹介されているが、独善的だし問題の核心を相変わらず、すり替えている印象が否めない。色々な見解があるのが現実だとしたら、14日の小ブログで書いたように、この問題に決着をつけないと、いつまでも日本の戦後は終わりを告げないとの思いだけが強くなる。

 私が注目するのは、経済界が論評を避け静観の構えを見せている点。小泉首相は、「政冷経熱」状態を逆利用し、日中・日韓関係は良好だと強調したが、我田引水だったことを、この沈黙が如実に証明した。後継総理が引き続き、参拝するのであれば、両国との関係を如何にして改善するかとの具体策を示すことが最低限の義務だ。

 さて、テレビ番組で街角の声を聞いていて、若い年代の人達の歴史に対する理解度が低いことに驚いた。マスコミの誘導的な質問にも問題があるのだが、短絡的に参拝是非を問う愚は避けるべきだ。「公約を守ったから良かった」では、郵政解散・選挙時の「民営化に何故、反対するのか」と同次元で、表層的な判断しか期待できない。

 現在の事象の原因が何処にあるかを史実にてらし、時間軸を遡って行くことで、歴史を学ぶ習慣を付ければ、受験のための暗記科目ではなく、日本人としての自覚や愛国心の涵養も可能になると確信する。親が戦中・戦後の世代が多くなって来ただけに、夏休みのテーマとして、親子で現代史を遡ってみたら如何だろうか。


★岩城宏之さんの思い出

2006-08-15 10:12:17 | 日記・エッセイ・コラム

 「オーケストラ・アンサンブル金沢」は、1988年、岩城宏之氏を音楽監督に迎え、金沢市に誕生した日本最初のプロの室内オーケストラだ。N響の終身正指揮者でメルボルンと札幌の交響楽団終身桂冠指揮者でもあった超多忙な岩城さんが、金沢にクラシック音楽を普及させた功績は測り知れない。

 今年6月13日、心不全で逝去(享年73歳)した岩城さんの追悼コンサートが、7月16日に石川県立音楽堂で開催された。いまでこそ、国内だけでなく海外公演までこなす室内楽団として、ゆるぎない地歩を確立したが、誕生にあたっての苦労話をご本人から伺った時のことが懐かしく思い出される。

 1990年9月、金沢市内の料亭で夕食を共にした時のこと。新しいことにチャレンジすることで名を馳せた方だけあって、話題のユニークさに度肝を抜かれた。先ず、ビールを注ごうとしたら、手で制せられ、岩城流のビールの注ぎ方を伝授された。人前ではやらないが、自宅では今も岩城流を実践している。

 忘れられないのは、N響などと互角に渡り合うために、フルではなく40名前後の室内楽団で高い音質を売り物にしようとした戦略だった。”The one and only”とおっしゃったのだが、先見性豊かなビジョンとセンスに感銘を受けた。その言葉通り、次々に北欧諸国で活躍していた多くの外国人奏者をスカウトし、高い評価を得て、楽団の活動範囲は一挙に広がりを見せた。

 一流の外国人奏者を獲得した秘訣は、当時、米ソの冷戦終結後、生活苦に陥っていた楽団員を対象に公募したこと。東京、大阪などのオーケストラ団員よりも高いギャラを保障したので、北欧の優秀奏者がこぞってテストを受けに来たと、誇らしげな顔をされた。「上手い奏者は下手に合わせることが出来るが、下手な奏者は上手い人に合わせられない。これが、この楽団の哲学だ」との言葉は、その後の私の人生訓になった。

 大きな指導者を失った楽団が、これからどうなって行くのか不安だが、楽団誕生以来18年間、支え続けて下さったマエストロ岩城に感謝し、お元気だった頃を懐かしく思い出している今年のお盆だ。


★靖国問題に決着を!

2006-08-14 08:51:31 | 日記・エッセイ・コラム

 明日は61回目の終戦記念日。小泉首相が靖国参拝をする日でもある。首相就任時の公約に掲げながらも、過去5回とも8月15日を避けたが、今年は公約通りの日に参拝するに違いない。

 この国の将来ビジョンを国民に熱っぽく語ることがなかった小泉首相には、個人の信念がすべて。政治・外交問題に発展しようとも、妥協という二文字は存在しないだけに、明日の参拝は確実だ。

 昨日、一昨日と二日間、ブログを休み、徹底的にこの問題に関する資料を読みあさってみた。靖国神社の系譜から合祀・分祀を巡る論文、更には、追加合祀を求める遺族や、逆に分祀を願う合祀遺族に到るまで、それぞれの立場で主張の隔たりが大きいことに驚いた。また、靖国神社側の信仰論や政教分離論、或いは、無宗教的な追悼施設建設等々、具体的な対策に関しても意見が広範にわたっていた。些細なことだが、靖国神社の宮司には、神官としての資格が不要なことも初めて知った。

 さて、自民党総裁選の趨勢は、ほぼ決着をみた今、最有力候補者が、本問題に対して一番曖昧な態度であることに不安を禁じえない。広島・長崎の被爆者の生き証人も少なくなり、戦争体験が風化されつつある中で、沖縄の米軍基地移転問題や北朝鮮のミサイル脅威への対処策は、国防と自衛隊のあり方論、更には、憲法改正問題へとつながる。

 中国・韓国から指図されるといった次元からではなく、日本として靖国問題を先送りせず、真正面から解決に取り組むべき時ではないのだろうか。21世紀の国のビジョン不在のまま、国際社会でのポジショニングを模索するのはもう止めにして欲しい。そうでないと、日本の戦後はいつまでも終わらない。


★少子化の真の原因

2006-08-11 15:05:34 | 日記・エッセイ・コラム

 小ブログでは、少子化について経済支援策では解決出来ないと繰り返してきた。更には、少子化やむなしと踏み込んだ発言もした。既に、少子化時代に突入しており、それを食い止める有効策が見出せないまま、お金を投入するのは、砂漠に水撒きするようなものだと思うからだ。

 むしろ、少子高齢化を前提にして、社会構造や生活形態を再構築した方が、国民は豊かな生活を送ることが出来ると思う。最近、政府機関の調査データを分析していて、私の推論が正しいとの確信を持てるようになってきた。

 それは、世帯構成人員が減り続けているのに、親と同居する子供の数が増えているという矛盾する現象だ。更には、結婚年齢が高くなっている。それぞれ別の調査結果だが、マクロ数字とミクロのギャップに少子化の真の原因を見た気がした。親子が同居すれば、子供は家賃と食費がタダになるし、親にしてみればイザという時、頼りに出来るので、双方にメリットがある。少々の不自由さがあっても先行き不透明で不安定な社会とあっては、高齢の親が身内を頼るのは当然のこと。必然的に同居家族数が増えることになる。

 子供の側には、収入が少なくても支出が抑えられるので、正規雇用でなくても、パート・派遣社員の処遇で満足し、稼いだ分をすべて自分の趣味や娯楽に使うという寸法。気苦労がなく、優雅な生活を送っていれば、自ずと結婚への焦りは消失し、晩婚化すれば出産率も低下するのが道理だ。

 本来の家庭のあり方からすれば、好ましい現象なのだが、地域間での差があるので大都市のデータが全体の数値に影響し、真因が隠れてしまうのだ。勿論、仮説だが、財務基盤が脆弱な自治体が合併したように、所得格差社会がもたらした離散家族の回帰現象なのかも知れない。


★亀田親子へのエール!

2006-08-10 09:13:58 | 日記・エッセイ・コラム

 ボクシングの亀田選手のジャッジ問題が、人格問題にまで広がりを見せているのをみていると、日本人のメンタリティの低さを象徴するようで情けない。

 発端となった判定問題。WBC野球で、日本チームが抗議した判定も記憶に新しいし、女子サッカーで北朝鮮チームが暴力行為に及んだのもジャッジ問題だ。かつて、ファイティング原田が豪州で3度のダウンを奪っても負けたのは語り草になっている。ホーム・ディシジョンは良いとは思わないが、ボクシングに限らず、人間がジャッジする場合、主観を排除することは不可能だ。むしろ、当の選手以外の者が大げさに騒ぎ、話を混乱させている。

 「亀田は負けていた。同じ日本人として恥に思う。申し訳ない」などと、ベネズエラ大使館へ電話をかけたり、メールを送ったりした人達が1000人以上いたという。「日本人の良識に感心した」と誉める評論家には反吐が出る。リングで命をかけて戦った選手に送る言葉ではあるまい。

 亀田は、全力で戦ったし、結果が持つ意味を誰よりも理解している筈。表現のまずさは別だ。ファンがWBAの審判員に抗議したいなら、それはそれで良いが、亀田には、次回はKOで勝てよで済ますべきだ。テレビに引っ張り出し、それに飽き足らず父親とゲストを喧嘩口調で対立させた企画は、茶番を通り過ぎて見苦しい。

 全ては、メディアが亀田親子をプロモーションの道具に使い、高視聴率を叩きだし、面白おかしく興行をうっただけのことだ。父親や本人の言葉遣い・マナー不足をとやかく言うが、彼らは飾り立てようがない素材なのだ。チャンピオンらしく優等生的な発言を期待する人たちは、野生動物をペットとして飼ったが、手に負えなくなったので捨ててしまう無責任な飼い主と大差ない。

 最後に、プロスポーツは、少々の違いはあろうともショービジネスの世界であって、高校野球のように純スポーツとして観るのは止めた方が良い。悪役レスラーや、粗暴さを売り物にしたプロ選手が人気をはくすのは、ショースポーツとの割りきりがあってのこと。何故、今回の亀田選手の件だけを別格に扱おうとするのか、ぶれ過ぎる価値観の落差にがく然とした。