ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

”ご縁”からの学び

2013-11-28 09:06:00 | オーラソーマ

知人に誘われて、ある宗教の集いに出かけました。

別に勧誘された、ということではないです。

ほんとにただ「ちょっと付き合って。」ってノリで・・

で、気軽に出向きました。

その日はそこではその宗教の一番おえらいさんがわざわざ遠くからいらしていたようで、その講話を聴きました。

そしてそのあと、その方を囲んでのざっくばらんな席が設けられていました。

司会の方が、

「みなさん、最近の近況でもいいですし、この教えに出会ってからこんな良いことがあった、とかそんなことを是非お話ください。」と言われました。

その言葉に促されるようにして、前列の方が発言されました。

それはこの教えにご縁がついてからご自身の持病がとても軽くなった、というお話でした。

ふぅん。

その次も、その次も、またまたその次の方も・・・

すべての方が、ご自身が、あるいは家族が、あるいは友人が不治の病で医者からは見放されていたにもかかわらずこの教えに出会ってから、症状が軽くなった、いつのまにかガン細胞が消えていた、余命宣告を過ぎてもピンピンしている―――――、そんなお話ばかりでした。

あ、そう。へぇ。ほーそうですか。

と、聞いているうちに段々違和感を覚えてきました。

そしてその教祖さま(? だったのかな? よくわかんないですが・・)が、最後にこうおっしゃいました。

「みなさん、本当に良かったですね。信心された結果だと思います。私自身、より信心された方によりご加護がいくことが世の中として当然のことだと思っているので。」と。

この瞬間、私の中の違和感は完全にめらめらとした怒りに変容しました。

はぁ? ちょっと待てぃ!

なんじゃい、この選民思想みたいな集まりはぁ~!!

結局、この教えを信じている人だけが良い思いをする、すべき、という考え方の宗教なんだね、これは。

しかも同じ信仰を共にする仲間うちでさえ、より信心深い人は助かるけれど、「何にも私はいいことないわぁ。」と言おうものなら、「それはあなたの信仰心が足りないからよ。」と言われるわけね。

そして現世ご利益をうたう「ええじゃないか」教のようなものなのね。

今この場で発言された人以外には、この教えをきちんと守ってきたはずなのに私の家族は不幸にしてガンにかかり、手厚い治療にもかかわらず医者の余命宣告どおりに亡くなりました・・という人だっていらっしゃることだろう。

1人の例外もないなんてありえない。

そういう人を目の前にして、あんたらは今と同じ発言ができるのかぁ~っつ!!と言いたくなるのをこらえました。

誤解のないように申し添えておきますが、私はこのときに「病気が治った。」とか「症状が軽くなった。」と言われる方々に怒りを覚えたわけではありません。

そのことそのものについては、「うわぁ、本当に良かったですね。」という偽りのない共感を抱きました。

けどねぇ。

信心した者だけが助かる、っていうこの教義はねぇ・・ どうなの・・

そしてふっと我に返り、「いかん、いかん。別に全く部外者の私がこんなところで熱くなる必要はない。タントラ、タントラ、自己受容、自己受容。それを思い出そう。

今日、こういう場に遭遇する機会が私にはあり、私はこういう発言に出くわすとこんなにも腹を立てるところがあるんだ~  ・・・という私がいるんだな、ということだけ覚えておこう。」と何とか自分を静めました。

私の中では、先週受けてきたときのTPPSでの学びがまだまだ興奮さめやらぬ形で自分のなかに残っていた、ということもあったと思います。

「そのとき起こったことは、その人にとって最良で最善のことだったのだ。」というクラウディアの言葉。

それを聞いてから、私はすごく人生ラクになった感じがしていたのでした。

だからもし私の身の上に「ガンで余命宣告」という事態が降りかかるようなことがあったとしても、それさえ「そのときの自分には最良で最善のことだった。」と思えそうな気がしていた矢先でした。

だからこそ、やたら反応してしまったのかもしれません。

そして帰り道。

知人に私の感じたことを若干マイルドに伝えさせていただきました。

「今後、誘われてももうこの集会にはご遠慮させていただくわ。」という意味あいで事前に布石を打っておきたかった、ということもあります。

知人の方は、うんうん、とうなづき「分かるよ~ あなたの気持ち」と言いながら、

「それでも私は、こういうことでもないと今の世の中、神さま、仏さまって手を合わせることが少なくなってるでしょう。この教えを信仰することが畏れの存在に手を合わせる機会につながればそれでいいと思ってるの。

あんまり深く考えずに私もそんな感じでやってるだけ。」と言いました。

「だったらそれはこの“教え”ではなく、もっと漠然とした神さま、仏さまでもいいんじゃないの?」と言うと、

「そうかもね。でも私にはこの教えとの“出会い”がたまたまあったから、そうしてるの。」と言います。


んなこと言ったら、私はヴィッキーさんの写真に手を合わせておいたほうがなんぼかましだわ。

もちろんオーラソーマは宗教じゃないけれど、オーラソーマにこれまで触れてきたことによって確実に私は自分をはじめ、いろんなことを受け容れるようになったし、自分が豊かになったのを感じる。

ヴィッキーさんの遺影と向き合うたびに、その1つ1つを思い出し本当に感謝の念が湧き起こる。

そういう意味では、私にとっては“たまたまオーラソーマに出会ったから”、そして“その出会いを大切にしよう”と思ったから、毎日ボトルや何やらと向き合っている。もうそれで十分です。

「でもさぁ、えっちゃんもこうして今日は何かしらご縁があって、この教えに出会ったんだから、そこには何か意味があるはずだからまた来てみよう、っていうふうには思わない?」と知人が言います。

とーんでもない!

生まれてこの方、眼にし、耳にし、出会ってきたものをすべて「これもご縁だ。」と言ってくっつけて生きていたら、そんなの重苦しくてたまりまへんわ。

私に限らず誰にでも“選択する”権利がある。

“決断する”権利がある。

「ご縁を大切にしてみたら?」とプレッシャーをかけることは相手の選択する権利、決断する権利をないがしろにするものではないか。


でもこういうとき一瞬でも「その言葉自体はその通りだよな・・」とひるむ様子を見せると、そういうところに付けこんで来る人っているよな、と思いました。

この知人はそういう人ではありませんが、オーラソーマでも「うっ・・ そう突っ込まれるとそれが出来ない自分がいけないみたい・・」という気にさせられる言葉を投げかけられることがたま~にあります。


「だって私たち、オーラソーマファミリーだから。」

「オーラソーマってジャッジしないもののはずでしょう?」

「それはもう手放せばいいことなのよ。」

                  etc.etc・・・・


これらの言葉は使うときの状況によっては、

「そう言われると・・ つい押し黙らざるをえないけれど・・ じゃあ、私の選択と決断の権利はどうなっちゃうのよ?」と言いたくなるようなことがあります。

私が何を選択し、どう決断するのか。

何を選び取って、どういう生き方をしていくのか。

それはオーラソーマにさえ指示されることではない。

そこをきちんとしておかないとシステムや組織や他人に翻弄されてしまいます。

とはいえ、そのバランスっていうのがまた難しいんですけれどねぇ。


もともと言葉や数字はそのハンドリングによって表情を変えるものです。

けれど私たちはつい、数字などは特にですが、一見「誰の目からみても公平な事実」として受け止めざるを得ない、と思ってしまいがちです。

よく使われる例ですが、

「コップに半分入っている水をどう捉えるかはその人しだい」なのです。

「まだ半分も残っているじゃないか」と捉える人と、「もう半分しかないんだ・・」と捉える人。

そこに使われている数字はどちらも1/2ですが、その表現方法、伝え方によって人に与える印象は大違いです。

そしてその印象が他人をも左右してしまうことが往々にしてあります。


私は知人が、

「でもさぁ、えっちゃんもこうして今日は何かしらご縁があって、この教えに出会ったんだから、そこには何か意味があるはずだから、また来てみよう、っていうふうには思わない?」と言ったことに対して、

「いやぁ、この“ご縁”に対して私はどう感じて、どういう選択をするのか、というのが今回の私の学びだと思ったわ。

ご縁なんだからまた来てみるべきだなぁ、っていうふうには思わなかったの。ごめんね。」と言い、それぞれの帰途につきました。






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