団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

いい卵の日 11月05日

2012年12月12日 | Weblog

  私は主夫である。バツイチで二人の連れ子がいた。再婚した妻は私と違って実直な勤め人である。年齢も十二歳年下だ。私の事業の先行きに見切りをつけた頃、二人で話し合った。私が四十二歳の時だった。尊敬するある会社の経営者に将来を相談した。彼のアドバイスは「人間、五十歳前なら失敗しても再起の可能性はある。だけど五十歳過ぎて失敗したら、まず再起できない。それを踏まえて決断したら」だった。ちょうどその時妻に海外勤務の話がきた。「配偶者として同行できるけれど条件があるの。その配偶者は無職であること、禁治産者でないこと。あなたは、ここまでがんばったのだから、海外で私を助けて、のんびり暮らさない」と妻が私を誘ってくれた。私は妻に同行して主夫になることを決心した。

 最初はネパールの首都カトマンズに住んだ。エベレストがそびえヒマラヤの山懐にある美しい国に住めると喜んだ。到着してから二週間ホテルで卵が原因の食中毒のため夫婦でトイレを取り合った。水道水はどんなに待っても茶色が透明に変わることはなかった。水の出も悪かった。断水も四六時中起きた。在住の日本人から「ここで健康に暮らすには、一に清潔な飲料水の確保、二にできるだけ食料は自給すること、三に食事は自分たちで調理して管理すること」と教わった。主夫の出番を与えられた。

 前任者から引き継いだ住居は、敷地三百坪建坪八十坪のコンクリートの三階建てだった。家の周りは、三メートルを超す塀に囲まれていた。庭に六十坪の畑もあった。なにもかも独学だった。清潔な飲料水づくりに毎日三時間、畑の土づくり、消毒、コンポストでの肥料づくり、種まきとネパール人の助手と働いた。仕上げは、生卵を食べるための二十羽の鶏を飼う環境作りをした。

 そしてネパールに来て六か月後、私たちは友人を招いて“卵かけご飯パーティ”を開いた。みな疑心暗鬼で箸運びが重かった。無理もない、現地で買った卵の中に回虫を見つけたり、下痢の経験がそうさせた。ハラハラドキドキのパーティ後、だれ一人病気にならなかった。安全な卵かけご飯パーティのおかげで、私は多くの在住日本人から一躍、生卵の主夫として存在を認められた。主夫のたまごが孵化して,やっと主夫のひよこになった瞬間だった。その後のネパールでの二年半は毎日が卵でいい日であった。

 十四年の海外生活の後、日本で安全な卵を毎日買って食べられることを幸せに感じるのは、卵の苦労を知っているからこそと、たまごから二十一年廃鶏寸前にまで成長した主夫は思う。

 (いいたまごの日、11を“いい”0を“たま”5を“ご”と語呂を合わせた11月05日にちなんだエッセイ応募作品 結果は没)

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