団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

吉田有希ちゃんの笑顔

2014年06月04日 | Weblog

 袴田死刑囚の再審が認められ、袴田さんは即日釈放された。死刑判決が言い渡されて48年が経つ。48年という年月は私の人生でいえば、3生分に当たる。最初の結婚の9年間、離婚して独身に戻った13年間、再婚して今日までの23年間。それでもあと3年間余る。私が自分の人生を遡っても、その膨大な時間に圧倒される。その48年間をたった2畳の狭い、しかもトイレと洗面が一緒の空間に閉じ込められた生活を想像することさえ私にはできない。私の人生を波乱万丈であったなどと言うことはなんともおこがましい。

 冤罪であったならば真犯人は今どこにいるのか。この事件では4人が殺され犠牲になった。完全犯罪なんていうものが存在するのか。私は日頃、巡り合わせというか偶然の重なり合いに言い知れぬ不可抗力を感じる。私はもちろんのこと、多くの人は日常生活において「もし間違って犯人にされたなら」などと警戒して暮らしていない。本人は何気なく無防備で取った行動、例えばパチンコ屋に行ったから、ポルノのDVDを借りたから、防犯カメラに自分が所有する同じ色で車種が映っていたからと逮捕の決め手にされてしまうことも有る。法治国家といえども、司法が嘘と真実を水と油のように分離させることは難しい。嘘は真実を融解し闇に葬ろうと悪魔と化す。人が人を裁くことはできないのかと私は弱気になる。

 ちょうど『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(清水潔著 新潮社 1600円税別)を読んでいる最中に袴田さんの再審決定と釈放のニュースが飛び込んできた。このニュースに後押しされるように一気に『殺人犯はそこにいる』を読み上げた。清水潔さんの自分の足で歩いて情報を集める地道な記者魂に感服する。清水さんのような記者がいることに元気づけられた。間違いなく力作だ。

  私は殺人事件でも子供を殺す犯罪に強い嫌悪感と殺意に近い怒りを持つ。死後の世界を信じられない私だからこそ、犯人の身勝手で非人間的な欲望の犠牲になった幼い命を“甚大なる無駄な死”と地団駄を踏む。特に幼児性愛者による女の子の殺人には我慢がならない。おそらく自分にも娘がいるせいだ。もし我が娘が、と妄想して自分を見失う。

  栃木県今市市(現日光市)で平成17年12月当時7歳だった吉田有希(ゆき)ちゃんが下校途中に行方不明になり茨城県の山の中で刺殺体となって見つかった。事件から8年半が経過している。先日も妻とテレビでニュースを観ていて「栃木の小学生の女の子を殺したとほのめかしたという別件で逮捕された男について、その後何も報道がないね。どうしていつもこう尻切れトンボで視聴者や読者を置いてきぼりにするんだろう」と話したばかりだった。本人が犯行をほのめかしても物的証拠がなければ、逮捕立件できない。冤罪判決が続出する中で警察も慎重に捜査を続けているに違いない。昨日6月4日、数か月前に報道された別件逮捕された32歳の男が逮捕された。物的証拠がないという。真犯人なのか疑問が残る。まだ真犯人に有利で被害者側に不利な構図は払しょくできない。

  犯罪から幼子たちや女性を遠ざけるには、それなりの自覚と計らいが社会全体に必要だ。家族に限っても、自分以外に妻や子供や孫たちまでを野放し状態の犯罪者から守ることなど私には難しい。油断も隙もあったものではない。今まで海外でも日本でも最も有効だったのは、幼い子供でも女性でも、絶対に一人にさせないことである。自分本人にも当てはまる。それには金がかかることもある。安全は金で買えることが多いということも体験を通して学んだ。私たちは常に犯罪との闘いを強いられている。知恵比べ、根気比べである。

  テレビに映し出される吉田有希ちゃんの笑顔が切ない。

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« コーンフレイクス | トップ | 初夏の魚群とアオサギ »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事