巣窟日誌

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東京ディズニーランドの思い出~TDR30周年に寄せて

2013-04-15 22:37:10 | 日記・エッセイ・コラム
潮干狩りに行く途中のバスの中で、「ここにディズニーランドができるんですよ」とバスガイドさんが言った途端、東京は板橋区の公立中学の1年生の集団がドッと笑った1973年。冗談だと思ったし、「仮にそこにできたとしても誰が行くのだろうか」というのが、当時の12~13歳の正直な感想だった。だが、それから10年。本当にできてしまったのには、正直言ってたまげた。
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1983年の開園後、すぐに問題になったのは、「お弁当をもちこめない」ということ。新聞なんかも結構とりあげていたなぁ。

当時の日本人の家族そろってのレジャーといえば、お母さんが早起きをして、おにぎりだのお稲荷さんだのゆで卵だのを作り、現地でそれを広げてみんなで食べるのが一般的だった。

一方オリエンタルランド側は、(本音は入場者に少しでも多くお金を落としてほしいという気分も入っていたような気がするが、)公けには「非日常の中に日常を持ち込んでほしくない」「ここはアメリカ」という立場をとった。「アメリカ」なのだから、おにぎりやお稲荷など、日本文化の象徴である「弁当」ないだろう…ということらしかった。

「アメリカ」だから当初は園内で食べられるメニューにも、日本食っぽいものはあまりなかった。「日本食がないため、高齢者にやさしくない」との批判が出た。そこで「アメリカで日本食を作ったらどのようなものになるか」ということをコンセプトにしたメニューが現れた。

しかしそれでも、「お弁当を持っていきたい」という声は絶えず、最終的には園外にピクニックエリアを設けることで、解決を見た。

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わが家で一番早く東京ディズニーランドに行ったのは、母。開園した年に、職場の同僚たちと行った。母がスペースマウンテンに乗ったところ、途中で機械が故障して止まってしまったらしい。いつもは暗いはずのスペースマウンテン内部にパッと灯りがつき、係員に誘導され徒歩で出てきたそうだ。

わたしが初めて行ったのは、翌1984年。たしか時折小雨が混じる寒い曇天の平日だった。さすがに人出がまばらで、当時のアトラクション全てを1日で回りきることができた。

1987年の秋に職場の同僚たちと行ったときには、その年の春に新しく加わったアトラクション「キャプテンEO」を見ようと鼻息荒く、朝早く訪れた。

時はマイケル・ジャクソンの人気が絶頂期にあったころだ。開園前から並び閉園まぎわまで園内にいて、こなしたアトラクションの数は、キャプテンEOを含めてたった3つ。それでも満足だった。

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1990年から1991年にかけて、わたしは短期間ながら、建設用の工具や材料を製造・販売する某外資系企業に勤めていた。従業員のほとんどは中途採用組で、建設業界や土木業界からの転職者が多かった。

この会社に、「東京ディズニーランドはオレ(もしくは私)が作ったも同然」とわたしに言った従業員が、2名いた。その一人のAさんは「アメリカのディズニーと交渉して、東京ディズニーランドの企画をまとめたのは、当時商社で働いていた私」だと言い、もう一人のBさんは「東京ディズニーランドの中にある、水に関連する設備すべての設計を行い、現場を指導したのはオレ」だと主張した。

留意すべき点は、AさんとBさんがそのような主張をするのは、決まって私と当人だけしかいない状況においてだったということだ。

ある日、わたしがAさんに対して「Bさんが東京ディズニーランドの建設にかかわったと言っている」と言ったとき、Aさんは「それは嘘よ。私は建設関係者全員の顔を知っている。Bなどいなかった」と気色ばんだ。

後日、Bさんに「Aさんは東京ディズニーランドの関係者だったらしい」と言ったとき、Bさんは「そんなはずはない。オレは現場に毎日行っていたが、Aのことなど見たことも聞いたこともない」と、声を荒げた。

従業員が全国で200人規模の小さな日本法人に、東京ディズニーランド建設の中心的役割を果たした人物が、2名もいるはずがない。いや、1名だっていないだろう。そんな人物なら、そもそもあのような会社で働いてはいなかったはずだ。つまりは、この2人の話は嘘だ。なぜ、そんな嘘をついたのか。

もちろん、上昇志向の高い二人の自己顕示欲だったのだろう。だが、東京ディズニーランドは、建設にかかわる業界で働く人間が、嘘だとばれる確率が高いにも関わらず「自分がこれを作ったも同然」と嘘を言ってしまいたくなるほど、魅力的な施設だったのだ。