植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

チベットと中国の版図

2008年03月20日 20時40分48秒 | 国:日本・アジア
 中国がチベットで揉めています。チベットは、中国の西にある広大な地域で、今の中国のチベット自治区と、青海省、そして四川省の西部にあたり、以前から自治権や独立などで揉めている地域です。

 ここで少し、歴史的な「中国(漢民族)」の版図を見てみたいと思います。

 掲載した地図は、今の中国の行政区分で、チベットや新疆ウイグル、内モンゴルなどの5つの自治区と、青海省・雲南省・黒竜江省・吉林省を薄い灰色で、それ以外の省を濃い灰色で示しました。そこに前漢・唐・明それぞれの時代の版図を色で表してみました(適当な部分も多々あるのですが…大体と言うことで)。

 中国最初の統一王朝が築かれた秦、そして漢民族といわれるように、今の中国の原形が作られた漢。この時代の版図は、ほぼ濃い灰色の地域と重なります。この範囲が歴史的な漢民族の領土と考えて良いでしょう。北西に突き出ている部分は「河西回廊」と呼ばれるシルクロードで、その要所を漢がおさえていたことが伺えます。

 時代が下り唐の時代になると、度々唐を侵略する中央アジアの遊牧民族 突厥を逆に侵攻して滅ぼすことで、唐の勢力は西域を越え、中央アジアのオアシス都市まで及び、イランのアッバース朝と領土争いをするほどでした。今の新疆ウイグル自治区は完全に唐の支配化です。
 一方、満州の地域は渤海国、チベットには吐蕃王朝、雲南省あたりには南詔国が成立しています。

 さらに時代が下り、モンゴル人を北に追いやって成立した明は元が支配していた女真族が治める満州と、雲南の梁王国(大理)※1をそのまま支配下に起きます。
 一方、北にはモンゴル人の元(北元)が依然存在し明を脅かし、西域もまたモンゴル系の遊牧民国家ヤルカンド・ハン国が支配しており、チベットもグゲ王国、つづくグーシ・ハーン王朝※2が支配していました。

 これが一変するのは女真族の清が成立してからです。

 明から独立を果たしたヌルハチは満州に後金国を打立てます。その後継者ホンタイジの代には内モンゴルを平定し、国名を清とします。その子、順治帝のとき李自成の乱によって明が滅亡すると北京などの華北を支配下に置き、その子康熙帝は明の残党である南明を滅ぼすと雲南などを含む華南一体も支配下に置きます。
 さらにその次の雍正帝により、チベットのグーシ・ハーン王朝が征服され、次の乾隆帝はヤルカンド・ハン国を滅ぼし西域を支配していたジュンガル部族を征服し、この地を支配下に起きます。

 これで清の領土は、今の中国の領土にモンゴルを加えた地域となり、それがそのまま今の中国の国境となっています。※3


※1:雲南の南詔国の後にこの地を支配したのは、ビルマ系の大理国でした。しかし、モンゴル人の中国支配の過程で支配され梁王国が成立します。しかし、大理の王族はモンゴル人の支配者と婚姻関係を結ぶことで一定の支配力を保ち続けます。どちらも明によって滅ぼされますが…

※2:グーシ・ハーン王朝の初代王グーシ・ハーンは熱烈なダライラマの信者だった為、以後チベットではダライラマの権威が上がり、ガンデンポタンと呼ばれるダライラマを頂点としたチベット政府が作られます。グーシ・ハーン王朝滅亡後も清・中国支配下でもチベットの自治を行いますが、1959年のチベット動乱の際にインドに脱出し、チベット亡命政府として今も存続します。

※3:今のモンゴルは清の弱体化により、北のロシアの援助で1911年に独立を果たします。また、ロシアの沿海州と呼ばれるウラジオストックの辺りも元々は清の領土でしたが、1860年の北京条約によってロシアが領有しました。



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23 コメント

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元、清ともに異民族の国家ですよね (オビケン)
2008-03-23 09:50:27
モンゴル族はともなく、満州族は現在の中国の少数民族のひとつなんで、正確には異民族という表現は正しくないのでしょうが・・・漢民族の国家ではないですよね。
漢民族の国家で最大版図は、やはり河西回廊に西域の天山山脈の北路を押さえた唐ではないでしょうか(ただ、皇帝である李家は異民族の血が流れていたという説もありますが)。
そう考えると、やはり現在の中国の版図は漢民族の歴史的な版図ではないような気がします。
むろん、中華人民共和国は漢民族だけの国家でなく五十いくつの少数民族が共存する国家です。・・・ただ同じ複数の民族が共存する国家として、中国はアメリカと比べてマイノリティの権利保護が弱い気がします。(各民族を平等には扱っているのでしょうが)

以前、自分の日記で書いたのですが
よく歴史好きの人の間で話題になる話として
「豊臣秀吉に時間があれば、朝鮮出兵を始まりとして明を制覇し、中国支配ができたか?」

「ただし、中国支配ができたとして、そのまま日本は中国に飲み込まれ、中国の一地方になっていたろう」
というものがあります。
自分の結論としては、前者は○、後者は×です。
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面白いですよね。 (千夜)
2008-03-23 20:54:18
元が漢王朝じゃないのは知られていますが、清はあまり知られていないですよね。
よく思う疑問なのですが、ヨーロッパは複数の国に別れ、同じくらいの広さの中国は1つの国と言うのは、地形的問題ですかね。ヨーロッパは半島が多いからとか?

あと、ヨーロッパに侵入した民族ってそのまま居つきますが、中国に侵入した遊牧民は帰って行きますよね。
返信する
でしたっけ? (たかゆ)
2008-03-24 13:08:16
 帰っていく遊牧民と言っても元朝北帰ぐらいしか思い浮かばないのですが、他にもありましたっけ?
 五胡はそのまま居付いてるし、北魏から唐も居付いてません?
 一言で言えばベースキャンプの所在じゃないっすかね。
 モンゴル高原を起点に進出して、高原を掌握していれば帰れるし、他が握っていれば帰れない。
 ヨーロッパの場合でも、パンノニア平原を掌握した遊牧民(フン、アヴァール、マジャール)はそこを起点に出入りをしていたみたいですし、ゲルマン諸族の移動なんかはフンの移動による玉突きらしいですから、パンノニアに帰る余地は無いワケで、居つくしかないですよね。

 統一と分立については、国という概念の差異とか、皇帝という存在の差異辺りも関係するような気はしますが、何とも。
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Unknown (探偵の)
2008-03-24 17:11:30
半島を維持しつつ大陸に戦力展開を考えた場合
日本ががんばっても北京占領が
精々じゃないでしょうか?

半島経由よりは台湾や南京経由で始めた方が
可能性は高そうな気がします。

あれだ、李自成は日本人だったと主張するのはどうニダ?
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明は倒せる。 (たかゆ)
2008-03-24 19:07:13
 半島制圧できれば、遼東を押さえて北京は目と鼻の先です。そして北京が陥落すれば、その時点で「南明残党など恐るるに足らず」と宣言して明を倒したと言い張ればオッケーじゃないッスか。これで明は制覇できますよ。
 確かに、前者が○で、後者が×ですね。(^^;
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Unknown (探偵の)
2008-03-24 20:28:15
半島維持が問題かと思うんだ
成功した国家が無いじゃん
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制覇は可かも、維持は難しいかも (千夜)
2008-03-25 22:40:34
匈奴とかは漢に攻め入っては荒らして帰っていきますね。結局、漢が強くなって攻め入れなくなりましたが…(^_^;)
でも、鮮卑なんかは、そのまま中国に居ついて、北魏を建国し、漢化しましたから、欧州との差異は居つく/居つかないではなく、民族のアイデンティティーを持ち続けるか否かかな~?(多少ローマ化したり、キリスト教を受け入れても、民族として同化しませんよね)

秀吉の明攻略の可能性は判りませんが、時代が違うのでなんともですが、日中戦争で半島や満州などを占領しましたが、そこまでだったように同じ経過をたどる気がします。
日本は撤退で、漢化はしないかな。
返信する
なるほど (たかゆ)
2008-03-26 01:34:36
 いわゆる「制服王朝」のハナシかと思いきや、モンゴル高原の遊牧民一般のハナシなんすね。
 であれば、上に述べた地理的、物理的問題じゃないかしら。
 パンノニア平原に割拠したフンはローマに攻め入っては荒らして帰っていきました。ゴートなんかはイタリア半島やイベリア半島に居着いて王国を築き、カトリックに改宗しています。
 鮮卑が魏を起こした頃は高原は柔然に掌握され帰る余地はありませんでした。

 さらに言えば、民族のアイデンティティとか、「漢化」って何でしょうね。高原の人口が匈奴という民族、鮮卑という民族に置き換わるかと言えばさにあらず。匈奴という旗印に結集した牧民集団が匈奴であり、鮮卑という旗印に結集した牧民集団が鮮卑であったようです。モンゴルも然り。近代ナショナリズムに見る「民族」という括りではしっくり来ないらしーですよ。まぁ、全部他人の受け売りですケド。
 そんなワケで、中世において近代的意味での「民族のアイデンティティ」が存在したという言説について、アタシは懐疑的です。ゲルマン諸族にしても、彼らは自分たちの話す方言を「ラテン語」だと考え、ラテン語を公用文書言語とするラテン語世界を構成し、ルネサンスまで続いているのですから。

 結局「漢化」って、漢文資料で史書が編纂される辺りがキモなんじゃねーかって気がします。遊牧帝国でもペルシア語で史料が残ればペルシアの王朝として研究されるし、ラテン語で残れば欧州諸国の仲間入りです。それでもその支配階層に着目した研究なんかでは遊牧帝国としての有り様が見えることがあって、それは本当に「漢化」「ペルシア化」「欧州化」であるのか、と。
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ついでに (たかゆ)
2008-03-26 13:11:01
 清朝の広大な版図は単一の「国家」というよりは、アイシンギョロ家が個別に君臨する「五重帝国(同君連合)」のよーなものらしいッスよ。

 ・マンジュ・グルンのハーン
 ・大モンゴル・ウルスを継承する大ハーン
 ・大明から禅譲された皇帝
 ・チベット仏教の最大施主
 ・ムスリムの庇護者

 ってな具合で。(オーストリア皇帝、ハンガリー王として個別に君臨したハプスブルクの二重帝国みたいなイメージなんでしょーね。)

 余談ですが。
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漢化の限界点 (オビケン)
2008-03-29 11:06:34
この漢文史書で編纂されるのが続くかがキモではないかと思いますね。
自分としては、たかゆさんが述べているように匈奴、鮮卑(されらに下ればモンゴルも)民族的違いを見出す意味がないと思います。これは漢民族側も同じであれば、本人たち遊牧民族たちにも違いを見出す意味がなかったのではないでしょうか。
以前、千夜さんの述べておられる「侵略民族が中国は帰るが、欧州は残る」ですが、これは同化されるかされないかという意味で考えるとしっくりきますね。
欧州への侵略というのが最盛期だったのはローマ滅亡前後の数百年ですが、この時期の侵略者であるゲルマン族たちは、ガリア戦記で書かれているように自分のテリトリーの周囲に無人地域を設けるような「殲滅するか・されるか」の統治スタイルの意識をもっていたことから、ある程度アイデンティティを保てたのではないでしょうか。
中国の場合は、そのまま漢民族の海の中に入っていく形の侵略だったので、同化して消えていったのだと思います。だからこそモンゴルや一時的な侵略であった場合が「帰った」ように目立つわけで。
ここで北帰したモンゴルだけ同化しなかったのは、多くの学者が述べているように、漢文化に触れる前に(漢文化に対抗できるだけの力を秘めた)イスラム文化を吸収してからではないでしょうか。
・・・たしかモンゴルじゃなかったでしたっけ?華北制圧後に全土を牧草地にしようと考えた王がいたのは・・・
そういうモンゴルが漢民族に同化せずに北帰したのは当然の帰結ではないでしょうか。

塩野七生さんが言われた、世界に覇する大国の条件として
「軍事力以外で他国・民族を圧倒させる文化が必要。そしてその文化は普遍的なもので、かつ受け入れる側の敗者にとってもメリットのあるものでないといけない」
と述べられてました。
これは納得させられる話じゃないかなと思います。
アメリカの民主主義、イスラムの宗教、ローマの土木技術(法体系という方もいるかも知れませんが)・・・
で、漢民族は体系づけられた文明・文化です。(他の大国みたいに代表的なものがないですが)

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