植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:王允

2012年06月30日 08時49分53秒 | 三国志
 実は、サクサク三国志のデータ集を考えています。このブログに結構な人数の武将を紹介したので、これを紙モノとして取りまとめようと・・・
 しかし、意外にも苦戦しています。紙なのでページを意識しないといけないので、文章をある長さにしなければいけないし、ブログではしゃべり言葉でもいいのですが、書き言葉にしないといけなかったり・・・まあそんな感じで、1週間に1人・2人のペースなんで、どれだけかかるやらです。(^_^;)
 さて、今日はそんな中から、王允の紹介文です。
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 太原郡の名士の家柄。同じ太原郡の名儒教家の郭泰から「王允は一日に千里を走り、王を補佐する王佐の才である。」と評されます。
 若い頃から曲がったことが嫌いで、地元で悪さをするものを捕えて処刑します。しかし、仲間が宦官に賄賂を使って訴えたため、事実を曲げられてしまい、逆に上司の太守が罪を問われて処刑されてしまう事態に発展します。王允は自分の軽はずみな行いを責め、3年間喪に服します。
 喪が明けると刺史に召され、その後も順調に昇進して冀州刺史にまでなります。しかし、また十常侍の張譲が黄巾軍と繋がっていたことを告訴して、宮中の実権を握る張譲に逆恨みされ、投獄され、処刑されそうになります。この時は多数の助命嘆願により命を救われます。
 その後、大将軍の何進の元で河南尹、尚書令になり、さらにその後政権を握った董卓によって司徒にまでなり、政権を担うようになります。しかし、実権を握る董卓は縁談を断った未亡人を棒で殺害したり、投降した兵の舌をえぐり抜き、さらに手足を切断して飲食するなど、さまざまな暴虐を行います。これを危惧した王允は董卓の暗殺を計画します。そしてその実行者として白羽の矢がたったのが呂布です。呂布は董卓の養子となり厚遇されていましたが、一度董卓の機嫌をそこね手槍を投げつけられたことから二人の関係は微妙なものとなっていました。
 王允は呂布と同じ出身だったこともあり呂布を抱き込みます。そして董卓の侍女をそれとなく呂布にあてがわすことで二人の関係を決定的なものとします。かくして、呂布は董卓を誅殺し董卓政権は崩壊し、王允が実権を握ることになります。
 しかし、この後王允の悪い癖が出ます。王允は董卓に従った官僚や涼州兵達を粛清します。その為、董卓の部下であった李傕・郭は降伏を願い出ますが、それが受け入れられないと判ると涼州兵を集めて都に攻め入ります。王允側は呂布が応戦しますが、王允に反発した武将の裏切りもあって呂布は敗北します。
敗れた呂布は撤退する際に、王允を連れ出そうとしますが、王允は都に残りそのまま押し入ってきた李傕に捕まり処刑されてしまいます。


コメント
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