植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

簡体三国志:孫策

2010年12月14日 21時50分09秒 | ゲームシステム
所属:孫堅→袁術→独立
年齢:約26歳(200年の時、26歳で死亡)

 孫堅の長男です。父が彼が17・18歳の時に亡くなってしまった為、父の上司みたいな関係になる袁術の元に留め置かれます。袁術は自身の息子が孫策のようなら良かったのにと思うほど孫策のことはかっており、逆にその為か警戒して孫策を目の届く処に置いていました。実に2年ほど何も出来ずにいました。そん中、孫策は父の残した玉璽をかたに袁術から1000人ほどの兵を借ります。この1000人には、父の軍団の中核を成した朱治、黄蓋、韓当、程普といった猛将が揃っていましたし、さらに孫策はこの不遇の間に、父と異なり張紘や張昭といった軍師や、蒋欽、周泰、陳武、凌操といった武将の登用を積極的に行いました。

 そして時が来ます。袁術が揚州の支配権を巡って劉ヨウと争い出します。袁術は孫策の叔父である呉景を派遣しますが、劉ヨウの守りは堅く、1年経っても落とせません。そこで孫策は叔父の援軍を申し出ます。袁術もまさか1000人では何も出来まいと考え、許可を出します。すると孫策は瞬く間に、劉ヨウ軍を打ち破って、揚州から劉ヨウを追い出してしまいます。
 さらに孫策は呉郡の許貢、会稽郡の王朗も打ち破って広い揚州の大部分を支配下に収めます。しかし、電撃的な勢いで制圧した為に、その支配地域には各地に残党が残ることになります。その1人が許貢です。許貢は、曹操に助けを求めるべく、「孫策の勢いは項羽に似る」と上奏しようとします。これが覇王と呼ばれた項羽に似ると言うことから孫策が「江東の小覇王」と呼ばれる所以です。漢王朝時代に、漢王朝の創始者 劉邦の敵だった項羽のようだ!と言われるのはかなりまずいです。孫策は直ぐに許貢を討ち取ります。これが後に災いとなります。

 そんな中、袁術が皇帝を僭称し始めます。今まで孫策は自身の武力による実効支配と、漢王朝の名門で、高い官位を持つ袁術の傘下と言う支配の正統性の両面によって揚州の支配を実現してきました。しかし、袁術が僭称と言う暴挙に出ると孫策は皇帝を擁立する曹操に近づき、曹操から支配の正統性である騎都尉・鳥程侯・会稽太守と言った官位を貰います。
 その後、袁術が自滅すると、袁術の兵力を吸収していた劉勲を打ち破り、さらに豫章太守華歆を武力を使わずに降伏させるなどして、ついに揚州のほぼ全域を支配します。

 200年孫策は曹操が袁紹と戦っている隙をついて、曹操の本拠である許都に侵攻し皇帝を奪取を計画します。しかし、実現の前に、許貢の食客だった者たちに襲撃されて重傷を負ってしまいます。そしてそのまま後継者に弟の孫権を指名すると僅か26歳で亡くなってしまいます。

 孫策の能力はかなり悩みました。孫堅と能力に差を付けたいこともあって。統率は上記の記述から見ると5でも良いのですが、あえて4としました。一応各種他のゲームでも統率は 孫堅>孫策 なんで問題ないと思います。恐らく、黄巾の乱から各地で戦果を挙げた孫堅と、江東を中心にしか戦果を挙げる機会が無かった孫策との差でしょう。
 一方、異議は出るのを覚悟で、武力を5としました。理由としてはマーク○の5が居なかった為に武力で名の知れていた太史慈の武力を5にしたこと、この太史慈と同等に渡り合ったのと、また演義以外で唯一と言って良い一騎打ちの記述が残っていることと、張紘に大将なのに先陣に立つな!と諌められていることから、かなり腕っ節が強かったと思われることからです。
 政治は、父と違って太守を務めた実績が無いので2。一方、知力は統率を落とした分を上乗せして3です。まあ、戦争の仕方が父に比べ策を用いていること、そして戦略性を持って袁術からの独立と江東支配を確固たるものとしたことも評価してです。で、4/5/2/3 となり、父とは1つづつズレた面白いキャラとなった次第です。
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