ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「音」に対する私の反応

2011-12-25 09:06:00 | 身辺雑事

昨日はクリスマス・イブでしたね。

皆さんは、ロマンチックな一夜を過ごされましたか?

私は・・・

実は、22日から東京にオーラソーマの授業を受けに来ております。

今日のブログも出かける前に書き溜めたものです。

もし、商品の発注やコンサルテーションの予約のメールを入れていただいております方が見えましたら、原則は24時間以内には一度お返事を差し上げるようにはしているんですが、このように長期にサロンを空ける場合、私はモバイル型のパソコンを持ち歩いていないため、チェックできないときがあります。

すみませんが、どうかご了承ください。(ホテルにも、モバイルの電源がとれるようにはなっていても、ホテル備え付けのパソコンを使えるようになってはいないところなんです。)

今回は、26日にならないとお返事ができないと思います。

先週の土日も、「表現アートセラピー」の講座に東京へ出かけました。

今回のテーマは「音」でした。


私は正直、五感のなかで聴覚が一番発達していないのではないか、と自分で思っています。

音がないと生活できない、ってことは全然ないんです。

昔から「ながら~」も苦手でした。

「音楽を聴く」なら「聴く」で、ステレオ(これがもう大時代的でしょ)の前にじっと座って聴いてしまうんです。

そして、「人はこうして音楽を聴きながらも勉強をしたり、ほかごとができる人がいるのか。」と思うと、自分がとてつもなく時間を無駄にしているような気がしてきて、何だか落ち着かなくなってしまうんです。

だから、正直、今回のワークをうまくやる自信はありませんでした。

でも、とても面白い気付きがあったんです。

あるワークでは、あえてメロディの伴わない、リズムだけの打楽器を打ち鳴らされ、それを絵にする、ということをしました。

「絵」というと大げさにすぎるかもしれません。

とにかく音を点なり線なりで表してみるんです。

これはそもそも「音」というものが体感に近いものであるため、視覚につぐ感覚であるからでした。

そして「音」は、“振動”です。

その振動が鼓膜に響くことによって、それを私たちの脳が感知します。

ということは、逆説的に言えば、音、すなわち振動を拾うものがないと「音」はない、そこには存在しない、ということと同じになります。

そういう意味で、旋律をともなわない「振動」のみの音というのは、非常に私たちの感覚を呼び覚ます原初的なものだ、そしてその原初感覚にふさわしく、使うのは今回はパステルや絵の具という色味のあるものではなく、墨を使いました。

そして、「このワークの間は、できるだけ左脳には黙っていてもらって、右脳に働いてもらう、ということを意識してやってみましょう。」とワークは始まりました。

楽器は、普通の太鼓、タンバリン、鈴のようなものから、ファシリテーターのエリさんたちの手作りによるような学芸会的なノリのものから、どこかの原住民が使って居そうな、貝殻や何かの骨を利用したようなものまで、さまざまでした。

そして、それらが実にさまざまに打ち鳴らされました。

どんどんどん、と同じ間隔で打ち鳴らされるときもあれば、シャンシャンシャンシャラララ~ンとリズミカルに鳴らされるときもあれば、2つの楽器がおっかけっこをするかのように鳴らされるときもありました。

それを絵にするとき、私は一定の間、音を聞いてから、自分のなかでそのイメージが膨らむのを待って、紙に向かいました。

すると、その間にも次の音が鳴らされているわけですから、私には常に一定のタイムラグが生じました。

何かを「聞いている」ときには、それとは違うものを「表現している」ときでもある、という2つのことを同時にしなければいけない状態になったわけです。


一定間隔聴いてから描く、ということは、紙のなかをまとまりよく収めようという構図を考えてしまいます。

それがもう思考だな、と自分ではわかっていました。

「形」と「線」で音を表そうとすると、まず「形」では、○か□か△かぐらいのシンプルな図形を思います。

そしてその3つをすべてバランスよく絵に収めようとしてしまう自分がいることも自覚しました。

「線」の場合は、直線か破線か点線か、です。

実に自分がこのワークを左脳でこなしているな~と思いました。

10数枚の絵(?)を描きあげてから、ふたりでペアになって、それぞれの絵をシェアしあいました。

私が組んだのは、前から、その右脳の働かせ方がうらやましいと思っていた人でした。

彼女の絵を見ると、1枚1枚がまったく左脳を使って描いていないことが一目でわかりました。

なぜなら、構図的にあまりにもバランスが悪いからです。

たとえて言うなら、真ん中にぽつんと筆が置かれたと思ったら、それがぐにゃぐにゃと上方に向かっていってそれで終わり、というような。

え、下方のあたりは何も描かないの?ってつい私ならその空白が気になっちゃう。

そして、「どういう描き方してた?」と彼女に尋ねると、その秘密がわかりました。

私はある一定の時間、音を聴いてから初めて筆をとりましたが、彼女の場合は、音と同時進行で筆を動かしていたのです。

例えば、太鼓の音が「ドン」と鳴る。

その瞬間、彼女は、紙の真ん中にたっぷりと墨を含ませた筆をどんを置く、という具合です。

「そのとき、それがどうして真ん中にしようと思うわけ?」と重ねて尋ねると、「う~ん、安定感のある音だったから。」という答え。

それが例えば、もっと小さな子どもが玩具にするようなでんでん太鼓だったら、彼女はもっと紙の隅に最初に筆を置いていたかもしれない、ということなのです。


「こういうふうにするとね、自然にその間、何も考えられなくなるっていうか。っていうことは自然と左脳がおやすみしててくれる感じになるのね。」と彼女は言いました。

なるほど~と思いました。

「あること」について「何か行動」を起こそう、とした場合、その間に時間があるとどうしても左脳がお仕事をしてしまう。

それは誰がやってもそうなってしまうと思います。

しかし、「あること」について、その実況中継みたいに、時を同じくしてすぐに「行動に移す。」

すると、左脳がお仕事をするヒマがないので、結果的に右脳が働く、というわけです。

この方法は、右脳を使うことが苦手な私には面白い気付きがあったワークでした。

何かこれからも右脳をあえて働かせよう、左脳には黙っててもらいたい、と思うときには使える手かもしれません。





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