団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

世界らん展

2009年02月18日 | Weblog
 2月14日(土)日帰りバスツアーで妻と東京ドームで開催されている“世界ラン展”に行ってきた。妻はランの花が好きだ。数年前このラン展を観ようと後楽園へ行ったらあまりの入場待ちの行列が長く、入場するのに2時間はかかると聞き、あきらめて帰宅したことがある。バスツアーで参加すれば、混雑を避けることができるかもしれないと考えたが、解決にはならなかった。 世間知らずというのか、勝手な思い込みで、このような失敗は数多い。ずっとラン展の観覧をお預けされていたので、私たちのこの世界ラン展への期待は、高まるばかりだった。

 東京ドームのランの会場に入った途端、期待は失望に変わった。グランドはランと人で埋まっていた。ランの展示があまりにも人工的だった。日本のランの栽培技術はおそらく世界でも最高水準であろう。ランも立派だ。もともとランの花は、完成された造形美を持っている。これでもかと数を並べられるより、私は、ひとつのランの花をじっくり鑑賞するほうが好きである。展示の仕方が、あまりにも不自然だった。たくさんのランの鉢を配置して、まるで一本の樹木のように見せようとする。

 理解できないのは、あまりに多くの人々がランの花の写真をとるのに夢中なことだ。その光景は、皆がランの写真集を作ろうとしているかのようだった。会場をまわっているうちに、このラン展を企画運営している側の手の内が見えてくるように感じた。広い会場の半分以上が、ランなどの販売コーナーになっていた。どう関係つけて良いのかわからない高いワインの試飲コーナーでは、多くの販売員が、客に張り付いてワインを売りつけようと虎視眈々であった。あまりの売らんかなの雰囲気に悲しくなった。

 妻と早々に会場から観客席の休憩所に逃げ込んだ。観客席から会場を見渡した。やはり来なければよかったと妻と二人で反省した。

 呆然と会場を見渡しながら、ネパールに住んでいた家の木に寄生して咲いたランの花(写真参照)を思い出した。自然は凄い。厳しい生活環境の中で、私たちはそのランの花に癒された。その経験が私たち夫婦のランへの思い込みを助長したに違いない。何ごとも過剰であったり、やりすぎることは、悔恨を生むだけの結果となる。

 ラン展に来るよりは、街の花屋でりっぱな胡蝶蘭を観ていたほうが目の保養になったと思う。また失敗を通じて、勉強した。早めにラン展の会場を出て、ドームの脇の小石川後楽園に入った。梅が満開だった。2月だというのに気温は、20度を超えていた。たくさんの人々が、土にしっかり根をおろし、もう何十年も毎年咲き続けている梅の花を愛でていた。匂いも温かい外気に溶け込んで、私たちの傷心を慰めてくれた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする