人の将来なんて誰にも分からない。だから面白い。だから努力のし甲斐もある。同級会同窓会は過去の一時期の成績順位を固定化して当時の栄華を再確認できる集まりのようである。しかし現実は違う。高校の成績や進んだ大学や就職先でその人の人生の幸不幸は決定されていない。
先日パーティで知人が高校時代の同級生と20年ぶりに同級会で再会した話をしてくれた。なんでもその同級生は大学の教授になっていたが高校の時は成績の悪かったという。知人は「あの馬鹿が大学教授になれるなんて」と他の同級生たちとの会話が弾んだという。私はそれを聞きながら馬鹿だったという大学教授に親近感を覚えた。私も彼と高校生の時、同じ立場にいたことを自覚している。その大学教授になった人はきっと努力してマイペースで人生の階段を昇って教授に登りつめたのであろう。評価されても馬鹿にされることはない。
私は日本の高校にいた時、成績は悪かった。私が再婚して結婚式に招いた高校の同級生に「お前みたいな馬鹿がどうやって医者と結婚できるか不思議でならない」と面と向かって言われた。正直な物言いを私は歓迎する。陰口をたたかれるよりずっといい。しかし彼は私の日本の高校生以後を知らない。過去の同時代を一時的に一緒に過ごしてしまえば、その時の評価は永遠不滅となる。
カナダから帰国して私は英語塾を開いた。高校で馬鹿だと思われていた私が地元で英語塾を始めた。中学までは何とかそこそこの成績だったが、高校では病気で長期入院した理由もあって成績は低迷した。でもそのことが塾で英語を教えることに役立った。理解できない、成績を上げられない生徒の気持や状況を的確に読み取ることができた。だから多くの生徒の役に立てた。『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』坪田信貴著角川文庫 1500円+税 『下剋上受験―両親が中卒それでも娘は最難関中学をめざした』桜井信一著 産経新聞出版 1400円+税 このような本が売れている。私が経験したこととよくダブル。
いま私は中一になった孫の英語学習を手伝っている。孫は競争率7倍の中高一貫校に去年合格して入学できた。この時点で孫は私の同年代の時のはるか上を行っている。サッカーと勉強の両立は難しい。成績もサッカーも中途半端だと父親は不満だった。孫の父親、私の長男はかつて私の教え子である。長男は私など入試を受けることさえ考えられなかった大学を卒業している。中1の2月から通信教育のような孫との英語学習が始まった。
ビリギャルにあやかって私は秘かに自分をビリジイと呼ぶ。孫の英語教科書をコピーして、それをノートに切り貼りする。私は塾で教えていたことを思い出しながら解説を書き込む。昨日郵便局のレターパックライトで送った大学ノートはすでに8冊になった。高校でビリの成績を取っていたから、その後カナダで英語を学ぶ経験ができたから、英語塾で多くの生徒に教えたから、そのすべてを今、孫のために活かせる。
同級生や担任に馬鹿と決めつけられても、ノートを作る67歳ビリジイは夢中一生懸命である。