ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

数は正義ではないよね・・・

2008-08-26 08:27:33 | 身辺雑事

 いつものように名鉄電車を利用して、帰途につこうとしていたら、名古屋駅で電車をあらゆる角度から一生懸命撮影している少年を見ました。

車両は特に新しいものではなく、昔からあるタイプのフツーの電車だと思うんだけど、何か彼にはこだわりがあるんだろうねー。そういえば最近は鉄道オタクってのが結構増えてきているらしいですね。ちょっと前までは鉄道オタクっていえば、男子のものってイメージだったのが最近じゃあ、「鉄子さん」とかいって女性もかなり増えているらしい。

  そんなことからつらつらとオタク文化について考えていたら、いろんなことを感じてしまった。

オタク文化っていうのはそもそもコミック漫画が好きな人たちが同人誌のマーケットなどで知り合い、タッチが好きなのが、あるいはジャンルが好きなのが同じ趣味ですよねーなんて言い合って仲良くなっても、いつまでも名前を名乗りあわず、「おたくさあ、」とか「おたくね~」と呼び合うのみを通す、というところからちょっとマニアックな趣味の人たちを「オタク」と呼ぶようになったらしい、とは聞いたことがある。

このことからもオタク文化というのはそもそもこんな趣味を持っているのは自分くらいだろうかと非常に少数派の趣味だと思っていたのが、「この指と~まれ」と声を上げてみると、あらら、意外にいるでね~の、ということだと思う。

ま、私は勝手にそのように理解しています。

確かに人間、仲間がいるとわかると急にほっとするよね。(逆の人だってそりゃあいるけど、世の中には常にあまのじゃくはいます。私もそんなとこ、あるけど・・)

そして、なにやら世間から疎外感を味わっていたけれど、やっぱり自分のやってきたことは報われたんだ、とか正しかったんだ、と感じる。

これって不思議な感覚ですよね。

結局、本質的に何も変わらないのに数がそろったとたん、それが正義になるような感覚って。

これがコミックだの鉄道だのという純粋に趣味の領域のうちはいいけれど、殺人だの自殺だの穏やかでない話となると、おいおい、ちょっと話は別だろう、ということにフツーならなるわけだけど、いいや話は一緒、と言う人たちがいるんだね。

私にはそう思えるけど・・

だって、プロフで「あいつなんて死んでしまえ」なんて書き込んだりするのはそれに賛同の意がほしいからじゃないの。そういう人にとっては反論の声をあげることさえ、「反応があった」と言うだけで賛同の意と同じことになってしまうんじゃないの。

 それから、自殺するのに仲間を募るってどーゆーこと!?

単に自分と同じように死のうと考えている人間がいて、死のうと思っていた方

法まで同じだとうれしくて一緒に死んじゃうの?


これは、本当の意味で日本には少数派を尊重する文化がまだまだ根付いてい

ないからじゃないでしょうか。

高度成長期を踏まえて日本はひたすら成長をつづけ、ここのところの10年か

ら15年くらい停滞期がつづいている。でも、高度成長期の「数の論理」がま

だまだ息づいているんじゃないでしょうか。少数派を尊重するまでには至って

いない、と言うか尊重の仕方を間違えているんじゃないでしょうか。

私はオーラソーマがもっともっと世の中に広まって欲しいと願っているけれ

ど、オーラソーマが誰にとっても一番だ、とかこれっきゃない、とか、これこそが

すべてだ、と思ってほしいわけではありません。

 本来の自分に気付く方法との出会いは、それぞれいろいろあってしかるべきだと思っ

ています。それぞれがそれぞれにふさわしいものに、ふさわしい時期に出会っていくように仕組まれているのだと思います。


第一、神や宇宙の法則は、そんなにケチくさいものじゃないやね。


musume

2008-08-25 07:41:23 | 身辺雑事

あー、申し遅れましたが、わたしには来年ハタチを迎える娘がいます。

なんだか「娘」というのは気恥ずかしく、「musume」って感じのほうがピンとくるみたいです。

結婚したダーリンが2度目の結婚なので、そのときの娘です。というわけで、結婚と同時に私はハタチの娘のお母さんともなったわけです。
 ダーリンと娘はとっても仲が良くていい親子です。

私は昔から「自分の血を分けたこどもがほしい」という希望が皆無でした。

人類として生き残るための本能が薄いのかなあ・・

だって、誰もが累々と生き残りたいがために「自分の血を残したい」と思うわけでしょう。どこかそのへんのDNAが欠落しているのかもしれません。

だから結婚も適齢期という発想がなく遅くなってしまったと思います。

タレントの向井亜紀さんの気持ちなんてさっぱりわかりませんもん。

できなければすでに在るものをいただけばいいじゃん、位にしか思いませんでした。
だから、どこの誰かさんは知りませんが(というのは失礼か、ダーリンの初めの奥さんです)、「出来上がったmusume」を下さってありがとうございます、といいたいです。


で、その娘ですが、一緒には住んでいませんが、来年ハタチを迎え、短大を卒業するので、今日は一緒に卒業式に着る着物と袴のレンタルを見に行きました。

そうしたら!

とってもステキなのがあったんです。

新作で昨日はいったばかりだってお店の人がおっしゃっていましたが、山本寛斎のやつ。

私は着物にも全く興味がなく、自分の卒業式や成人式にもいっさい振袖やら袴やら着ませんでしたので、着物にもそれなりの流行があるということや、どういうのが新しく感じるかというのもわかりませんでしたが、やっぱり見ると「そりゃあ、こっちのほうがいいよね!」というのが明らかにありますね。

そういうものはたいてい新作です。やっぱり、どんなものでも古さだけでは生き残っていけるものではなく、そこに現代的な感覚を上手に織り込んだようなものが生き残っていくんですね。

カンサイのは、カンサイらしく黒と赤を使った大胆な柄ながら若々しくて、モダンで、でも決して奇をてらっただけということもなく、品もあり、毅然として見えました。早い話が、絶対的な存在感をかもしだしていました。

そして、それを着た娘もりりしくその着物に決して負けていませんでした。
トーゼン、それに決定してよいものが借りれてよかった、よかったと我々一行は気をよくして、次に娘が靴がほしいというので、ショッピングセンターに出かけました。

そこに行く道の車のなかで、娘が「結婚しようと言っている男性がいるのだけれど、この前、具体的に話をしていたらケンカになっちゃって、じゃあ、もう2~3年このままつきあってみてそのときにまだ結婚する気持ちが残っていたらまたプロポーズして、って言っちゃった。」というのを聞いて、この子は現実的で地に足がついていてえらいなあ、と思いました。

私がハタチのときにそういう男性に出会っていたら、あんまり生活のことなんて考えずに突っ走っちゃうだろうなあ、と思うと。

前にオーラソーマで見てあげたときも外見の今風なのとは違って、すごく地に足のついた子なんだ、ってことがわかっていたの。

えらいな、と思いつつ、いくら年若いとはいえ、ふつーに働いている男女に子供が出来て、女のほうが当分働けなくなった場合、すぐに生活に支障をきたすくらいの福祉の日本って国はどうなの?ともちら、と思いつつ・・
これじゃ若い人が子供生むわけないじゃないの!

「でも、早くこどもはほしいしな・・えっちゃんはこどもいらないの?」って聞かれてむりむりむりむり、絶対無理!と全否定したら、ダーリンが、

tonちゃん(娘の名前です)が離婚したらそのこどもを一緒になって育てなあかんかもしれんからな。」と茶化しました。なんてことを言うんだ、親のくせに!

娘も、「やめてよ~、冗談でも」と言いつつ、「あ、でも私、結婚線が2本あるんだ」と手相をみせながら言うので、私もつい、

「私の結婚線は、ほんとに位置的に人生半分以上過ぎてからのところになってるんだよぉ!」と見せると、またまた横からダーリンが、

「あ! 俺も一緒のところに結婚線がある。」と言うんです。みたら、ほんとに一緒の位置! しかも、「久々に自分の手を見て今気付いたけれど、昔は結婚線が2本あったのにな。知らないうちにこの1本になってる。」というので、「じゃあ、昔はあったっていうもう1本って、離婚した奥さんとのことじゃないの!」と私がびっくりしました。私以上に娘のほうが興奮して、「きゃあ~、すごい! ほんとだあ。パパたち、ほんとに運命の人だったんだね。」と言ってくれました。
「よかったね、えっちゃん。ブログのネタできたじゃん。」とも。そこかい・・

そんなこんなで靴も買い、ついでにのぞいた食材店で、ニョッキやらマンゴーアイスクリームやらを買い、娘はそれから彼氏の家へ。

私たちはダーリンの実家にちょっと寄ってから帰りました。

なんだかいい1日でした。


偶像崇拝

2008-08-24 10:39:37 | オーラソーマ

カバラのことを知りたくて、ふと手にした本に「カバラとは密儀である」と堂々と記されていました。それは「カバラの秘密」にも書きました。

著者は、もともと「魔法」に興味があった人で、数々の有識者に「魔法とはなんですか?」という手紙をだしたところ、イギリスのある女史から「魔法とは儀式よ。儀式こそが魔法であるといいかえてもいいわ。」という返事をもらい、一気に幼い頃からの疑問に光を投げかけられたような境地になり、仕事を休職し1年間その魔法=儀式体系を学びにイギリスに飛んだ、という経歴の持ち主だ。

私はあくまでもオーラソーマからの派生でカバラのことが知りたいのであり、「魔法使い」になりたいわけではないので、ちょっとこの人とは目指すものが違うな、と思いこのまま読み進めるのをためらっている状況です。あまりにちょっと違うな、という方向に影響を受けてしまうといけないので・・・

というのは、私は「儀式」というものがキライ。
なんだか、密かに黒魔術でも行われているんじゃないかという気がしちゃって・・第一、なんだかイメージ的にもおどろおどろしいじゃん。

まあ、祭りとか卒業式とか現代にも残っている儀式には儀式にこめられた「心」というものを残す必要があるからわかるけれど、それでも堅苦しくてあまり好きじゃなかったもんなあ。
著者も言っているように、現代に残っている儀式はもともとなんの修行も積んでいない一般人でも参加できるもの、そして密儀となるとあるレベルの修行を積んだ者だけが参加を許されたもの、ということでいえば、後者は秘密っぽくなるのは当たり前ですよね。だからよけいイヤだ。

 と、言いつつ、読んじゃうのは読んじゃう、という自分がいるのももうわかっています。はい。目の前に横たわっていて自分が手を伸ばしさえすれば知ることができることを放っておけないタチなんですわ。よきにつけ悪しきにつけ。

というわけで、おそるおそる少し読み進めました。

すると、著者がまず最初に女史に面会してこれから儀式魔法を学ぶなら、まずは呼吸からよ、といわれるシーンに出会いました。

「万物のすべては呼吸にある。」

これはオーラソーマの考えとも一致します。というかオーラソーマがカバラの教えを継承している部分があるんだから当たり前か。

で、彼は女史から呼吸のしかたを教えられます。

この辺の「呼吸」についての詳しいことについてはまた日を改めてお話しましょう。

 今日、私がお伝えしたいのは、「その呼吸法をやってみると意外に体の使ったことのない筋肉を使うので、最初のうちは姿勢が保てないのよ、」と女史が著者に伝えるところからはじまります。

 そして、女史は続けます。「心も体も一種の免疫機構をもっていて、これまでと違った新しいシステムが入ってくると、健康を守るために必ずそれを排除しようとします。この働きを私たちは『境界の守護霊』と呼んでいます。もう一歩でその境界を越えることが出来る直前まできているのに、その守護霊が押し返してしまうの。これは一種の魂の試練でもあります。だから、めげそうになったら、この守護霊と交渉するといいわ、私のやり方はね。」

 といって、女史が著者に教えてくれるのが、ぬいぐるみのテディ・ベアに名前をつけ、めげそうになったとき、どうしてなの、これ以上進むことをあなたは望んでいないの?それとも私のやり方が間違っているの?と聞け、というのです。そうすると、心のなかでその名前をつけたテディ・ベアが答えてくれる。

テディ・ベアに姿を借りた守護霊と交信しやすくなるためにそうしろ、と薦めるところにきて、私の何かがこれは危険だ、と黄信号をともしはじめました。

というのは、昔、私は旧約聖書を読もうとしたことがあって、そのなかで確かイエスは弟子たちに「偶像崇拝」を禁止したはずです。

そのことの意味が当時の私にはわかりませんでした。

それが今、すっと判ったような気になったのです。

何か自分の知らない、見えない四次元、五次元の世界を体験しようとしたら、現在見えている次元の世界の何かに一度それを投影して、すでにそこに「在る」もののように扱えば、その存在感が実感できるようになる、というのはわかります。

  ですが、そういうことを続けていると、あるとき「そのもの」が偉大なものであったり、四次元、五次元の存在そのものであったりするように誤解してしまうこともあると思うのです。

 今回の儀式の話でいうと、テディ・ベア自体はしょせんテディ・ベア、ぬいぐるみにすぎません。でもそれを守護霊と交信するための媒介として使い、名前までつけるとただのぬいぐるみが重みのあるものとなってしまう可能性は往々にしてありますよね。

たとえば生きているように扱ったり、ときには家族より一段上の席次を与えたり・・そうなると、本末転倒です。テディ・ベアは単なる守護霊と交信するための「モノ」にすぎなかったはずなのにテディ・ベアそのものをあがめるようになってしまう。偶像崇拝のはじまりです。

そういうことをイエスは戒めたのではないでしょうか。


テディ・ベア自体を交信のための媒介として使うこと自体は悪いことではないかもしれない。しかし、正しくテディ・ベアはあくまでテディ・ベアにすぎないのだ、と最後までそう扱える人が少ないから「偶像」を「かたちあるモノ」として精神世界の儀式の対象にするのはやめなさい、と言ったのだ、と考えれば合点がいきます。

でも、これはキリスト教(ユダヤ教)こそが一神教で、これこそが全世界に広まるべきだ、という発想からきたものですよね。

大勢の人にひろまるときにはときには捻じ曲がって伝わってしまう可能性があるからできるかぎり、そういう可能性はあらかじめ排除しておくにこしたことがない、という。

そして、ハナからわかる人だけにわかればいいのであって、広まる必要なんてない、というのが密教や密儀を行う人たちの考え方であるとしたら、テディ・ベアの媒介もあり、かもしれません。ひとりのマスターが確実に、誤解のないように弟子に伝えていく、という手法ですから。

オーラソーマもそういうかバラの精神を受け継いでいるから、マイクは「マスコミにのってバーっと流行するような広まり方はしてほしくない」と言っているのだろうか、と思いました。

うーん、どっちがいいとも言えないかもね・・

でも、やっぱり私は、オーラソーマがおどろおどろしいような影をもってほしくないから、密儀の色合いはあまり出して欲しくない。そして、みんなにもっと広まってほしい。

だって、オーラソーマこそがその人が自分の最初からの人生の設計図(ブループリント)どおりに生きられる道だから。

そんなことを考えながら、つい台所のダイニングテーブルにその本を置きっぱなしにしていたら、ダーリンが帰ってきて、

Ekkoちゃん、魔法使いになるの?」

と聞いてきました。

「なるわけないでしょ。」と言うと

「なってもいいよ。」と言いました。

どーゆーつもりなんだろ・・・


カバラの秘密

2008-08-23 07:40:04 | オーラソーマ

 オーラソーマをもっと深く理解するためにはどうしても「カバラ」と「生命の樹」をもっと知る必要があると思った私は、本屋に行って「カバラ」に関する本を一冊買ってきました。

  なぜ、その本を選んだか。簡単なことです。その本屋さんには「カバラ」に関する本がその一冊しかなかったからです。なんにもわからないのですからどのみちた~くさんの品揃えがある本屋さんに行ったってどれを選べばいいのかかなり吟味しないとわからないでしょう。吟味した結果があチャ~なんてこともあるかも。それならそれで、選択肢がないというのも往生際がよくていいではないかと思い、その本を購入しました。

そして、その「まえがき」を読んだだけで、またひとつ、「そうだったのかぁ!」と合点がいくことが!

その著者は、何十年も前から、それこそ日本にはカバラの著書や訳書も何もなかった頃からカバラについて研究してきた人で、どれだけ書物をあさっても当時はちんぷんかんぷんで何もわからなかったそうだ。そのわからなさが訳書が少なかったせいだと思っていた著者は、あるとき、ある人物に出会ったことで、一気にそうではなかったという事に気付いた、というのだ。


その著者いわく、「カバラはもともと書物などで教える『知識』ではない。『体験』なのだ。」という。

以下、引用。

「カバラを理解するには、何よりもまず、エーテル界やアストラル界という、この世でだれでもそこに生きていながら、それには気がつかないでいるもうひとつの世界に参入しなければならないことを教えられた。それが実際に体得できるようになると、これまで理解できなかったことがすべて一気に氷解した。

 そうか。このことがわかれば、カバラは難解どころか、その原理はきわめて単純で明澄な世界なのだ。そこからカバラに伝わる伝承や図版を眺めれば、カバラとは神と宇宙と人間のすべてが密々と繋がっている精緻な密儀体系であることがたちどころに了解できるのである。・・・(中略)・・・

 カバラは本を読めばだれでも理解できるといった知的体系ではない。ある程度の時間をかけて、師と弟子の魂の交流を通して、心身にこの世界にアクセスするための特殊な視覚、聴覚器官を形成し、その世界を実地に体験しなければならない。・・・この特殊期間は、いわゆる超能力ではなく、だれでも潜在的にもっている能力で、正しい順を追って修行すれば、だれでも身につく能力であり、それなしでは真の認識(グノーシス)は得られない。」

そうか、そうか、そうだったのか!

だから、カバラは一子相伝で代々伝えられ、その文献というものが残っていないのか。

そして、オーラソーマの創始者であるヴィッキーは女の子で7番目のこどもだったから父親からそれを教えられることはなかったけれども、なんとなくいつも近くで生活をともにしていたため、彼女のなかにもカバラがどことなく根付いていたわけか。そして、それをヴィッキーも書で記すことはできないため、オーラソーマにどことなく漂っているカバラの空気もそれを後世になって習っている私たちにまでは落ちてこないわけか。

さらに言えば、オーラソーマの勉強体系というのはレベル1からレベル2に行くには3ヶ月、レベル2からレベル3に行くにも3ヶ月という期間を空けなければ受講できない。それもその人のなかに「知識」としてではなく、「体験」として落ちるのを待つには、最低でもそれくらいの時間がかかるということか。

そんなようなことは先生からも聞いてはいましたが、それがカバラから発祥しているものだとは今まで思わなかった。

 そして、教科書自体も抽象的で、一度先生から講義をうけてもなかなか落ちるものではないために、2度、3度と受講する生徒がいっぱいいる。

それについても今までは「アザイアクトの教育システムが不親切だ。」と少し不満だった。一度でバチッとわかるような教科書であり、教え方にしてくれればいいのに、と。先生も、「あなたたちはまだいいわよ。私のときなんて日本人のティーチャーがいなかったからドイツで受講したのよ。それをまた英語の通訳がいて、さらに日本語の通訳よ。なんにもわからなくって、レベル1だけで何回受講したことか。」とおっしゃっていたので、ひそかに内心では、(時代が変わって日本人のティーチャーから学べるようになったんだから、しゃべってることそのものがわからなくて何回もとらなくてはいけない理由だったのなら、私たちは何回もとらなくてすむはずなのに)と思っていたのだ。

でも、すべては「体験」して「落ちる」ことが主目的だったからだね。

しかし、これに気付くのも生徒まかせとは深いね~、オーラソーマ。

そんなシステム自体が納得できなくて脱落者いっぱいでるでしょうよ。いいのかねえ。そういうのはふるいにかけて。それでも残った者だけがオーラソーマの伝道者だ!ということなんでしょうか・・・

ともあれ、私はカバラが「知識」ではなく、「体験」が必要だからこそ、本を読んでも何にもわからなかった、という著者のまえがきに一気に目からうろこ状態になりました。逆にそれさえわかれば、私は「体験」まではのぞみませんから、ともう満足しちゃいそうなくらい。

でも、待てよ。

みえちゃんとプラーナが見える体験をしたときは、やっぱりおもしろかったよなあ。でもあれがおもしろかったのは、自分が修行をつんでできるようになったことではなくて、ちょっとした視点の転換くらいですぐに見えたからおもしろかったのであって、すさまじい修行のようなものを積まなくてはならないのであれば、やはり私はそこまでオーラソーマそっちのけでカバラの大家になりたいわけじゃないし。あとは生命の樹についてのいろいろな疑問がもう少し目からうろこできたら満足かな。

だけど、つくづく人間というのは「知らなかったことを知る」ことが好きなんだね。

あ、それこそが「体験」か。

やっぱり、体験好きってことか・・

適度に、適切に、道をはずれないようにいろいろなことを体験したいです。


アルパックスリング

2008-08-22 08:12:23 | オーラソーマ

 今日は、先生のところで新しいコース、「アルパックスリング」を体験してきました。


これは、日本の江口先生というオーラソーマにも明るい方が開発されたもので、オーラソーマを日本人にもっと受け入れやすくするために「易」の要素をとりこみながら、ボトルも使わずにカードだけでコンサルテーションができるものだ、ということです。

私自身はオーラソーマのあのきれいなイクイリブリアムボトルにこそ惹かれているので、「カードのみでコンサルテーションができる」ということ自体には惹かれませんでしたが、体験してみてオーラソーマをさらに補助するものとしては使えるな、という感覚を受けました。

どういうところが、というとオーラソーマでは「今、あなたはこういう状態ですね。」と指摘してクライアントが「では、私はどうしたらいいんでしょう?」と尋ねてきても「それはあなた自身が気付くことです。」と言うしかなかったのがこのアルパックスリングではある程度「こうしたらいいのだ、という方向性が出ていますよ。」という話が可能になる、という点です。

私は、オーラソーマの「気付き」という大きな根幹が大好きです。
ですから、「自分でボトルを使いながらどんなに小さなことからでも自分で気付いていくべき」というオーラソーマの考え方を尊重したいと思っています。

しかし、クライアントには「どうしたらいいの? それが聞きたいのに」という人が多いのだな、ということにも気付いていました。そんなとき、そう踏み込んで聞いてきた人に限ってはもう一歩踏み込んだことが言ってあげられたらな・・と感じていたことも事実です。

もうひとつ、私がこのアルパックスリングに惹かれたのは、「生命の木を使いながらまず、自分をもっと深く知ることが出来る」という点です。「人を癒すためにはまず、自分をもっと深く知らなければならない」というのは自明の理でありますから。

レベル3を受講してからというもの、私はもっともっと深く生命の木について知りたくて仕方がありませんでした。ヴィッキーでさえ、カバラのマスターである父親から男の子ではないから、という理由からその奥義を教えてもらっては居ないカバラの生命の木・・・  隠されると暴きたくなるのが人間でして、「奥義」だの「秘儀」だのといわれると知りたくなります(笑)

 そんなときに、やはり先生もレベル3を教えるにあたって、もっともっと生命の木の知識が必要だと思っていらっしゃったようで、先生の先生である江口先生に「もう一度、生命の木を習いたいのですが」と連絡を取られた、というのです。

そうしたら、こういうことがやはり必要としているものが必要としているときにその人の目の前に現れる、ということでしょうか。江口先生が、「なんというタイミング! 私も常々そう思っていて、最近ようやく自分なりにひとつの体系をまとめたものがあるのよ。すぐにいらっしゃい。」といわれたのがこのアルパックスリングだったというわけです。


江口先生は、「女性がもっと経済をもつべきだ」ということにも熱心な方だ、ということです。

 どういうことかというと、どうもオーラソーマをやっている人たちは「こういうことでお金をとるのは心苦しい」「悪いことをしているようだ」と感じる人が多いようで、なかなかお金にならない。だけど、お金は当然、生きていくために必要だ。次にもっと自分がレベルアップしたい、そのためには何かを習いたいと思ってもお金は必要なわけだし、堂々とお金をとれるようになるためにもこのコースを作ったのだ、と。

・・・別にわたし、お金をとることが悪いことだ、なんていまさらながら言われなくてもまったく思ってないし。そりゃあ確かに自分の力量のなさに「これでお金をいただいてもいいのだろうか」と悩むときはあっても、それはオーラソーマでお金を取ることに罪悪感を感じているのではなく、自分の力量をもっと磨くのだ!というほうに決意が向かえばいいことなのであって、「あなたたち、そういうのヘタでしょ。ほら、だから私がもっとツールを用意してあげましたよ。」と言われるのとはちょっと違うな、と感じました。

  そこで「経済」になるのは「胴元」である江口先生だけでしょ、というイヤミも口をつきそうになったりする。

  オーラソーマを教えて、「独立開業の支援をする」というのが「オーラソーマ以外のツールをどんどん開発して紹介する」という意味だとしたら、待った!そりゃあ違うでしょ、と手を上げたくなります。

そんなこんなで、私としましては、アルパックスに惹かれる部分もあり、ん?ちょっと違うんでね~の、と思う部分もありで、複雑です。

ただ、これがコンサルテーションに役立つかどうか(つまり、自分の仕事に加えるのかどうか)に主軸をおくのではなく、自己探求のため、と割り切れば前述したようにぜひやってみたい。なんといっても、教科書がとってもカラフルでステキなの! それだけをとっても惹かれる!

だけど、マイクが「易」と「オーラソーマ」の結び付け方、解釈の仕方については驚嘆していた、と先生が話されたとき、

「でも、この解釈はあくまで江口先生のものでしょ。だからマイクはまた自分自身で独自にどうやってオーラソーマにこの易を取り入れたらいいのかを考えるみたい。」とおっしゃいました。

  私は思わず尋ねました。

「え? だとすると、もう数年とか待っていれば、オーラソーマのレベル1とかレベル2の教科書自体が変化して、今よりもっと易を取り入れたものになるということですか?」

「うん、たぶんそうね。」と先生。

あくまで、オーラソーマを中心にすえたい、と思っている私はそう聞くとじゃあ、それまで待ってればいいか、というふうにアルパックスリングに対して萎えてしまいます。

「まだ、今はこれは江口先生のところで生まれたてのほやほやだけれど、早速大手広告代理店のようなところがこれを大々的に売り出すために絡んできたようよ。」とも。先生は「だから、これは今からもっと広がるのよ。広がっちゃう前にやるなら今よ!」とおっしゃりたかったのかもしれませんが、それは広告代理店のはしくれのような仕事をしてきた私にとっては、別に魅力的ではありません。ああいうところがいかにお金のニオイに敏感かを知っているからです。

 仕事であるかぎり、利益をださなければいけません。かりにこの存在を知った担当者が個人的に「これはすごい!」と感服したのがはじまりだったとしても、会社という組織に下駄を預けた時点でそれは欲まみれの手垢まみれの俗っぽいものに成り下がった例というものを、今までも数かぎりなく見てきました。

私自身がすぐにアルパックスコースをとることはないにしても、せっかくのものなら健全に育っていってほしいな、と思います。


ただ、アルパックスリングの易カードでみてもらった私の「今」というものは、確かに驚くほど当たっていましたよ!

「あなたは成功を急ぎすぎるきらいがある。ほんとうはあなたは今、『笑顔』

のなかにいて、全部すでにもっているのに・・今まで成功を急ぎすぎて失敗すると次の一歩が怖くなってしまって踏み出せなくなったり、気持ちが萎えてしまっていたでしょう? そういうことにならないようにするにはすでに自分は何もかももっているのだ、ということを忘れずにゆっくりと自分のペースで歩いていけばいいのよ」というような意味のことを言われました。

  も~う、まさにぴったり。

でも、そういわれてもまだ今の私には、では「ゆっくり」というのと「怠けている」の違いがわからなかったりします。「急ぐ」のと「着々と歩を進める」の違いがわからなかったりします。

 それがこれからの課題なのでしょうね。


最後に、先生の話で心に残ったことをひとつ。

「レベル3を取り終えるとね。どうしてももっとスピリチュアルな世界にいっちゃう人が多いのよ。それはそのほうがラクだから。精神世界のことばかりに思いを馳せていたほうが、そりゃあラクよ。でもね、せっかくオーラソーマというすばらしいものに出会ったのだから、それをちゃんとやり続けて欲しいの。そんなに外れないでそのなかにとどまっているためにもこれは最適のコースよ。」

はい、それならまさに私の思いと一緒でございます。