前回、周瑜が魯粛や孫策と共に天下二分の計を推し進めていたことは書きましたが、今回はその周瑜を取り巻く状況に視点を置いてみようと思います。
周瑜は二世三公と言う超名家です。袁氏が四世三公なのでそれよりは下ですが、他の群雄達に比べれば群を抜いています。まさにサラブレッドです。ですので、周瑜が同い年の孫策と知り合って絶金の関係となり、後に孫策が旗揚げした際に周瑜は援軍に駆けつけますが、家柄から考えれば周瑜が君主で、孫策が臣下でもおかしくないのです。
そうならなかった理由としては、孫策が孫堅の軍団を引き継いでいるのに対して、周瑜は親の庇護をあまり受けられなかったのでは無いかと思います。周瑜が成人した際に親や周一族から援助を受けた記述があまり見当たらず、洛陽で県令を勤めた父 周異は没年が不明ですので、既に死んでいたのかもしれません。
そう言った経緯から周瑜は孫策の友人、兼義理の弟、兼臣下となります。そんな関係だった孫策が亡くなり、孫権が後を継ぐと、周瑜は軍事面での補佐を遺言されます。兄が友人待遇で迎え、孫権にも義理の兄だと思えとまで言われていた周瑜が真っ先に臣下の礼を取ったことで、多くのものがそれに従い、これによって孫権はスムーズに孫策の基盤を引き継げたといえます。
孫策の死後から赤壁までの間、孫権の地位は微妙だったと思います。呉を建国する以前なので王位の継承があった訳ではなく、単に孫堅からの軍団と、孫策が支配した領地を引き継いだと言う形です。家臣団の多くも孫堅や孫策に魅せられて付き従った者が多く、代々の家臣と言う訳ではありません。つまり、少しでもボロがあれば孫権の家臣は離反しかねない状況でした。
このような状況で孫権が採った方策は、自身が具体的な方針を述べず、家臣団による合議にしたことです。家臣の意見に反対しないこと。意見のうち片方に賛同することで家臣をつなぎ止めようと苦慮していたのが伺えます。
特に、細心の注意を払ったのは、最大勢力で帝を抱える曹操と敵対するのかどうかです。これには多くの文官が敵対することを危惧し、逆に多くの武官が敵対を是としました。これに対して明確な意見を孫権が出せば、家臣の半分を失いかねないだけにこの時期の曹操に対する基本戦略はタブーでした。
そんな中、魯粛が曹操に敵対することが可能であることのビジョンを示します。勿論、孫権は心の中で素晴らしいと思っても、こんな国内事情なので「恐れ多いこと」と言って現状を維持を表明するのがやっとです。また同じように判っている張昭も「このような者の意見を聞いてはなりませぬ。」と反対を表明します。張昭も赤壁までは文官の取りまとめ役として、内心はどうであれ曹操に敵対する政策を行わないことを表明することで他の文官達と歩調をあわせる必要があったのかもしれません。(←勝手な解釈です!)
こう言った状況なのは魯粛と言うか周瑜も判っていたはずです。孫権からの答えが NO(と言うか保留)になることが判っていたにもかかわらず、あえて魯粛に天下二分の計のプランを進言させたのは、今は NOでもいずれ曹操に対抗する決断をする際に、可能であることを反対する文官たちに示したかったのかもしれません。
そうすると、この数年後に甘寧が仕官する際に同様に天下二分の計を披露しますが、これも周瑜の差し金では? と思ってしまいます。甘寧を推薦したのは他ならぬ周瑜と、後年 魯粛の後継者となる呂蒙ですから。(この2人は親周瑜派ですね)
こうした前振りを何度も行うことで、周瑜は曹操に対抗することが可能であることを認識させ、一方 張昭は武官が性急に曹操と敵対しないようにブレーキを掛けた上で、他の文官達を取りまとめていったのではないでしょうか?
そして曹操が攻めて来た際に周瑜が勝利できることを延べ、それに対して孫権が戦う意思を示し、これに張昭も従うことで多くの文官も張昭と共に従う意思を示します。こういった下準備が、孫呉が一致団結して曹操に対抗できたのかも知れません。ちなみに赤壁の際、文官の張昭も兵を率いて、曹操の徐州を攻めるなど、率先して曹操と敵対することを示しています。
周瑜と張昭、二人の関係を見ると赤壁において交戦派の代表と、降伏派の代表と言うことで敵対していたイメージを持ちかねないのですが、もともと孫策に張昭を迎え入れるように進言したのは周瑜ですし、孫策の死後直後の混乱期は周瑜と張昭の2人が率先的に孫権を支えます。そして、曹操から孫権に人質を差し出せと言われた際に反対の意思を示したのは、この2人だけです。実は意外にもこの2人の歩調は合っているのです。まさに孫呉政権の表と裏のような関係だったように思えてなりません。
(まあ、一般的には張昭は保守派で、単純に曹操と組するのには反対だけど、孫権のことは大事に思っていたとされています。)
周瑜は二世三公と言う超名家です。袁氏が四世三公なのでそれよりは下ですが、他の群雄達に比べれば群を抜いています。まさにサラブレッドです。ですので、周瑜が同い年の孫策と知り合って絶金の関係となり、後に孫策が旗揚げした際に周瑜は援軍に駆けつけますが、家柄から考えれば周瑜が君主で、孫策が臣下でもおかしくないのです。
そうならなかった理由としては、孫策が孫堅の軍団を引き継いでいるのに対して、周瑜は親の庇護をあまり受けられなかったのでは無いかと思います。周瑜が成人した際に親や周一族から援助を受けた記述があまり見当たらず、洛陽で県令を勤めた父 周異は没年が不明ですので、既に死んでいたのかもしれません。
そう言った経緯から周瑜は孫策の友人、兼義理の弟、兼臣下となります。そんな関係だった孫策が亡くなり、孫権が後を継ぐと、周瑜は軍事面での補佐を遺言されます。兄が友人待遇で迎え、孫権にも義理の兄だと思えとまで言われていた周瑜が真っ先に臣下の礼を取ったことで、多くのものがそれに従い、これによって孫権はスムーズに孫策の基盤を引き継げたといえます。
孫策の死後から赤壁までの間、孫権の地位は微妙だったと思います。呉を建国する以前なので王位の継承があった訳ではなく、単に孫堅からの軍団と、孫策が支配した領地を引き継いだと言う形です。家臣団の多くも孫堅や孫策に魅せられて付き従った者が多く、代々の家臣と言う訳ではありません。つまり、少しでもボロがあれば孫権の家臣は離反しかねない状況でした。
このような状況で孫権が採った方策は、自身が具体的な方針を述べず、家臣団による合議にしたことです。家臣の意見に反対しないこと。意見のうち片方に賛同することで家臣をつなぎ止めようと苦慮していたのが伺えます。
特に、細心の注意を払ったのは、最大勢力で帝を抱える曹操と敵対するのかどうかです。これには多くの文官が敵対することを危惧し、逆に多くの武官が敵対を是としました。これに対して明確な意見を孫権が出せば、家臣の半分を失いかねないだけにこの時期の曹操に対する基本戦略はタブーでした。
そんな中、魯粛が曹操に敵対することが可能であることのビジョンを示します。勿論、孫権は心の中で素晴らしいと思っても、こんな国内事情なので「恐れ多いこと」と言って現状を維持を表明するのがやっとです。また同じように判っている張昭も「このような者の意見を聞いてはなりませぬ。」と反対を表明します。張昭も赤壁までは文官の取りまとめ役として、内心はどうであれ曹操に敵対する政策を行わないことを表明することで他の文官達と歩調をあわせる必要があったのかもしれません。(←勝手な解釈です!)
こう言った状況なのは魯粛と言うか周瑜も判っていたはずです。孫権からの答えが NO(と言うか保留)になることが判っていたにもかかわらず、あえて魯粛に天下二分の計のプランを進言させたのは、今は NOでもいずれ曹操に対抗する決断をする際に、可能であることを反対する文官たちに示したかったのかもしれません。
そうすると、この数年後に甘寧が仕官する際に同様に天下二分の計を披露しますが、これも周瑜の差し金では? と思ってしまいます。甘寧を推薦したのは他ならぬ周瑜と、後年 魯粛の後継者となる呂蒙ですから。(この2人は親周瑜派ですね)
こうした前振りを何度も行うことで、周瑜は曹操に対抗することが可能であることを認識させ、一方 張昭は武官が性急に曹操と敵対しないようにブレーキを掛けた上で、他の文官達を取りまとめていったのではないでしょうか?
そして曹操が攻めて来た際に周瑜が勝利できることを延べ、それに対して孫権が戦う意思を示し、これに張昭も従うことで多くの文官も張昭と共に従う意思を示します。こういった下準備が、孫呉が一致団結して曹操に対抗できたのかも知れません。ちなみに赤壁の際、文官の張昭も兵を率いて、曹操の徐州を攻めるなど、率先して曹操と敵対することを示しています。
周瑜と張昭、二人の関係を見ると赤壁において交戦派の代表と、降伏派の代表と言うことで敵対していたイメージを持ちかねないのですが、もともと孫策に張昭を迎え入れるように進言したのは周瑜ですし、孫策の死後直後の混乱期は周瑜と張昭の2人が率先的に孫権を支えます。そして、曹操から孫権に人質を差し出せと言われた際に反対の意思を示したのは、この2人だけです。実は意外にもこの2人の歩調は合っているのです。まさに孫呉政権の表と裏のような関係だったように思えてなりません。
(まあ、一般的には張昭は保守派で、単純に曹操と組するのには反対だけど、孫権のことは大事に思っていたとされています。)