いつものように名鉄電車を利用して、帰途につこうとしていたら、名古屋駅で電車をあらゆる角度から一生懸命撮影している少年を見ました。
車両は特に新しいものではなく、昔からあるタイプのフツーの電車だと思うんだけど、何か彼にはこだわりがあるんだろうねー。そういえば最近は鉄道オタクってのが結構増えてきているらしいですね。ちょっと前までは鉄道オタクっていえば、男子のものってイメージだったのが最近じゃあ、「鉄子さん」とかいって女性もかなり増えているらしい。
そんなことからつらつらとオタク文化について考えていたら、いろんなことを感じてしまった。
オタク文化っていうのはそもそもコミック漫画が好きな人たちが同人誌のマーケットなどで知り合い、タッチが好きなのが、あるいはジャンルが好きなのが同じ趣味ですよねーなんて言い合って仲良くなっても、いつまでも名前を名乗りあわず、「おたくさあ、」とか「おたくね~」と呼び合うのみを通す、というところからちょっとマニアックな趣味の人たちを「オタク」と呼ぶようになったらしい、とは聞いたことがある。
このことからもオタク文化というのはそもそもこんな趣味を持っているのは自分くらいだろうかと非常に少数派の趣味だと思っていたのが、「この指と~まれ」と声を上げてみると、あらら、意外にいるでね~の、ということだと思う。
ま、私は勝手にそのように理解しています。
確かに人間、仲間がいるとわかると急にほっとするよね。(逆の人だってそりゃあいるけど、世の中には常にあまのじゃくはいます。私もそんなとこ、あるけど・・)
そして、なにやら世間から疎外感を味わっていたけれど、やっぱり自分のやってきたことは報われたんだ、とか正しかったんだ、と感じる。
これって不思議な感覚ですよね。
結局、本質的に何も変わらないのに数がそろったとたん、それが正義になるような感覚って。
これがコミックだの鉄道だのという純粋に趣味の領域のうちはいいけれど、殺人だの自殺だの穏やかでない話となると、おいおい、ちょっと話は別だろう、ということにフツーならなるわけだけど、いいや話は一緒、と言う人たちがいるんだね。
私にはそう思えるけど・・
だって、プロフで「あいつなんて死んでしまえ」なんて書き込んだりするのはそれに賛同の意がほしいからじゃないの。そういう人にとっては反論の声をあげることさえ、「反応があった」と言うだけで賛同の意と同じことになってしまうんじゃないの。
それから、自殺するのに仲間を募るってどーゆーこと!?
単に自分と同じように死のうと考えている人間がいて、死のうと思っていた方
法まで同じだとうれしくて一緒に死んじゃうの?
これは、本当の意味で日本には少数派を尊重する文化がまだまだ根付いてい
ないからじゃないでしょうか。
高度成長期を踏まえて日本はひたすら成長をつづけ、ここのところの10年か
ら15年くらい停滞期がつづいている。でも、高度成長期の「数の論理」がま
だまだ息づいているんじゃないでしょうか。少数派を尊重するまでには至って
いない、と言うか尊重の仕方を間違えているんじゃないでしょうか。
私はオーラソーマがもっともっと世の中に広まって欲しいと願っているけれ
ど、オーラソーマが誰にとっても一番だ、とかこれっきゃない、とか、これこそが
すべてだ、と思ってほしいわけではありません。
本来の自分に気付く方法との出会いは、それぞれいろいろあってしかるべきだと思っ
ています。それぞれがそれぞれにふさわしいものに、ふさわしい時期に出会っていくように仕組まれているのだと思います。
第一、神や宇宙の法則は、そんなにケチくさいものじゃないやね。