私は小学生の時、個人の土地所有が不思議でならなかった。大地主もいれば、まったく土地を所有しない者もいる。一体ここはだれだれの土地といつからどうやって決められたのか知りたくてたまらなかった。私が泳ぎに行ったり、魚獲りに夢中になっていた千曲川の川原に畑があった。ある夏、洪水で川の流れが変わり、畑があった川原は消えた。私が父に尋ねると「もともと川は、国家のもので、問題はない」と答えた。私は「国家って言ったって、国ができる前はだれのものだったの?」といつもの質問攻勢をかけた。「だれのものでもなかったのと違うか」と父の答えは、はっきりしなくなった。私「千曲川だって何千年の間にこの盆地の中、流れをあっちこっちと大きく変えてるけど、そのたびに地主も変わったの?」父「・・・」 結局土地を入手できるのは、目ざとい早い者勝ちなのだと私は勝手に理解したつもりになっていた。
17歳でカナダの高校に転校した。学校がある町で農地が1ヘクタール(3千坪)5ドルで売買されていると聞いた。一方カナダに昔から住んでいた原住民であるインディアンは、特別居留地に押し込められていた。インディアンが長く自由に住み暮らした土地に余所者が大西洋を渡って来て、国家を成立させ、法律をつくった。地球上では、常に侵略征服した側が、征服後、征服者の法律の元、地表の所有権が発生して国家の庇護を受ける。
9月24日、沖縄県石垣市にある那覇地方検察局は、中国人船長を処分保留のまま釈放すると発表した。腰砕け、尻すぼみ、後じさり。いつものことだが、政府与党は、「冷静に」「粛々に」と歯の浮くような憲法や憲章に使われる理想幻想的な美辞麗句を並べるだけである。日本の政治屋や官僚の常識が通用しない気分が悪くなるような現実や仕打ちに出会うと、即、尻尾を丸めてしまう。嫌なものを見たくないので眼をそむける。中途半端な正義では、利害得失にしのぎをけずるジャングルと化した世界での外交ができるものではない。
秀才や優等生や3つのバンを受け継いだ世襲者ばかりの日本国の舵をとる人々は、中国のように国際社会に身を置きながら、なりふり構わず自国の一党独裁と海外覇権に猛進する国家への対処ができない。国際的には孤独な自称お坊ちゃまと野心満々多勢の新興ガキ大将との対立の構図である。お坊ちゃまは、優雅に言の葉遊びを楽しむ振りをするしかないようだ。
この事件を傍観していて、昔、砂場で遊んだ“棒倒し”を思い出した。砂場に砂の山を築いて頂上に棒を立てる。子どもたちがその山を取り囲み、順番に一人一回両手で自分の手元に砂を山から掻きとってくる。棒を倒した者が敗者となる。今回の尖閣諸島事件の舞台の島は、まさに日の丸が立つ“棒倒し”の砂山である。お坊ちゃま一人で遊んでいたゲームに勝手に参加してきた中国は、ルールを無視して、日の丸の棒ごと砂山を自分の領土であると、ひとかき、またひとかきと地上から海底からとあらゆる手段で引きつけようとしているように見える。日本が過去に国際社会での未成熟さゆえに犯した醜い罪を、今度は中国が犯そうとしている。どれほど領土主権を拡大すれば気が済むのか。
日本国憲法の前文は《われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。》と謳う。「国際社会は、利害得失のジャングルで強い者が生き残る」という信念を持ってなりふり構わず突き進む国と、彼らに「小日本」と見下され憲法の前文で「日本さえ邪心を持たなければ、他国はすべて日本より善良な国だから、世界も日本も幸福になれる」と謳うわが国は、どう対峙するというのだろう。日本は、夢のような美辞麗句の言葉だけの理想に押しつぶされそうになっている。理想は理想。現実は現実。ジャングルで生き抜く術は、学校では教えてくれない。自分を守れるのは、自分だけである。ジャングルのことは、ジャングルで学ぶしかない。私は、このところ日本にこのままずっと住むことが不安でならない。情けないがジャングルで生き抜く術を一番知らないのは、私なのかもしれない。
そんな情けない私が思いつくひとつの解決法は、沖縄の普天間基地を尖閣諸島に移転することだ。瀬戸内海をまたいで四国と本州の間に4本の大橋を架け、北海道と本州をトンネルでつないだ土木工法技術を持つ日本である。できないはずがない。中国は日本と権益を争う東シナ海の島も無い海の中に『白樺』という天然ガス掘削海上基地をすでに強行建設した。どのみち普天間の海上に滑走路を作る計画である。無人島のままにしておいたことが隙を与えた。ほったらかしにしておく理由はない。日本人がひとりでも尖閣に住み、島を有効に活かしてこそ、日本固有の領土となる。一刻を争う。高速道路無料化より高校授業料無料化より優先されるべき事案だ。