恐れていたことが現実になった。家族で初めてのコロナ感染者が出た。この3年間身近な家族に感染者が出ていなかったのは、奇跡だと思っていた。友人の家族、特に友人の嫁いだ娘さんたちの幼い子を持つ家庭の感染に心を痛めていた。重症化することなく回復したとの知らせに胸をなで下ろしていた。なにせ政府の新型コロナ対策分科会の会長が、5回のワクチン接種を受けていたにもかかわらずコロナに感染したほどである。
最初の感染者は、長男だった。そして難病を持つ孫への感染も判明。孫は、大学2年生だ。持病がコロナに過剰に反応すると言われている。病院への入院が、空きがなくできなかった。看護師が常駐しているホテルへの隔離が決まった。長男は、症状が軽かったので自宅療養することになった。さあ大変だ。コロナは、いよいよ我が一族にも襲い掛かって来た。長女に長男と孫がコロナ感染したとの連絡メールを送った。中々返事が来ない。再度メールを送った。便りがないのは、良い便り、というが、今回はそう思うことができない。次から次と妄想が私を襲った。娘一家がコロナ感染して、メールに答えられない状態に置かれている。孫が重症で娘が付きっ切りで看病しているのでは。悪いように悪いようにと妄想が、私を引き込む。3回目の安否確認メールを送った。返事はない。ますます妄想が膨らむ。夫婦喧嘩でもしてどこかに隠れているのでは。会社で不倫とか使い込みとか横領とかをしでかしたのでは。妄想に歯止めがかからない。
妻に相談した。「電話すればいいじゃない」 電話をかけることは、私がもっとも苦手なこと。口下手でもあり、電話の受話器を持つと、落ち着きを失い、シドロモドロになる。耳も悪いのか、相手の言ってることが聴き取れない。電話で直接娘から真実を知ることは、小心者の私には無理。そうこうしているうちに1週間が過ぎた。さすがに私も疲れてきた。覚悟した。妻に娘に電話をしてもらった。なんと娘が出た。会社にいた。娘はびっくりしたという。それはそうだろう、急に会社に電話がくれば、私に何かあったと思うのは、当たり前。妻が受話器を私に渡した。娘が無事であると知って、全身から力が抜けた。この1週間の妄想狂騒曲に振り回され続けた。案ずるより産むがやすし。帰宅した娘からメールが届いた。娘は、アメリカの会社の日本支社で働いている。このところ忙しくアメリカからの出張者の対応に明け暮れていたという。一家は無事。携帯電話をどうやらいくつも持っているらしい。一番連絡がつくアドレスを教えてくれた。
私は、小心者である。小心者は、妄想に囚われやすい。坐禅を2年間した後、禅の指導僧から掛け軸を贈られた。そこに『莫妄想』と書かれている。「妄想」とは、禅の世界では、考えや想いに囚われている状態のこと。この「妄想」は執着心とも言う。「妄想」の根源にあるものは何か?それは物事を対立的に考える事であり、比べること。美しい物、醜い物。良い物、悪い物。自分の中で勝手に決めつけ比べ、それをいつまでも失いたくないと思うこと。確かそう坐禅で教えられたはずだ。
すでに75歳。坐禅をしていた時から45年以上過ぎた。いまだに妄想に振り回されている。何も悟っていない。コロナも恐いが、こんな自分も恐い。