植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

天下二分の計:魯粛

2011年12月10日 11時34分22秒 | 三国志
 またまた勝手解釈の三国志談義です。今回は魯粛です。孫呉が好きな私としては、好きな政治家の1人だったりします。演義では諸葛亮に良い様にあしらわれてしまうお人よしですが、史実ではかなりの先進的な発想の持ち主で、三国志史上数少ない長期経営計画を策定できる軍師です。

 政治家には色々なタイプがいると思います。普通に行政を行う政治家。鐘ヨウや王朗、顧ヨウなんかがそうでしょうか。次に立法を行う政治家。九品官人法を制定した魏の陳羣や、蜀では蜀科を作った面々がそうでしょうか。後は政治家の中でも戦争に特化し、戦術や戦略を練ったりする軍師職もあります。郭嘉なんかがその代表格でしょうか。

 三国志の時代は、各群雄が勢力を伸ばし、地盤を固め、国を形成していった時代なので、戦争に勝って、内政を行って、そして法も整備していくことが必要になります。しかし、もっとも重要なのは、これら全体を統括して中長期的なプランで計画を建ててどうすれば建国することが出来るかを考えることです。
 今の企業で言うところの経営企画室が中心的に行っているその企業の中長期計画です。企業はその計画に従って細部の計画を詰めていきますので、その企業の骨子になります。

 三国志でもっとも有名なのが諸葛亮が、劉備に天下三分の計を示したことです。これによって劉備の基本方針が決まります。荊州に地盤を作り、その上で江東の孫権と結んで曹操に対抗する。そして益州も抑えて、チャンスが到来したら、荊州から洛陽を益州から長安を脅かすことで魏を滅ぼし、漢王朝を再興させると言うプランです。
 劉備はこの基本方針に従って、孫権となんども揉めながらも一時的に荊州と益州を所有することで、天下三分までこぎつけ蜀を建国することが出来ました。

 一方、呉の建国に大きく関与したのが魯粛です。

 魯粛は諸葛亮が天下三分の計を提案する10年近く前に初めて孫権に拝謁した際に提案しています。その内容は、長江より南の領土全てを所有することて、長江を防壁として曹操に対抗する。そして曹操が帝を擁しているのを無視して、建国してもう1人の皇帝になると言うぶったまげたプランです。
 何世紀も後になると中国は南北朝の時代を幾つも迎えることになりますが、唯一無二の皇帝を名乗って中華を分割統治すると言うアイデアは当時の人は驚いたことでしょう! さすがに孫権は「恐れ多いこと」と言ってこのプランには直ぐに賛同しませんでした。

 この魯粛の天下二分の計ですが勝手な想像ですが、魯粛が周瑜と初めて会った際に、まさに諸葛亮が劉備に語ったようにこのプランを披露したのではないでしょうか?

 魯粛と周瑜が出会った時、197年頃は魯粛は袁術に召されていたのですが、袁術に嫌気がさして逃亡。追われる身となった魯粛は周瑜に庇護を求めます。あの倉丸ごとあげるよ!エピソードです。この際に魯粛は自分の抱いている野望を周瑜に話し、周瑜もそれに賛同したのでは無いでしょうか?
 この直ぐ後に、周瑜は魯粛のことを孫策に推薦します。そして孫策も魯粛を迎え入れます。これは魯粛の天下二分の計を孫策の基本戦略とすることに他なりません。
 この後、中原は官渡の戦いになっていくのですが、この時に話題となるのが孫策の許昌強襲プランです。曹操が官渡に張り付いているので、許昌を強襲して帝を救い出す(拉致ってくる)と言うものです。しかし、このプランは奇襲な割に、大きく言いふらしています。しかも、この時の孫策の軍の殆どは荊州に向いていました。つまり、孫策は許昌強襲は攪乱の為の流言で、その本意は荊州攻略にありました。事実、199年には周瑜を総大将(中護軍)に据え、江夏太守にも任じて、江夏に逃げ込んだ劉勲と江夏の黄祖を破っています。
 この様に魯粛の天下二分の計は、孫策・周瑜の元で着実に進行していました(魯粛本人は喪中でしたが)。しかし、孫策が暗殺されたことで、大きく頓挫します。
 孫策暗殺後、魯粛は計画をあきらめ失意のまま北に行こうとします。それを止めたのが周瑜です。恐らく周瑜は言ったでしょう「まだ私が居る!」と「私が、天下二分の計を成しえる!!」と。これ以後、魯粛は周瑜の元で天下二分の計を遂行するようになります。

 周瑜・魯粛が天下二分の計を継続する為には、孫策の後継者となった孫権にその計画を認めさせる必要がありました。しかし、前述の通り魯粛が天下二分の計を言うと、孫権は「恐れ多いこと」と言って直ぐの実行は断ります。しかし、魯粛を厚遇することで、保留状態とします(ここら辺の孫権の事情はまた別途やりたいですね)。

 そして赤壁を迎えます。

 孫権内部では、降伏か徹底抗戦かが議論されます。そんな中、魯粛はただ一言、「周瑜殿に意見を聞いてみれば?」とだけ発言します。これはすなわち曹操と戦うなら、その対抗方策としては周瑜・魯粛の天下二分の計しか無く、これを推奨するなら力を貸すよ!と言うことです。(公の場意外では魯粛は孫権に降伏すると冷や飯食わされるよと言っています)
 その後、周瑜が呼ばれ、周瑜は勝算を披露します。これによって一気に徹底抗戦になり、ここより周瑜を総司令官とする天下二分の計が孫権の元、再実行されることになります。赤壁はあくまでその局地戦でしかありません。赤壁で勝利した後も、魯粛は劉備との共闘関係により荊南四郡を攻略し、曹操が派遣した太守を一掃しますし、周瑜は曹仁が守る南郡をなんとか制圧することで、長江以南から曹操勢力を追い出すことに成功します。

 天下二分の計の残す攻略ポイントは益州です。周瑜は益州への侵攻を計画しますが、その半ばで没してしまいます。この時、後を継いだ魯粛の策は素晴らしいものでした。周瑜の死によって、荊州での呉の軍事力は著しく低下します。当時、半ば同盟状態にあった劉備軍よりも下回ってしまいました。これでは荊州を守りきることは難しいと判断した魯粛は、劉備に「荊州を貸そう!」と持ちかけます。実質、呉の指揮下での共闘とは言え荊南四郡は劉備勢力が実効支配していましたので、周瑜が攻め取った南郡のみを貸そうと言うことになります。それでも劉備には魅力的な提案でした。荊南四郡の北にある南郡が無いと、益州を取った後、北上して魏を攻めるためにも南郡は必要な地点でしたから。そんな思惑もあり、魯粛による「荊州借用」が実現します。(これは後に大きな罠だったことに気が付くのが数年後です。しかし、この罠に諸葛亮は気が付かなかったんだー)

 荊州借用によって荊州の長江以南に領土を持った劉備はその後、益州を攻め取ります。これで荊州と益州を得ると言う諸葛亮の天下三分の計が実現します。後は、兵を整えて期を見て益州と荊州から北上して魏を攻めるだけです。しかし、この絶妙なタイミングで魯粛は、「益州を取ったんだから、荊州を返してね!」と劉備に迫ります。実質貸したのは南郡です。それをいつの間にか荊州全土にしているところがペテンです。
 そんなんだから関羽はぶちきれて魯粛との単刀赴会となります。劉備軍にしてみれば荊南四郡は劉備勢力が元から実効支配していたと言ういい分があります。それが「土地というものは徳のあるものに帰する」に表れていると思います。しかし、魯粛は平然と言ったでしょう「じゃあ、南郡だけでもいいや!」南郡だけ返しても、益州と荊南四郡は道が繋がって居ないので南郡も返すことは出来ません。南郡を借りた時点で見事に魯粛の策にハマってしまっていたのです。(勿論、この会談が全てではなく、魯粛はこの数年をかけて兵を整え、甘寧や呂蒙を使って占拠もしています。関羽も兵を動かして牽制しています。)

 結局、劉備は曹操の漢中侵攻もあったので、荊州の東側半分の返還に応じます。あくまでこの時の魯粛のスタンスは、「荊州全土の借用のうちやっと半分返してくれた。」です。まだ残り西側半分は貸したまま状態です。かなりのペテンですがこれが魯粛マジックです。
 この後、暫くして魯粛は没してしまいますが、この借用をたてに後を継いだ呂蒙・陸遜が残りの荊州を奪還することになるのです。

 その上で、魯粛が狙ったとおり、それでも蜀は呉との再同盟を余儀なくなれ、呉優位の状態で魏:呉:蜀 6:3:1の国力で三国が鼎立し、それぞれが皇帝を名乗る時代になります。孫権は即位の際に言います。
 「魯粛が居なければ、私は皇帝には成れなかった」と。
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