団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

女性外国人語学教師

2011年07月21日 | Weblog

 私が経営していた英会話教室には、常時アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドから若い男性女性教師最低2名が在籍していた。女性教師には、気を使った。男性教師にも気を使った。性に関して英語教師は、みな進歩派だった。私は責任ある者として、彼らが犯罪に巻き込まれないように目を光らせるより他なかった。犯罪となれば、これは日本だけの問題でなく、国際的な事件になってしまう。

 平成19年、英国人英会話講師のリンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)は、市橋達也被告(32歳)に殺された。このニュースに接した時、私はこのような事件に関わった可能性がどれほど高かったか、あらためて痛感した。外国人女性教師の金髪を欲しいとわざわざ教師を追いまわす英会話教室とはまったく関係ない男たちがいたり、今ならストーカーとして犯罪となるような待ち伏せや覗きをしたりする男たちがいた。外国人講師のための宿舎の風呂場やトイレを覗く者もいた。これは国や人種の問題ではない。私を含めた男という生き物の問題である。男性外国人教師に対して犯罪まがいの行為に出る日本人女性はいなかった。恋愛感情や感心をいだくことはあった。それを巧みに利用して、遊ぼうとする男性外国人教師に私は目を光らせた。彼らにとっては、嫌な雇い主であったに違いない。私が知る限りで、2人の日本女性が男性外国人教師と結婚した。

 7月7日千葉地裁で市橋達也被告が、弁護側の被告人質問への答えた詳細が新聞に載っていた。「午前10時ごろ自宅に入った後、“ハグしたかった”と背後から抱きついた。しかし強く拒絶されたため、その場でリンゼイさんを押し倒した。“私は誘惑に負けた”そのときの気落ちについて、声を震わせながら振り返った。乱暴後にリンゼイさんの両手足首を結束バンドで縛り、自宅和室に置いた浴槽に入れた。“何とか許してもらいたかった。話しかけて人間関係を築けば許してもらえると思った”。2人でキング牧師やキリスト教などの話をした。ただ、“たばこが吸いたい”などと要求するようになったリンゼイさんに対し“カッとなった”と顔を2回殴りつけた。それでも、“今はだめでも何とか許してもらいたい。それだけを思っていた”という」

 記事を読んでいて腹がたった。私だって清廉潔癖な男ではない。かつて私に潜む男性ホルモンの暴走に振り回された時期があった。男なら自分の中の欲望をどう犯罪につながらないようにするかは、誰にとっても闘いであろう。何とか犯罪に至らないのは、個人の抑制力だ。自分が子どもをもっていて罪を犯して服役したら誰が子どもを育てるのだ、仕事を失えばどう生活したらいいのか、犯罪者となれば自分の両親を悲しませる、犯罪は家庭を崩壊させる、などと考え抑制が働く。性欲を満たすことには、甘美な陶酔や達成感がある。だからと言って、相手を押し倒し、ねじ伏せて、無理やり犯すのは、人間社会では犯罪である。人間も動物である。人間と動物の違いは、法律をもって行動行為を律することができるか否かだけだ。動物だって平時には、メスがオスを選ぶことが多い。自分の子孫に少しでも生き易い有利な遺伝子を本能的に残そうとする親心のためだ。

市橋被告の証言記事を読んで思うことは、この市橋被告は、身に潜むホルモンに翻弄され、時々顔を出す人間性に未熟さと自己中心のわがままさが混在し、暴力を卑怯に行使している心の不釣り合いを強く感じた。相手を性のおもちゃと見なしながら、その相手との一方的な犯罪性行為のあと、何が人間関係を築きたくてキング牧師やキリスト教の話をするだ。滅茶苦茶である。辻褄があわないから犯罪なのだろうが、あまりにもリンゼイさんの死が無駄死で切ない。自分の欲しいものは、どうやっても手に入れられると思い込んでいる甘ったれのお坊ちゃまの成れの果ての犯罪だ。

自分の中の欲望をどう管理抑制するかは、無言の家庭内、性教育を必要とする気がする。市橋達也被告のあまりにも身勝手な答弁に怒りを覚える。市橋達也被告の両親は、この男に性教育をしたのだろうか。私も女の子どもを持つ親だ。リンゼイさんの親姉妹がこの証言を聞くに堪えない内容である。その心境は察するに余りある。多くの親にとって「自分の子にかぎって」と我が子を擁護してしまう。せめて男と女の関係は、複雑怪奇魑魅魍魎であるが故に、これを構築維持することは、子育てと同じく人生の最大事業であることを叩き込んでおかなければならない。ただ単に生殖のためだけの行為でなくなった人間の性行為は、両者の合意と願望においてだけ成立する。その合意は、愛情、金銭、打算など多種多様な人間模様で決められる。そして性行為によって、両者男も女も、喜びを感じる行為でなければならないと私は思う。人間だけに与えられている愛情の力がここにある。人間を犯罪から守れるのは、愛だけかもしれない。今回の事件のように交通事故なみの出会いがしらのようで、そこまでに至るお互いの気持の高まり熱い恋心を育む過程のない、あまりに幼稚な衝動的行動に私は怒りを覚える。


 
子育ての苦労心労は、その瞬間的な喜びの代償なのかもしれない。なんと多くの親が「こんな筈ではなかった」と思っていることか。その点において、私は間違いなくそのひとりだった。離婚後の私の二人の子育ては、まるでざんげの荒修行で、償いの服役のようだった。市橋被告は、ホルモンの欲望に身を任せた故に、これから同年輩の人々が過すであろう、刑務所の外での、持て余すような、ごく普通の退屈で有り余る自由な、人生を送ることは、まず金輪際できない。また決して両者合意で成立する自然な恋愛もセックスにも縁が無くなる。それでもリンゼイさんは、浮かばれない。一方的な欲望処理ためだけの犯罪は、いつも身勝手である。

 リンゼイさんの家族が市橋被告に裁判でどんな判決が出されても、日本から英国に帰国して、自宅でリンゼイさんが育ち過した部屋で、リンゼイさんが確実に彼らと生活を共にしていた空間に身を置けば、身を切られるほどの喪失感に襲われるであろう。つらいだろう。それでも人間は、生きていかねばならない。関係者が死に絶えるまで続く。これを残酷といわず、何を残酷というのか。

 

 

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