電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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わが師、安岡正篤との出会いは『世界の旅』という一冊の本であった。「驚愕」というのは、あの日独伊枢軸同盟のナチス全盛時代に痛烈にヒトラーやムッソリーニを批判していることだった。
『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p140 )
第5章 修己治人の人間学
◆『世界の旅』の戦慄と恍惚
筆者の経験を書いてみたい。
わが師、安岡正篤との出会いは『世界の旅』という一冊の本であった。
旧満洲国立建国大学の学生時代で、日曜の外出に本屋へ立寄り、何気なく手にとった本だったが、寮の自習室でそれを開いた時の驚愕と喜びは今でも、そのまま甦ってくる。
「驚愕」というのは、あの日独伊枢軸同盟のナチス全盛時代に痛烈にヒトラーやムッソリーニを批判していることだった。
何しろ、学内にまで憲兵が入ってきた時代だけに禁断の木の実を齧(かじ)ったような恍惚と戦慄を覚えた。たとえば、こんな個所である。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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わが師、安岡正篤との出会いは『世界の旅』という一冊の本であった。「驚愕」というのは、あの日独伊枢軸同盟のナチス全盛時代に痛烈にヒトラーやムッソリーニを批判していることだった。
『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p140 )
第5章 修己治人の人間学
◆『世界の旅』の戦慄と恍惚
筆者の経験を書いてみたい。
わが師、安岡正篤との出会いは『世界の旅』という一冊の本であった。
旧満洲国立建国大学の学生時代で、日曜の外出に本屋へ立寄り、何気なく手にとった本だったが、寮の自習室でそれを開いた時の驚愕と喜びは今でも、そのまま甦ってくる。
「驚愕」というのは、あの日独伊枢軸同盟のナチス全盛時代に痛烈にヒトラーやムッソリーニを批判していることだった。
何しろ、学内にまで憲兵が入ってきた時代だけに禁断の木の実を齧(かじ)ったような恍惚と戦慄を覚えた。たとえば、こんな個所である。
● ヒトラーが久しく提唱してきた「一民族、一国家、一総統」主義は彼自らの手によって破棄され、チェック民族を併合した。彼はチェック民族とゲルマン民族との不可分の関係を論じているが、それは弁解であって、彼が従来の主義を破ったことは、何としても否めない。このため、周辺の小国は俄然、色めきたち、英仏は極度に緊張し、欧州大乱は決定的となった。これはヒトラーのために上策ではなかった。
● 精神分析学の大家、ウィルヘルム・ステケルは「ムッソリーニの権勢欲と歴史的人物たらんとする慾望は、父に対する愛と憎しみとの双極的性癖からでている」と説いている。そういう性癖を心配した母は宗教学校に入れたが、喧嘩ばかりしていて、「お前の魂は地獄のようにまっ黒だ。懺悔せよ。でないと追放する」と終始、教師から叱責された。
後年、彼は「俺の生涯で、誰が俺にやさしくしてくれた者があったろうか。誰もいはしない。家は目もあてられぬほど貧しく、俺の生活は惨苦だった。どこで俺はやさしさを覚えたか。学校でも、世の中でも覚えはしなかった。俺がむっつり淋しく、きつく烈しいのは当然だ」と人に述懐したそうである。
こういう厳しい時局批判や人物論の奔流の合間、合間に、それこそ微風が竪琴(たてごと)に戯れるような一節がひょいと出てくる。それが身にしみて「読書の喜び」を覚えさせた。
● 昔からスイスは文人や亡命客が集まる処だが、いかにも魂を療(いや)すにはよい処である。
ジュネーブにはルソーが生まれ、カルヴィンやファーレルやヴォルテールも住んでいた。まだローザンヌにはヴォルテールやディッケンズも滞在したし、ギボンは、その名著『ローマ帝国衰亡史』の一部をここで書いた。
そういう追想はかぎりないが、私には、どうもアミエルが一番、スイス的に偲(しの)ばれる。私は毎夜、就寝前に携えていた『アミエルの日記』を所かまわず散見して、清くやすらかな眠りについた。
いわく「人生の重要な問題になると、われわれは孤独である。そして、われわれの真の歴史は、ほとんど他人には解釈できるものではない。戯曲の重要な部分は独白である。というよりも、彼とわれわれの良心とわれわれ自身との親しい討議である」
いわく「何が、人の特性を最もよく表わすかというと、愚かものに対して執(と)る態度が一番である」
いわく「怨(うらみ)は外にあらわれることを怖れる怒である。それは自己の無力を意識している無力の怒である」
というような肝に銘ずる言葉が、いつまでも後に残るのである。
● ナポレオンは恐ろしく名誉心が強かった。権力に対して、猛獣のように貪婪(どんらん)であった。ナポレオンが第一統領から次第に権力を拡大強化して、帝王の位を虎視眈々と狙っていた時、ジョセフィンは女らしい直覚で、それを大変に気づかった。
ジョセフィンは皇后などといわれるより、むしろ、今のままで幸福に暮らしたい。なまじ、ナポレオンが王位などに即(つ)けば、どんなことが始まるかもしれぬ。家庭ももはや家庭ではなくなって、殊に自分とナポレオンとの間には子供がいないから、王位継承問題などで早速、どんな悲しい目に遭わぬとも限らない、と終始述懐していたが、1809年11月、とうとう、ジョセフィンの心配が実際になって、ナポレオンとオーストリア皇帝との通婚の犠牲になった時、彼女は悲嘆のうちにも、「わたしは、かねてこうなることと覚悟していた。あの人は自分の野心のためには人を犠牲にしても構わぬ人だから」といっている。
● エマーソンはその名著『代表的人物論』の中にプラトンを哲学者、スエーデンボルグを神秘家、モンテーニュを懐疑家、シェークスピアを詩人、ゲーテを文人としているのに対して、ナポレオンを俗人の代表として挙げている。
● ナポレオンの逸話なり、言行録なり、伝記なりをひもとく幾千百万の読者は何れも皆、その一頁一頁を楽しむ。それは読者がその頁に自分自身の歴史を学ぶからである。ただ、どうにもならぬことは、ナポレオンのような世俗的英雄は、いつか民衆から飽かれることである。
● 精神分析学の大家、ウィルヘルム・ステケルは「ムッソリーニの権勢欲と歴史的人物たらんとする慾望は、父に対する愛と憎しみとの双極的性癖からでている」と説いている。そういう性癖を心配した母は宗教学校に入れたが、喧嘩ばかりしていて、「お前の魂は地獄のようにまっ黒だ。懺悔せよ。でないと追放する」と終始、教師から叱責された。
後年、彼は「俺の生涯で、誰が俺にやさしくしてくれた者があったろうか。誰もいはしない。家は目もあてられぬほど貧しく、俺の生活は惨苦だった。どこで俺はやさしさを覚えたか。学校でも、世の中でも覚えはしなかった。俺がむっつり淋しく、きつく烈しいのは当然だ」と人に述懐したそうである。
こういう厳しい時局批判や人物論の奔流の合間、合間に、それこそ微風が竪琴(たてごと)に戯れるような一節がひょいと出てくる。それが身にしみて「読書の喜び」を覚えさせた。
● 昔からスイスは文人や亡命客が集まる処だが、いかにも魂を療(いや)すにはよい処である。
ジュネーブにはルソーが生まれ、カルヴィンやファーレルやヴォルテールも住んでいた。まだローザンヌにはヴォルテールやディッケンズも滞在したし、ギボンは、その名著『ローマ帝国衰亡史』の一部をここで書いた。
そういう追想はかぎりないが、私には、どうもアミエルが一番、スイス的に偲(しの)ばれる。私は毎夜、就寝前に携えていた『アミエルの日記』を所かまわず散見して、清くやすらかな眠りについた。
いわく「人生の重要な問題になると、われわれは孤独である。そして、われわれの真の歴史は、ほとんど他人には解釈できるものではない。戯曲の重要な部分は独白である。というよりも、彼とわれわれの良心とわれわれ自身との親しい討議である」
いわく「何が、人の特性を最もよく表わすかというと、愚かものに対して執(と)る態度が一番である」
いわく「怨(うらみ)は外にあらわれることを怖れる怒である。それは自己の無力を意識している無力の怒である」
というような肝に銘ずる言葉が、いつまでも後に残るのである。
● ナポレオンは恐ろしく名誉心が強かった。権力に対して、猛獣のように貪婪(どんらん)であった。ナポレオンが第一統領から次第に権力を拡大強化して、帝王の位を虎視眈々と狙っていた時、ジョセフィンは女らしい直覚で、それを大変に気づかった。
ジョセフィンは皇后などといわれるより、むしろ、今のままで幸福に暮らしたい。なまじ、ナポレオンが王位などに即(つ)けば、どんなことが始まるかもしれぬ。家庭ももはや家庭ではなくなって、殊に自分とナポレオンとの間には子供がいないから、王位継承問題などで早速、どんな悲しい目に遭わぬとも限らない、と終始述懐していたが、1809年11月、とうとう、ジョセフィンの心配が実際になって、ナポレオンとオーストリア皇帝との通婚の犠牲になった時、彼女は悲嘆のうちにも、「わたしは、かねてこうなることと覚悟していた。あの人は自分の野心のためには人を犠牲にしても構わぬ人だから」といっている。
● エマーソンはその名著『代表的人物論』の中にプラトンを哲学者、スエーデンボルグを神秘家、モンテーニュを懐疑家、シェークスピアを詩人、ゲーテを文人としているのに対して、ナポレオンを俗人の代表として挙げている。
● ナポレオンの逸話なり、言行録なり、伝記なりをひもとく幾千百万の読者は何れも皆、その一頁一頁を楽しむ。それは読者がその頁に自分自身の歴史を学ぶからである。ただ、どうにもならぬことは、ナポレオンのような世俗的英雄は、いつか民衆から飽かれることである。