ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

私の思いこみだった

2018-12-05 09:01:51 | 身辺雑事
<お知らせ>

 オーラソーマ セッション 値段改訂のお知らせ


 これまで、70分  ¥10000(ボトル1本付 税込)
            ※ボトルは¥5616(税込)です
 で、行わせていただいておりましたが、オーラソーマ社システム変更など諸事情により、
 来年1月度からセッション代金を改訂させていただきます。

 新セッション料は、

      70分  ¥ 8000(ボトルなし 税込)
           ¥13000(ボトル付  税込)

 です。よろしくお願いいたします。
 12月度はこれまで通りのお値段ですので、改訂前に、というかたは
 お早目に
   chakra@aura-soma.name までご連絡ください。

 <12月セッション可能日)
1日(土) 10:00~     13:00~     15:00~
3日(月) 10:00~     13:00~     15:00~
  5日(水) 10:00~     13:00~     15:00~
  6日(木) 10:00~     13:00~     15:00~
10日(月) 10:00~     13:00~     15:00~
11日(火) 10:00~     13:00~     15:00~
12日(水) 10:00~     13:00~     15:00~
13日(木) 10:00~     13:00~     15:00~
17日(月) 10:00~     13:00~     15:00~ 
20日(木) 10:00~     13:00~     15:00~
21日(金) 10:00~     13:00~     15:00~
25日(火) 10:00~     13:00~     15:00~
26日(水) 10:00~     13:00~     15:00~


  
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2019年度より オーラソーマ可能性探究の会    はじめます!

  毎月  第四土曜日  14:00~15:30
  どなたでも参加いただけます。  定員4名
  参加費   ¥2000

 <2019年度のテーマ>  ※テーマは予告なく変えることがあります。ご了承ください。

1月  2019 イヤーボトル
2月  天命を知る 第一弾ネームボトル
3月  天命を知る 第二弾バースボトル
4月  天命を知る 第三弾星座ボトル
5月  天命を知る 第四弾3STARS
6月  オーラソーマタロットで読み解くコンサルテーション
7月  守護天使を知ろう
8月  生命の樹から読みとくボトル
9月  感じるオーラソーマ
     カラーエッセンスとポマンダーから色を感じる
10月 親との関係を考える
11月 色を音で聴く
12月 2020 イヤーボトル 

 
 参加希望の方は、ご連絡ください。
 chakra@aura-soma.name まで。


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本を出版しました!

  「オーラソーマの奇跡と私の気付きの日々」
    ~潜在意識を”色”として客観視することで劇的に人生が変わる~


オーラソーマというカラーセラピーに出会って10年。
オーラソーマに取り組むことによって自己成長してきた記録です。
スピリチュアルな世界に足を踏み込むと誰もが気になる
「自己受容」とか「ありのまま」ということなどについての
理解について述べた本。

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うちにはホームエレベーターがついており、うちにいらっしゃる方はたいていそれを知ると、
「わぁ、すごいですね。自宅にエレベーターがあるなんて」
とおっしゃいますが、私はずーっとムダなものだ、と思っていました。
アパートでも4F以上だとエレベーターをつけることが義務化されているように、家が4階建以上ならともかくうちは2.5階建です。
そんなくらい階段ですむでしょ、てなもんです。
でも、昨年亡くなった父が最期まで自宅で過ごせるようにとつけたのでした。
けれど、父は最期まで自宅で看取ることはできず、結局最期の2週間はホスピスに入院しましたし、
「年をとって車いすの生活になっても自宅で過ごせるように」
とつけたホームエレベーターですが、足をくじいたとかの、ほんとに局部的で外傷的な意味で車いす生活になったときくらいしかそれは意味をなさないな、と思いました。
ガンで自宅療養となっても、体力が落ちるので、エレベーターであろうと2階や3階を行き来するような気力がもう残っていないからです。
だから、私は
「すごいですね」
とおっしゃる方にいつも
「意味ないですよ」
と言ってきました。
車いす用に家を建てたから廊下やトイレは元気なうちはムダに広いし、エレベーターをつけたからといって階段はなくていいのか、と言えば一応階段も作らなければいけないから、ものすごくスペースにムダが多いのです。



と、思ってきたのですが、先日、母と会った時、母が
「エレベーターをつけて本当によかった」
と言ったので、あれ?と思いました。
母いわく、
「お父さんが癌になってほとんど寝たきりになったときでも、エレベーターを使って2階から1階に飲み物を飲みに降りて行ったりしていたけれど、あれだけのことだったけれど、気分転換にもなったし、わずかながら運動にもなったと思う。
もし、エレベーターがなかったら、もっと早くホスピスに入れるしかなかったと思うから。」
ということだそうです。
ふぅん、そういう考え方もあるか、と思いました。
私は、“最期まで”看取るためのはずのエレベーターで最期はホスピスに入れてしまった、という思いが強かったですが、母の考え方だとエレベーターがなかったら“もっと早く”ホスピスに入れることになっていたろう、ということなわけです。
同じものを見ていても、こうも真逆に考え方が違うものか、と思いました。



この日、母についてはもう1つびっくりしたことがありました。
一昨日は、私の祖母が私のために昔買ってくれたお雛様を処分するためにお寺に持って行き、人形供養をし収めることにしていました。
おばあちゃんには悪いけれど、今どき、7段飾りの本格的なひな祭りセットなんて飾る家はないでしょう。
とっておいても飾ることはないから思い切って処分しよう、と母と話してそうすることにしたのでした。
しかし、前の日、家事をしていた何でもないときにひょいと私に祖母の声が聞こえたのです。
実際聞こえたわけではありません。
が、そう言われたような気がしたわけです。
祖母はこう言いました。
「お内裏様や三人官女やらは処分してもいいけれど、お雛様だけはとっておおき。あれがなくなるとおまえと交信できなくなるよ」
えっ、いつ、私とおばあちゃんって“交信”してたんだっけ? と思いました。
見えないところで祖母は私の言動をフォローしていてくれたのだろうか・・?
それともこれはなんとなく人形供養をしてもやはり最終的には燃やして処分してしまうことに対しても私の罪悪感が、そう祖母が言っているような気がするように働いただけなんだろうか?
いずれにしても私はその声のとおり、お雛様1体だけはとっておこうと思いました。
けれど、
「お雛様だけはとっておくわ」
と言った時に母が「なんで?」と尋ねるだろう。
そのときに、
「おばあちゃんがそう言ったから」
と言ったら、
「どういうこと!?」
と、現実派の母はたいそう驚くだろうなぁ、と思いました。
そして、カラカラと笑い飛ばし、
「バカなこと言ってんじゃないわよ。さ、全部お寺に持って行くよ~」
と言いそうだな、とも思いました。



そして、いざその場面になりました。
「お雛様だけはとっておくわ」
「なんで?」
ここまでは予想通りです。
「おばあちゃんがそう言ったから」
と私が言うと、母はふぅん、そうなんだぁ、という感じで驚きもしなければ、何も言いませんでした。
そして、次に言ったのが、
「私がとっておいたほうがいいの? あんたが?」
と聞いただけでした。
これにも私はびっくりしました。
母に「死んだ人の声が聞こえた気がする」だの、「あの世からこういうメッセージを承った」などと言ったら、気がふれたんじゃないか、とヘタしたら「病院に行け」と言われるのではないかぐらいに思っていたのですが、全然そんなことはありませんでした。
ひょっとしたらこれまでだって、私がスピリチュアル的なことや魂の話をしても、母は当然のことのように聞いたのかもしれません。
私が“母はチョー現実主義者”と思っていたのは間違いで、間違いなく「超現実主義者」の父親の蔭に隠れて父の言うことには逆らわないようにしてきたので、私がつい母も父と同じく超現実主義者だと思っていただけなのかもしれません。



なんだか、同じ現実を見てきてほぼ同じ考え方をしているはずだ、と思いこんできたものが、そうではないんだよなぁ、ということをつくづく考えさせられた日でした。