植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

簡体三国志:領地拡張 - 後漢の周辺領地

2009年12月26日 08時24分00秒 | ゲームシステム
 前回の続きです。今回は、後漢の周辺の領地と、この簡体三国志の拡張についてです。
 まず、南から前回も話題にあげた交趾こと交州です。この地域、今の広州から北ベトナムに渡る広い地域で、三国志になる前の時代では、百越の地と言われており、漢民族でない多くの民族が暮らしていました。これが漢の時代になると、北ベトナムまでが漢の版図となり、州が置かれる訳です。
 ちなみに交趾(こうち(し))は、ベトナムを指すコーチシナの語源となっています。名古屋コーチンも、交趾から来ています。
 交州を支配下に置いた呉は、広すぎるため、交州と広州に分けています。簡体三国志でも、分けて採用しました。

 次に近くの雲南の地域です。漢の時代は益州に含まれて居ますが、益州に割拠した劉焉・璋の支配地域は、成都一円の今の四川省のあたりです。それより南は諸葛亮が南征を行って、孟獲を打ち破って以降蜀の支配下に入ります。
 こちらも支配状態がことなったので、寧州として採用しました。ちなみに寧州の呼称は、晋が蜀を下し益州を支配するようになってからで、北を梁州(漢中)、中央の成都一円をそのまま益州とし、南を寧州にしました。

 続いて、北に移って基本の領土でも出ていた幽州です。幽州も広いと言うか長い地域で、三国志の時代、冀州に接する西側を公孫サンが支配し、遼東半島を含む東側を公孫度が支配します。公孫度の支配は長く、康、恭、淵と3代に渡ってこの地を支配し続けます。
 支配の状態が異なると言うのと、公孫度がこの地を幽州から引き離して、「平州」と称したことから、簡体三国志でも分けて平州を採用しました。面白いのは、公孫度が平州の遼東半島から海を渡って対岸の山東半島(青州)に侵攻し、一部を支配していたことがあります。ですので、平州と青州を繋げたため、この地域の道が輪のようになったことです。

 最後に、ついこの間追加を決定した朔方こと朔州です。前漢の時代、并州は三国志の時代よりも西に広く、その西側には并州刺史とは別に朔方郡に朔方刺史を置いて管轄していました。
 これが前漢と後漢の衰退時期には、匈奴の侵攻によって朔方は実質漢の支配の及ばない地となります。とはいいながらもこの地を支配した北狄こと匈奴は、中原を支配する曹操やその後の晋との関係を常に持ち続けました。
 こちらも実質、并州とか異なる支配状態だった為に、拡張の領地に加えました。

 という事で、拡張では、

 ・広州
 ・交州
 ・寧州
 ・平州
 ・朔州

 の5つを採用し、プレイヤー6人で遊ぶ際の広い領土して使用しています。
 


オリジナルカードゲーム 植民地戦争

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