団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

タックル

2018年05月18日 | Weblog

  5月6日、日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの定期戦で、日本大学の選手が相手のクォーターバックをタックルで倒した。ニュースは、私の過去の記憶を呼び戻す起爆剤になる。私が経験したスポーツで危険と感じたのは次の3つである。

①     アイスホッケー

②     アメリカンフットボール

③     柔道

①      アイスホッケーはカナダに行って初めて経験した。日本では公園の堀か学校の校庭に冬、臨時に作られたスケートリンクぐらいでしかスケートをしたことがなかった。カナダの学校では冬、アイスホッケーが体育の授業として行われた。こんなに恐ろしいスポーツはないと思った。何が恐ろしいってパックを打つスティックだけでなく相手のそして自分のスケートの刃が凶器になることである。滑るのがやっとだった私は、相手にステッキを脚の間に差し込まれ、突然前のめりに転倒した。そのような行為は、常に審判に見られぬように巧妙にされる。そしてスケートの滑り方に熟達していない私のような初心者は、倒れる時、自分のスケートの刃で怪我をする。学校の授業でのアイスホッケーは、防具もほとんどつけずに行われた。

②      カナダの体育の授業でアメリカンフットボールも行われた。(写真:カナダの私の体育の授業でのアメフト。ピーター・ガマッシュがボール持って走っている)正式にはアメリカンフットボールとカナディアンフットボールは少しルールが違った。それでも危険なスポーツであることには変わりない。クラスに学校チームの名クォーターバックだったピーター・ガマッシュがいた。彼はとても優しく成績も優秀だった。ある日体育の授業のアメフトの試合にあろうことかピーターが私にクォーターバックをやれとグランドに引き込んだ。日本から来た私に気を配ってくれた。彼は言った。「クォーターバックはボールを持っていればタックルされるが、ボールをパスしてしまえばタックルされない。」 確かにルールには“ボールキャリアではない選手に対する不要なタックルは禁止”とある。

 今回の日大と関学大の反則場面の動画がニュースで繰り返し放映される。関学大のクォーターバックはボールをパスしてグランドの隅に立っていた。そこへ日大のディフェンス(防御)の選手が突進して行きタックルして倒した。膝カックンのように関学のディフェンスが地面に倒れた。審判は直ちに反則を取り黄色い布を現場に投げた。私はこの審判の判断をどこのマスコミもコメンテーターも取り上げないのが不満である。視点を変えてみることも大事である。スポーツは、ルールを守ってこそスポーツである。特にアイスホッケー、アメフト、ラグビーなど荒っぽいスポーツではルールがあって、それを守らせる審判によって安全が守られる。しかしアメフトの審判もこんなに複雑なルールに熟知しているなんてすごいことだ。

③      私は小学校の時、泣き虫で虚弱体質だった。両親が心配して柔道を習えばもっとしっかりするのではとの期待を持って私を柔道道場に送り込んだ。受け身が気に入った。しかし級取り試合で太った相手に抑え込まれて負けた。息ができなくて泣いた。柔道はそれでやめた。格闘技も私には向いていなかった。

 どんなに荒々しいスポーツでもルールがある。なければ喧嘩になり、ひどい場合は殺し合いになってしまう。観る側もルールにのっとって展開されるギリギリの激しさを楽しむ。臆病者の私も観戦することは好きだ。汚いヤジを吐き、選手が聞いたら怒るであろう失礼な講評さえする。そうできるのは、私が現場でなくテレビという媒体を通して観ているからである。小心者の典型である。人間の心には残虐性が潜んでいるようにも思える。ルールがあり、ルールを熟知していてルールを守らせる審判の存在があってこそスポーツは成り立つ。アメフトは監督が選手を駒にして戦う盤上ゲームをグランドに置き換えた肉弾スポーツである。常に危険を伴う。監督に必要なのは、何より選手を危険から守ることとスポーツマンシップをどんな時でも最優先させる勇気である。日大の監督には、どうやらそれが欠けているらしい。残念なことだ。


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