先週末の三連休に、大船渡へ行ってきた。
正確に言うと、金曜日(7月12日)の夜行バスに乗り、翌13日の朝の7時半ごろに大船渡市入り。海の日の15日の夕方には東京で別の用事があったので、午前中のうちに大船渡を出た。
目的は友人に会うこと。と友人の故郷である大船渡の現状を見ること。そして被災地に一市民であるわたしが何ができるかを考えること。
友人は結婚後LAに住んでいたが、あの東日本大震災の時は大船渡へ帰省しており、当日は気仙沼で被災した。ここまでいうとわかる人はわかるし、ネットを含めたマスコミと個人のブログ等の両方でこの話と名前が出ているので、ここでは名前を出さないほうが不自然になるだろうから書いておくと、その友人とは鵜浦真紗子さんだ。
彼女は、国連大学高等研究所のゼロエミッションのプロジェクトマネージャーをしていた時代の一時期に、職場の真向かいにある青山学院大学の大学院の国際政治経済学研究科の修士課程に通っており、わたしと同期だった。
さて、まず初めに連れて行ってもらったところは、かつて彼女の自宅とお父様の経営していた病院があったところだ。その一帯はとにかくだだっ広い雑草の生えた何もない土地の一角にあった。一角と言っても500坪だが。「ここがわたしの家があったところ」と、言われたところは広大な一面の雑草だらけの空き地にしか見えない。
地面にはところどころに、アスファルトの道路跡が残っている。「ここに病院があって、いつもここからこういう風に入って…」かつては道路だったアスファルトをたどりながら、彼女の説明を聞いていると、切ない。その一帯の地盤はかなり沈んでしまったらしく、震災後道路を通す際には、その部分にだいぶ土を盛ったとのことだった。
瓦礫が片付いていたのは、大船渡にある太平洋セメントが大船渡を含む広域の瓦礫の焼却を、大きく受け入れたからだと聞いた。
わたしが見た仮設住宅は、学校の校庭の上に建っていた。仮設住宅と駐車場。これは必要なものだ。そこで元々平らで広さがるため使いやすい校庭を使う場合がある。すると子供たちが体を動かす場所がなくなる。こどもたちの間ではサッカーと野球が盛んなスポーツだったのに、震災後はサッカーと野球をやる子供たちが減ったのだという。そんな状況を憂いて、NPOたちが何とかしようと動いている。例えば、子供たちが東京ドームで野球をやる機会を作ったり。
さて、大船渡にいる間に、綾里の綾里漁業組合の事務所と荷さばき施設等の新設工事の竣工祝賀会に出席する機会を得た。これらの施設は震災で大きなダメージを受け、施設の新設には海外の複数の団体からも支援があり、そのひとつが南カリフォルニア日米協会だった。鵜浦さんはこの協会の人間として出席することになっていたため、偶然その日に彼女と一緒にいたわたしも同席したのだ。
綾里漁港の復興ぶりは、あの地域一帯の漁協としては最もはやいものらしく、「他の漁協がこの綾里の頑張りを見て、『自分たちもできるはず』と後に続いてくれれば…」という言葉を、複数の人の口から聞いた。
だが、東京へ帰って綾里での出来事を人に話したら、「まだ、そんな状態なの?」と言われた。当然もっと復興が進んでいると思っていたのだろう。被災地の外からは、こういうことはなかなか見えないものだ。しかもその綾里ですら、以前の状態に戻るにはまだ時間がかかる。
ところで、大船渡に電車は通っていない。震災の津波で流れてしまったからだ。気仙沼から大船渡市の盛までは大船渡線BRT(バス高速輸送システム)が運行している。元々赤字路線だったため、おそらくもう電車は開通しないだろうという話だった。
帰りはこのBRTに乗った。バスに乗り上を見上げると、一面に子供たちの描いた絵があった。
おばさんは、最近涙もろいんだ。じわっときたよ。
大船渡滞在中は、鵜浦さんのお宅に泊めてもらった。滞在中いろいろな方にお会いしたが、どの人もそれぞれの分野で頑張っていてすごい人たちばかりだった。中でも、90近くになる鵜浦さんのお父様は、ほんとうに素敵な方だった。
正確に言うと、金曜日(7月12日)の夜行バスに乗り、翌13日の朝の7時半ごろに大船渡市入り。海の日の15日の夕方には東京で別の用事があったので、午前中のうちに大船渡を出た。
目的は友人に会うこと。と友人の故郷である大船渡の現状を見ること。そして被災地に一市民であるわたしが何ができるかを考えること。
友人は結婚後LAに住んでいたが、あの東日本大震災の時は大船渡へ帰省しており、当日は気仙沼で被災した。ここまでいうとわかる人はわかるし、ネットを含めたマスコミと個人のブログ等の両方でこの話と名前が出ているので、ここでは名前を出さないほうが不自然になるだろうから書いておくと、その友人とは鵜浦真紗子さんだ。
彼女は、国連大学高等研究所のゼロエミッションのプロジェクトマネージャーをしていた時代の一時期に、職場の真向かいにある青山学院大学の大学院の国際政治経済学研究科の修士課程に通っており、わたしと同期だった。
さて、まず初めに連れて行ってもらったところは、かつて彼女の自宅とお父様の経営していた病院があったところだ。その一帯はとにかくだだっ広い雑草の生えた何もない土地の一角にあった。一角と言っても500坪だが。「ここがわたしの家があったところ」と、言われたところは広大な一面の雑草だらけの空き地にしか見えない。
地面にはところどころに、アスファルトの道路跡が残っている。「ここに病院があって、いつもここからこういう風に入って…」かつては道路だったアスファルトをたどりながら、彼女の説明を聞いていると、切ない。その一帯の地盤はかなり沈んでしまったらしく、震災後道路を通す際には、その部分にだいぶ土を盛ったとのことだった。
瓦礫が片付いていたのは、大船渡にある太平洋セメントが大船渡を含む広域の瓦礫の焼却を、大きく受け入れたからだと聞いた。
わたしが見た仮設住宅は、学校の校庭の上に建っていた。仮設住宅と駐車場。これは必要なものだ。そこで元々平らで広さがるため使いやすい校庭を使う場合がある。すると子供たちが体を動かす場所がなくなる。こどもたちの間ではサッカーと野球が盛んなスポーツだったのに、震災後はサッカーと野球をやる子供たちが減ったのだという。そんな状況を憂いて、NPOたちが何とかしようと動いている。例えば、子供たちが東京ドームで野球をやる機会を作ったり。
さて、大船渡にいる間に、綾里の綾里漁業組合の事務所と荷さばき施設等の新設工事の竣工祝賀会に出席する機会を得た。これらの施設は震災で大きなダメージを受け、施設の新設には海外の複数の団体からも支援があり、そのひとつが南カリフォルニア日米協会だった。鵜浦さんはこの協会の人間として出席することになっていたため、偶然その日に彼女と一緒にいたわたしも同席したのだ。
綾里漁港の復興ぶりは、あの地域一帯の漁協としては最もはやいものらしく、「他の漁協がこの綾里の頑張りを見て、『自分たちもできるはず』と後に続いてくれれば…」という言葉を、複数の人の口から聞いた。
だが、東京へ帰って綾里での出来事を人に話したら、「まだ、そんな状態なの?」と言われた。当然もっと復興が進んでいると思っていたのだろう。被災地の外からは、こういうことはなかなか見えないものだ。しかもその綾里ですら、以前の状態に戻るにはまだ時間がかかる。
ところで、大船渡に電車は通っていない。震災の津波で流れてしまったからだ。気仙沼から大船渡市の盛までは大船渡線BRT(バス高速輸送システム)が運行している。元々赤字路線だったため、おそらくもう電車は開通しないだろうという話だった。
帰りはこのBRTに乗った。バスに乗り上を見上げると、一面に子供たちの描いた絵があった。
おばさんは、最近涙もろいんだ。じわっときたよ。
大船渡滞在中は、鵜浦さんのお宅に泊めてもらった。滞在中いろいろな方にお会いしたが、どの人もそれぞれの分野で頑張っていてすごい人たちばかりだった。中でも、90近くになる鵜浦さんのお父様は、ほんとうに素敵な方だった。