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時悠人chosan流処世術

★岩城宏之さんの思い出

2006-08-15 10:12:17 | 日記・エッセイ・コラム

 「オーケストラ・アンサンブル金沢」は、1988年、岩城宏之氏を音楽監督に迎え、金沢市に誕生した日本最初のプロの室内オーケストラだ。N響の終身正指揮者でメルボルンと札幌の交響楽団終身桂冠指揮者でもあった超多忙な岩城さんが、金沢にクラシック音楽を普及させた功績は測り知れない。

 今年6月13日、心不全で逝去(享年73歳)した岩城さんの追悼コンサートが、7月16日に石川県立音楽堂で開催された。いまでこそ、国内だけでなく海外公演までこなす室内楽団として、ゆるぎない地歩を確立したが、誕生にあたっての苦労話をご本人から伺った時のことが懐かしく思い出される。

 1990年9月、金沢市内の料亭で夕食を共にした時のこと。新しいことにチャレンジすることで名を馳せた方だけあって、話題のユニークさに度肝を抜かれた。先ず、ビールを注ごうとしたら、手で制せられ、岩城流のビールの注ぎ方を伝授された。人前ではやらないが、自宅では今も岩城流を実践している。

 忘れられないのは、N響などと互角に渡り合うために、フルではなく40名前後の室内楽団で高い音質を売り物にしようとした戦略だった。”The one and only”とおっしゃったのだが、先見性豊かなビジョンとセンスに感銘を受けた。その言葉通り、次々に北欧諸国で活躍していた多くの外国人奏者をスカウトし、高い評価を得て、楽団の活動範囲は一挙に広がりを見せた。

 一流の外国人奏者を獲得した秘訣は、当時、米ソの冷戦終結後、生活苦に陥っていた楽団員を対象に公募したこと。東京、大阪などのオーケストラ団員よりも高いギャラを保障したので、北欧の優秀奏者がこぞってテストを受けに来たと、誇らしげな顔をされた。「上手い奏者は下手に合わせることが出来るが、下手な奏者は上手い人に合わせられない。これが、この楽団の哲学だ」との言葉は、その後の私の人生訓になった。

 大きな指導者を失った楽団が、これからどうなって行くのか不安だが、楽団誕生以来18年間、支え続けて下さったマエストロ岩城に感謝し、お元気だった頃を懐かしく思い出している今年のお盆だ。