日曜日に友人からワインが赤白2本届いた。さっそく礼状を書いた。メールが来た。「素敵なカードでご丁寧な礼状ありがとうございました。このノヴェッロワインは、イタリアのアドリア海の町マルケ州で今年採れた葡萄を使って作った生ワインです。イタリア版ボジョレーヌーボーです!1カ月前から予約して解禁と同時にお届けできるよう依頼していたものです。今年の葡萄の出来具合は分かりませんが、このコロナ禍の中、イタリアのワイン農家を応援する意味も込めて、そしていつも私たちを気遣ってくださるご夫妻への感謝を込めてお贈りいたしました。ボジョレ童謡、旬の爽やかな風味を味わうため早めに飲んでください。この季節限定の数量限定のワインです。特にマルケ州のノヴェッロは、人気です。お口に合うと良いのですが。」
妻が遅い夏休みを4日間取っていた。何というめぐりあわせ。こんな貴重な新酒が手に入ったのだから、料理もイタリアンにして新酒と楽しむことにした。コロナで設宴ができなくなってから、本格的な料理をずっとしていなかった。妻に手伝ってもらってイタリア風に挑戦した。
新酒を送ってくれた夫妻の旦那さんはイタリア人、奥さんは日本人でイタリアにずっと住んでいた人。いつも招かれては、本格的なイタリア料理を味わうことができた。至福の時を過ごせた。
イタリア風料理は、うまくできなかった。でも妻の手伝いもあって、何とか完成した。料理より新酒だと自分を慰めた。私はワイン、何を口にしてもソムリエが言うような感想が出てこない。赤と白の違いが判る程度。コーヒーも同じ。いろいろ説明を受けても、口にするコーヒーは苦いとしか言えない。悲しい。でも私は、ガラスの心の持ち主である。感受性が強い。ワインでもコーヒーでも、それを口にする環境、状況、雰囲気によって敏感に反応する。食卓を囲む人、食卓に並ぶ料理によって、ワインもコーヒーも化学反応を起こす。これが私にはたまらない。新酒を送ってくれた友人夫妻と共に、食卓を囲むことはできなかったが、何度もワインの瓶を傾けるたびに、友の気遣いも一緒にグラスに注いだ。
新酒といって思い出すのは、オーストリアのウイーンである。経済封鎖を受けていた旧ユーゴスラビアに住んでいた時、買い出しはウイーンへ行った。ウイーンの秋には、楽しみがあった。通りのあちこちでシュトルムやモストというワインになりつつある液体が売られていた。私は甘酒のようなものだと思って飲んだ。ワインよりずっと私向きだった。何かの果汁のようにスーッと飲める。でもこれ結構、後から効いてくる。私が焼酎のお茶割を初めて飲んだ時、グイグイ飲めたがその後、酔って倒れたことがある。シュルムやモストが街に出てくると、ウイーン近郊のホリイゲでのワイン祭りが始まる。葡萄園に囲まれた町が、一斉に酒場に変わる。庭にテーブルが出され、人々が新酒を酌み交わす。
そのウイーンで先日、テロが起こった。コロナ禍は、再び欧州で感染をしてきた。コロナに脅え、テロに脅える。アメリカの大統領選挙も混迷を深めている。大規模な暴動が危惧されている。世界はいったいどこに向かおうとしているのか。もう新酒を酌み交わして、楽しむことは、許されない邪道なのだろうか。邪道であっても、全身の力を抜いて、仲良くヨパラッテいるほうを私は選びたい。