小説でも映画でも、作品のヒットを受けて当初は想定していなかった続編が作られる場合、しばしば前作とのつじつまを合わせに大変苦労し、矛盾する事態が生じることがある。
たとえば映画『エイリアン』シリーズでは、3作目の冒頭で2作目の登場人物たちの苦労を「すべてが無駄だった」ことにしてくれた。その後主人公のリプリーは自殺したはずなのだが、その次にはクローンになってよみがえっているのを見るにつけ、このシリーズはもはや、どういう設定で前作の縛りをクリアするのかを、楽しむほかあるまい。
マイケル・クライトンの小説『ジュラシック・パーク』では、数学者のイアン・マルコム博士は確かに最後のほうで死んだはずだった。が、続編ではその博士がメインに活躍した。「確かに怪我はしたが、死亡というのはマスコミに流れた誤報だった」という説明には、卓越したストーリーテラーであるクライトンにしてはちょいと無理があると、さすがに失笑。が、小説版も映画版(演じたのはジェフ「蠅男」ゴールドブラム)も博士のキャラが立っていたので、これはこれで良しとしよう。
◆◆◆
さて、ガストン・ルルーの小説をもとにしたアンドリュー・ロイド・ウェバーの『オペラ座の怪人』の続編 "Love Never Dies" である。最初は続編の制作は考えてられていなかったはずだが、その後作曲家は、ファントムのその後を描くミュージカルを作ろうと考え始めた。
この続編の構想を聞いた小説家フレデリック・フォーサイス(『ジャッカルの日』『オデッサ・ファイル』『戦争の犬たち』等)は、ミュージカルのもととなる小説『マンハッタンの怪人』を上梓した。タイトルの通り、舞台はパリオペラ座からマンハッタンに移る。だがこれが、『オペラ座の怪人』ファンには受け入れがたい設定を含んでいたため、ロイド・ウェバーが続編制作に断念したらしいというニュースが流れたときに、大方の人は胸をなでおろしたと思う。
しかし、ロイド・ウェバーはあきらめなかった。フォーサイスが作った設定の一部を利用(フォーサイスの名前もクレジットされている)し、登場人物たちを大幅に入れ替えて、ついに続編を作ってしまった。
ロイド・ウェバーのミュージカルは『ジーザス・クライスト・スーパースター』以来、先に物語の全貌がわかるCDなりレコードなりが発売され、多くの人たちがミュージカルの中の曲のメロディ(とストーリー)に馴染じかなりの予備知識をえた後で、劇場に足を運ぶことになる。日本で発売されている国内版のCDにも歌詞とト書きのほぼ全体がついているので、英語が理解できればほぼ全体のつくりがわかるだろう。
わたしは先週このCDをWalkmanに転送して通勤中に聴きはじめたが、その展開にはぶっ飛んでしまった。(ロイド・ウェバーのミュージカルは歌でストーリーが進むので、歌だけ聴いていれば、大体の展開がわかる)。良くも悪くも、前作よりもソープオペラ(昼メロ)度が上がっているのだ。『オペラ座の怪人』にもソープオペラ的な雰囲気が漂う部分があったことはあったが、今作はまさにそのものだ。(んん?『ソープオペラ座の怪人』?)歌詞の内容に唖然として、降りるべき駅で降りるのを忘れてしまい、危うく遅刻するところだった。
その上、あまりにも陳腐な歌詞が多い。『オペラ座の怪人』のほうの歌詞は、「若い作詞家が頑張って持っている表現力すべてを駆使して作りました」的な、ときに懲りすぎの部分があるように思えるほどの詩的な表現と普段はあまり使わないような語彙が並んでいたが、今回は全く逆で平易かつ紋切型の表現が多い。クリスティーヌとファントムが、ともに過ごした一夜の体験をデュエットで回想するシーンでは、その歌詞のあまりのベタさに、母国語が日本語であるわたしの顔も、思わず(三田線の中で)赤らんでしまったよ。Ooh la la!
以下は、"Love Never Dies" のあらすじである。CDを購入すればわかる情報ばかりであるからこのネタバレに支障はないだろうが、ネタバレが嫌な方は読まないほうが良い。また、舞台は途中でストーリーが変更されることがあるので、以下に書くストーリーにも多かれ少なかれ変更があるかもしれない。
◆◆◆
この舞台の展開は、基本的には『オペラ座の怪人』の構成をなぞっている。
出だしは『オペラ座の怪人』と同じ回想形式をとる。火事のためにすべてが焼き尽くされてしまったニューヨークのコニーアイランドのアミューズメント・パーク跡に女性が2名登場する。(現在のコニーアイランドは歴史あるアミューズメント・パークと海水浴で有名である。)そのうちの一人はマダム・ジリィ。もう一人はこのアミューズメント・パークを作ったミスターYのもとで働いていた女性フレック。2人のやりとりから、かつてファントムがここにいたが、最後には「あの子ども」とともに姿を消してしまったことがわかる。そして、フレックはマダム・ジリィをなじる。「あんたの強欲がすべてをぶち壊したんだ」。
舞台は、すでに焼けてしまったアミューズメント・パークが出来上がったころに遡る。
あのファントムは、オペラ座に群衆から追いつめられて逃げた後、マダム・ジリィとその娘のメグ・ジリィの手配で新大陸へ逃れていた。その際に、ファントムとともにこの2名はニューヨークへ渡った。
それから10年後、コニーアイランドにこれまでにはない規模と大がかりな仕掛けのアミューズメント・パーク「ファンタズマ」が建設される。短期間でこれを設計して建てたのは、常に仮面をつけ素顔を見せない謎の男「ミスターY」=ファントムだ。
ファントムがアメリカに渡航・入国する手配をし、その後彼がこの事業ができるように資金調達の手配やら口利きやらの様々な下支えをしたのが、ジリィ母娘だ。ファントムが成功した暁には、彼女たちはファントムが得た富の多くの部分をもらう約束である。また、同時にマダム・ジリィは、かつてクリスティーヌ・ダーエがファントムに見いだされて大成功を収めたように、娘のメグがファントムに認められ成功することを願っている。これはまた、メグ自身の願いでもある。
メグは、ファンタズマで「ウーララー・ガール」(Ooh la la!)として歌って踊る。曲はヴォードヴィル用の "Bathing Beauty"(水着美人) 。彼女はファントムに認められて、彼の役に立ち、彼が必要とする人間になりたいと願っており、そのためにけいこに精進する毎日である。
成功への夢ゆえか、それとも彼に対する恋心からなのか、メグは自分のパフォーマンスをファントムが見に来てくれたかどうか、気に入ってくれるかどうかを常に気にしている。メグのその気持ちを、マダム・ジリィもわざとあおる。実際にはファントムがメグのパフォーマンスを見に来ることは決してなく、このことが物語の最後の悲劇につながる。
一方ファントムは、いまだにクリスティーヌを忘れられず、クリスティーヌのオートマトン(自動人形)を愛で、彼女を思い出しながら美しい曲を作っている。が、ファントムとすれば、そうして作った曲を歌うのはクリスティーヌでなければだめなのだ。
こんな風にいまだにクリスティーヌに固執しているファントムを、マダム・ジリィはなじる。「クリスティーヌはハンサムなほうを選んだんでしょ。あんたは捨てられたんじゃないの。その時にそばにいてあげたのは誰? わたしたちよ。」前作であれば、そんなことを言われたら、言った人間の首には縄が飛んできそうなものだが、キャラ設定に多少の変更があったのか、「約束した通り、君たちにはちゃんとお返しはするから」と律儀なファントムである。
さて、ファントムはファンタズマの中に、メトロポリタン劇場よりも大きな劇場を作った。その劇場でアリアを歌うべくフランスから呼ばれたのが「世紀のソプラノ クリスティーヌ・ダーエ」である。クリスティーヌは夫であるラウル・ド・シャニュイ子爵と息子のギュスターヴを伴ってニューヨークに上陸する。
なぜ、クリスティーヌがニューヨークのかの有名なメトロポリタン歌劇場ではなく、こともあろうに新設のアミューズメント・パーク内の劇場で歌わなければならないのか? それは出演料が非常に良かったからだ。実はシャニュイ家は、ラウルがギャンブルで大損をし、負債を抱えていた。ここでも前作からのキャラ設定に多少の変更があったらしく、本作でのラウルは常にイライラし、酒を飲み、息子と遊んだことがない。(あーあ、前作の白馬の王子様が…)
ラウルが作った借金は、クリスティーヌがソプラノ歌手として働くことで返済中だった。彼らは、今回の契約の他方当事者の正体を知らないまま、報酬ゆえにやって来た。アミューズメント・パーク全体がファントムのものであり、今回の歌の契約がファントムの計画であったことを、クリスティーヌは彼女の前に直接あらわれたファントムから、そしてラウルと彼とばったり会ったジリィ母娘から聞いて驚く。ジリィ母娘のほうも、ファントムがクリスティーヌをファンタズマに呼んだことを知らなかったため、非常に驚き心おだやかではなくなる。
ここで『オペラ座の怪人』を知っている観客にとって、新しい事実があきらかにされる。10年前、オペラ座の地下でファントムが辛くも群衆から逃れた後、実はクリスティーヌはファントムを探し、隠れていた彼を見つけだして彼に会っていた。彼女は嫁ぐ前のお別れを言うつもりだったらしいのだが、結果的に一夜を共にした。この時点でクリスティーヌはファントムについていくつもりになったらしいのだが、ファントムのほうは自分の行為を恥じ、彼女の目が覚める前に逃げ出してしまっていた。これは『オペラ座の怪人』ファンがフォーサイスの小説でどうしても受け入れられなかった「クリスティーヌが気を失っている間に、ファントムは…(以下略)」の設定を完全に変えている。
さて、ファントムは、彼女の美しい息子を自分の居城へと招く。このシーンは、『オペラ座の怪人』でファントムがクリスティーヌを初めて自分の本拠地であるオペラ座の地下へ案内したシーンに対応する。ファントム自身に興味を持ったギュスターヴがファントムの仮面を不意に外し、彼の醜い顔をみて恐怖におびえるところも一緒だ。ただし、前作はファントムの居城は地下にあったが、今作では非常に高所にある(aerie)ところが対照的である。
招いたギュスターヴの類まれな音楽の才能と自分に似た感性を見て取ったファントムは、子どもがあの一夜の時にできた自分の子供である可能性があることに気づく。クリスティーヌに問いただし、彼女が息子がファントムとの子供であることを認めときに、彼の期待と希望はいやおうなく膨らむ。これまでのつらく苦しい10年の苦労が一気に報われた気分である。「あの子に嫌悪されても構わない。わたしが与えられるものすべてを、あの子に与えなくては。」
がこれは、ファントムの作る富の多くが自分のもとに来ると思っていたマダム・ジリィにはこれまでの10年の苦労の末の果実が、突然現れた少年にすべて奪われるということに他ならない。
「あの子どもさえいなければ、私たちのもとに富が手に入ったはずなのに! この10年のわたしたちの苦労がこんなことに!」と怒りで吠えまくるマダム・ジリィ。このマダム・ジリィの怒りは1幕の最後に来るが、『オペラ座の怪人』の第1幕の最後のファントムの激しい怒りのシーンに対応する。
一方ラウルは、新聞記者から「クリスティーヌのヒモ」状態を指摘され、しかも今回のクリスティーヌの仕事が、とうに死んだと思っていたファントムの企みであったことを知り、いつにも増して荒れている。バーでグダグダに酔ったラウルは、はずみでファントムと賭けをしてしまう。賭けは、クリスティーヌが舞台でファントムの作曲したアリアを歌うか否かである。
クリスティーヌが舞台で歌えばファントムの勝ち。ラウルはクリスティーヌを置いて一人でフランスへ帰らねばならない。舞台で歌わなければラウルの勝ち。シャヌイ家が抱えている借金支払っても有り余る金を得て、一家はフランスへ帰ることができる。
メグ・ジリィの舞台は、クリスティーヌの前にある。彼女は "Bathing Beauty" で客の喝采をあびる。彼女としては会心のパフォーマンスであり、うまくやり遂げたことに興奮している。たったひとつ気になるのは、ファントムが彼を見ていてくれたかどうかだ。その娘に対して、イライラしているマダム・ジリィは「彼はあなたのパフォーマンスなんて見ていなかった。クリスティーヌと一緒にいて2人の子供のことしか考えていない。あなたがやってきたことは、すべて無駄だった」と述べて、メグを絶望させてしまう。
控室で出番を待つクリスティーヌの前にラウルがあらわれ「舞台で歌わないでこのまま一緒にフランスに帰ろう」と説得にかかる。ラウルの退場とともに今度はファントムが説得に登場する。(この時に、クリスティーヌのオートマトンが着用していたネックレスを、ファントムがクリスティーヌの首にかけるという演出がある。)クリスティーヌの心は千路に乱れる。
直前まで歌うか否かを迷っていたクリスティーヌは、伴奏が始まるとともに歌うことを決意する。歌の途中で賭けに負けたラウルが去っていくのを見て動揺するが、それでもファントムが彼女のために作ったアリア "Love Never Dies" を最後まで歌い上げ、大成功を収める。
クリスティーヌが控室に戻ると、ファントムが待っている。また、ラウルの置手紙と一輪のバラの花が残されている。ラウルの手紙を読み、かつてのオペラ座での二人のことを回想するクリスティーヌ。
が、その時彼女は、ギュスターヴがどこにもいないことに気づく。ラウルが連れ去ったのか? マダム・ジリィが連れ去ったのか? しかし子供を連れ去ったのは実は母親の言葉に絶望したメグだった。
メグはギュスターヴを埠頭へ連れて行く。どうやら彼女はギュスターヴを殺そうとしているらしい。ファントム、クリスティーヌ、マダム・ジリィは埠頭へと急ぐ。3人は彼女を見つけ、子どもを離すように言う。
メグはギュスターヴを離すが、その代わりファントムに銃を向け、絶望して言う。「どうしたらあたしを見てくれるのかっていつも考えていたけれど、やっとあたしを見てくれたのね。」
メグの絶望にはわけがあった。実は、ファントムに便宜をはかってもらうために、さまざまな手配を実際に行ってきたのは、マダム・ジリィではなくメグだった。それも顔が効く人間に枕営業をする形で。これはファントムには初めて知った事実だった(が、観客には、第1幕のかなり早い時期に、メグがそうしているらしいということが暗示される)。彼女はそうすることが嫌でひどく傷ついているが、それに耐えてきていた。
絶望して自らの額に銃を突きつけるメグを、説得しようとするファントム。今まで真実を知らなかったことを詫び、一時は説得が成功するかに見えた。が、ファントムがクリスティーヌの名を出したことから逆上したメグは、クリスティーヌを撃ってしまう。
撃たれて息も絶え絶えになったクリスティーヌは、ギュスターヴに対してファントムこそが彼の本当の父親だと告げ、ファントムにギュスターヴを託す。二人の最後のキスのあと、クリスティーヌは息絶える。
ファントムとギュスターヴは正面から向き合う。ギュスターヴはファントムの仮面を外し、ファントムはそれをするがままさせする。お互いが長く見つめあうところで幕が下りる。(ギュスターヴが醜い容姿を持つファントムを受け入れたであろうことが、このミュージカルの冒頭のフレックのセリフから推測される。)
◆◆◆
さて、本作で最も報われなかったのは、『オペラ座の怪人』では性格の肉付けがされていなかったメグ・ジリィだ。(CDから得られる情報では、メグが最後にはどうなるのかは不明である。)
彼女があれほど「ファントムに自分を見てもらいたい」「彼のためだけに輝きたい」と願った気持ちの源は何なのだろう、富と名声を求めるゆえか、自分に才能があると思いそれを証明したかったのか、才能豊かで美しいクリスティーヌに対する潜在的な憧れと嫉妬ゆえに彼女のようになりたいと思っているのか、純粋にファントムに恋をしているのか。この辺りは演出家が演出で明確に意図しない限り、観た者の解釈に任されるだろう。
恋と考えれば、その一途さに対してはもっとも強い説得力を持つ。しかし残念ながらファントムはフリークショーの見世物になるほど醜いという設定になっており、果たしてそんなファントムに、(クリスティーヌ以外の)女性が恋をするだろうか?
もちろん『オペラ座の怪人』の映画版のジェラルド・バトラーぐらいの容姿であれば(あれじゃあ、見世物にはならない)彼に恋する女性が1人や2人、いや10人や20人いてもおかしくない。なにしろ女は才能のある男が好きだからね。
(メグが歌っていた "Bathing Beauty" とは関係はないが、1940年代にそういうタイトルのアメリカ映画があった。日本語タイトルは『世紀の女王』。主演はエスター・ウィリアムズだった。)
たとえば映画『エイリアン』シリーズでは、3作目の冒頭で2作目の登場人物たちの苦労を「すべてが無駄だった」ことにしてくれた。その後主人公のリプリーは自殺したはずなのだが、その次にはクローンになってよみがえっているのを見るにつけ、このシリーズはもはや、どういう設定で前作の縛りをクリアするのかを、楽しむほかあるまい。
マイケル・クライトンの小説『ジュラシック・パーク』では、数学者のイアン・マルコム博士は確かに最後のほうで死んだはずだった。が、続編ではその博士がメインに活躍した。「確かに怪我はしたが、死亡というのはマスコミに流れた誤報だった」という説明には、卓越したストーリーテラーであるクライトンにしてはちょいと無理があると、さすがに失笑。が、小説版も映画版(演じたのはジェフ「蠅男」ゴールドブラム)も博士のキャラが立っていたので、これはこれで良しとしよう。
◆◆◆
さて、ガストン・ルルーの小説をもとにしたアンドリュー・ロイド・ウェバーの『オペラ座の怪人』の続編 "Love Never Dies" である。最初は続編の制作は考えてられていなかったはずだが、その後作曲家は、ファントムのその後を描くミュージカルを作ろうと考え始めた。
この続編の構想を聞いた小説家フレデリック・フォーサイス(『ジャッカルの日』『オデッサ・ファイル』『戦争の犬たち』等)は、ミュージカルのもととなる小説『マンハッタンの怪人』を上梓した。タイトルの通り、舞台はパリオペラ座からマンハッタンに移る。だがこれが、『オペラ座の怪人』ファンには受け入れがたい設定を含んでいたため、ロイド・ウェバーが続編制作に断念したらしいというニュースが流れたときに、大方の人は胸をなでおろしたと思う。
しかし、ロイド・ウェバーはあきらめなかった。フォーサイスが作った設定の一部を利用(フォーサイスの名前もクレジットされている)し、登場人物たちを大幅に入れ替えて、ついに続編を作ってしまった。
ロイド・ウェバーのミュージカルは『ジーザス・クライスト・スーパースター』以来、先に物語の全貌がわかるCDなりレコードなりが発売され、多くの人たちがミュージカルの中の曲のメロディ(とストーリー)に馴染じかなりの予備知識をえた後で、劇場に足を運ぶことになる。日本で発売されている国内版のCDにも歌詞とト書きのほぼ全体がついているので、英語が理解できればほぼ全体のつくりがわかるだろう。
わたしは先週このCDをWalkmanに転送して通勤中に聴きはじめたが、その展開にはぶっ飛んでしまった。(ロイド・ウェバーのミュージカルは歌でストーリーが進むので、歌だけ聴いていれば、大体の展開がわかる)。良くも悪くも、前作よりもソープオペラ(昼メロ)度が上がっているのだ。『オペラ座の怪人』にもソープオペラ的な雰囲気が漂う部分があったことはあったが、今作はまさにそのものだ。(んん?『ソープオペラ座の怪人』?)歌詞の内容に唖然として、降りるべき駅で降りるのを忘れてしまい、危うく遅刻するところだった。
その上、あまりにも陳腐な歌詞が多い。『オペラ座の怪人』のほうの歌詞は、「若い作詞家が頑張って持っている表現力すべてを駆使して作りました」的な、ときに懲りすぎの部分があるように思えるほどの詩的な表現と普段はあまり使わないような語彙が並んでいたが、今回は全く逆で平易かつ紋切型の表現が多い。クリスティーヌとファントムが、ともに過ごした一夜の体験をデュエットで回想するシーンでは、その歌詞のあまりのベタさに、母国語が日本語であるわたしの顔も、思わず(三田線の中で)赤らんでしまったよ。Ooh la la!
以下は、"Love Never Dies" のあらすじである。CDを購入すればわかる情報ばかりであるからこのネタバレに支障はないだろうが、ネタバレが嫌な方は読まないほうが良い。また、舞台は途中でストーリーが変更されることがあるので、以下に書くストーリーにも多かれ少なかれ変更があるかもしれない。
◆◆◆
この舞台の展開は、基本的には『オペラ座の怪人』の構成をなぞっている。
出だしは『オペラ座の怪人』と同じ回想形式をとる。火事のためにすべてが焼き尽くされてしまったニューヨークのコニーアイランドのアミューズメント・パーク跡に女性が2名登場する。(現在のコニーアイランドは歴史あるアミューズメント・パークと海水浴で有名である。)そのうちの一人はマダム・ジリィ。もう一人はこのアミューズメント・パークを作ったミスターYのもとで働いていた女性フレック。2人のやりとりから、かつてファントムがここにいたが、最後には「あの子ども」とともに姿を消してしまったことがわかる。そして、フレックはマダム・ジリィをなじる。「あんたの強欲がすべてをぶち壊したんだ」。
舞台は、すでに焼けてしまったアミューズメント・パークが出来上がったころに遡る。
あのファントムは、オペラ座に群衆から追いつめられて逃げた後、マダム・ジリィとその娘のメグ・ジリィの手配で新大陸へ逃れていた。その際に、ファントムとともにこの2名はニューヨークへ渡った。
それから10年後、コニーアイランドにこれまでにはない規模と大がかりな仕掛けのアミューズメント・パーク「ファンタズマ」が建設される。短期間でこれを設計して建てたのは、常に仮面をつけ素顔を見せない謎の男「ミスターY」=ファントムだ。
ファントムがアメリカに渡航・入国する手配をし、その後彼がこの事業ができるように資金調達の手配やら口利きやらの様々な下支えをしたのが、ジリィ母娘だ。ファントムが成功した暁には、彼女たちはファントムが得た富の多くの部分をもらう約束である。また、同時にマダム・ジリィは、かつてクリスティーヌ・ダーエがファントムに見いだされて大成功を収めたように、娘のメグがファントムに認められ成功することを願っている。これはまた、メグ自身の願いでもある。
メグは、ファンタズマで「ウーララー・ガール」(Ooh la la!)として歌って踊る。曲はヴォードヴィル用の "Bathing Beauty"(水着美人) 。彼女はファントムに認められて、彼の役に立ち、彼が必要とする人間になりたいと願っており、そのためにけいこに精進する毎日である。
成功への夢ゆえか、それとも彼に対する恋心からなのか、メグは自分のパフォーマンスをファントムが見に来てくれたかどうか、気に入ってくれるかどうかを常に気にしている。メグのその気持ちを、マダム・ジリィもわざとあおる。実際にはファントムがメグのパフォーマンスを見に来ることは決してなく、このことが物語の最後の悲劇につながる。
一方ファントムは、いまだにクリスティーヌを忘れられず、クリスティーヌのオートマトン(自動人形)を愛で、彼女を思い出しながら美しい曲を作っている。が、ファントムとすれば、そうして作った曲を歌うのはクリスティーヌでなければだめなのだ。
こんな風にいまだにクリスティーヌに固執しているファントムを、マダム・ジリィはなじる。「クリスティーヌはハンサムなほうを選んだんでしょ。あんたは捨てられたんじゃないの。その時にそばにいてあげたのは誰? わたしたちよ。」前作であれば、そんなことを言われたら、言った人間の首には縄が飛んできそうなものだが、キャラ設定に多少の変更があったのか、「約束した通り、君たちにはちゃんとお返しはするから」と律儀なファントムである。
さて、ファントムはファンタズマの中に、メトロポリタン劇場よりも大きな劇場を作った。その劇場でアリアを歌うべくフランスから呼ばれたのが「世紀のソプラノ クリスティーヌ・ダーエ」である。クリスティーヌは夫であるラウル・ド・シャニュイ子爵と息子のギュスターヴを伴ってニューヨークに上陸する。
なぜ、クリスティーヌがニューヨークのかの有名なメトロポリタン歌劇場ではなく、こともあろうに新設のアミューズメント・パーク内の劇場で歌わなければならないのか? それは出演料が非常に良かったからだ。実はシャニュイ家は、ラウルがギャンブルで大損をし、負債を抱えていた。ここでも前作からのキャラ設定に多少の変更があったらしく、本作でのラウルは常にイライラし、酒を飲み、息子と遊んだことがない。(あーあ、前作の白馬の王子様が…)
ラウルが作った借金は、クリスティーヌがソプラノ歌手として働くことで返済中だった。彼らは、今回の契約の他方当事者の正体を知らないまま、報酬ゆえにやって来た。アミューズメント・パーク全体がファントムのものであり、今回の歌の契約がファントムの計画であったことを、クリスティーヌは彼女の前に直接あらわれたファントムから、そしてラウルと彼とばったり会ったジリィ母娘から聞いて驚く。ジリィ母娘のほうも、ファントムがクリスティーヌをファンタズマに呼んだことを知らなかったため、非常に驚き心おだやかではなくなる。
ここで『オペラ座の怪人』を知っている観客にとって、新しい事実があきらかにされる。10年前、オペラ座の地下でファントムが辛くも群衆から逃れた後、実はクリスティーヌはファントムを探し、隠れていた彼を見つけだして彼に会っていた。彼女は嫁ぐ前のお別れを言うつもりだったらしいのだが、結果的に一夜を共にした。この時点でクリスティーヌはファントムについていくつもりになったらしいのだが、ファントムのほうは自分の行為を恥じ、彼女の目が覚める前に逃げ出してしまっていた。これは『オペラ座の怪人』ファンがフォーサイスの小説でどうしても受け入れられなかった「クリスティーヌが気を失っている間に、ファントムは…(以下略)」の設定を完全に変えている。
さて、ファントムは、彼女の美しい息子を自分の居城へと招く。このシーンは、『オペラ座の怪人』でファントムがクリスティーヌを初めて自分の本拠地であるオペラ座の地下へ案内したシーンに対応する。ファントム自身に興味を持ったギュスターヴがファントムの仮面を不意に外し、彼の醜い顔をみて恐怖におびえるところも一緒だ。ただし、前作はファントムの居城は地下にあったが、今作では非常に高所にある(aerie)ところが対照的である。
招いたギュスターヴの類まれな音楽の才能と自分に似た感性を見て取ったファントムは、子どもがあの一夜の時にできた自分の子供である可能性があることに気づく。クリスティーヌに問いただし、彼女が息子がファントムとの子供であることを認めときに、彼の期待と希望はいやおうなく膨らむ。これまでのつらく苦しい10年の苦労が一気に報われた気分である。「あの子に嫌悪されても構わない。わたしが与えられるものすべてを、あの子に与えなくては。」
がこれは、ファントムの作る富の多くが自分のもとに来ると思っていたマダム・ジリィにはこれまでの10年の苦労の末の果実が、突然現れた少年にすべて奪われるということに他ならない。
「あの子どもさえいなければ、私たちのもとに富が手に入ったはずなのに! この10年のわたしたちの苦労がこんなことに!」と怒りで吠えまくるマダム・ジリィ。このマダム・ジリィの怒りは1幕の最後に来るが、『オペラ座の怪人』の第1幕の最後のファントムの激しい怒りのシーンに対応する。
一方ラウルは、新聞記者から「クリスティーヌのヒモ」状態を指摘され、しかも今回のクリスティーヌの仕事が、とうに死んだと思っていたファントムの企みであったことを知り、いつにも増して荒れている。バーでグダグダに酔ったラウルは、はずみでファントムと賭けをしてしまう。賭けは、クリスティーヌが舞台でファントムの作曲したアリアを歌うか否かである。
クリスティーヌが舞台で歌えばファントムの勝ち。ラウルはクリスティーヌを置いて一人でフランスへ帰らねばならない。舞台で歌わなければラウルの勝ち。シャヌイ家が抱えている借金支払っても有り余る金を得て、一家はフランスへ帰ることができる。
メグ・ジリィの舞台は、クリスティーヌの前にある。彼女は "Bathing Beauty" で客の喝采をあびる。彼女としては会心のパフォーマンスであり、うまくやり遂げたことに興奮している。たったひとつ気になるのは、ファントムが彼を見ていてくれたかどうかだ。その娘に対して、イライラしているマダム・ジリィは「彼はあなたのパフォーマンスなんて見ていなかった。クリスティーヌと一緒にいて2人の子供のことしか考えていない。あなたがやってきたことは、すべて無駄だった」と述べて、メグを絶望させてしまう。
控室で出番を待つクリスティーヌの前にラウルがあらわれ「舞台で歌わないでこのまま一緒にフランスに帰ろう」と説得にかかる。ラウルの退場とともに今度はファントムが説得に登場する。(この時に、クリスティーヌのオートマトンが着用していたネックレスを、ファントムがクリスティーヌの首にかけるという演出がある。)クリスティーヌの心は千路に乱れる。
直前まで歌うか否かを迷っていたクリスティーヌは、伴奏が始まるとともに歌うことを決意する。歌の途中で賭けに負けたラウルが去っていくのを見て動揺するが、それでもファントムが彼女のために作ったアリア "Love Never Dies" を最後まで歌い上げ、大成功を収める。
クリスティーヌが控室に戻ると、ファントムが待っている。また、ラウルの置手紙と一輪のバラの花が残されている。ラウルの手紙を読み、かつてのオペラ座での二人のことを回想するクリスティーヌ。
が、その時彼女は、ギュスターヴがどこにもいないことに気づく。ラウルが連れ去ったのか? マダム・ジリィが連れ去ったのか? しかし子供を連れ去ったのは実は母親の言葉に絶望したメグだった。
メグはギュスターヴを埠頭へ連れて行く。どうやら彼女はギュスターヴを殺そうとしているらしい。ファントム、クリスティーヌ、マダム・ジリィは埠頭へと急ぐ。3人は彼女を見つけ、子どもを離すように言う。
メグはギュスターヴを離すが、その代わりファントムに銃を向け、絶望して言う。「どうしたらあたしを見てくれるのかっていつも考えていたけれど、やっとあたしを見てくれたのね。」
メグの絶望にはわけがあった。実は、ファントムに便宜をはかってもらうために、さまざまな手配を実際に行ってきたのは、マダム・ジリィではなくメグだった。それも顔が効く人間に枕営業をする形で。これはファントムには初めて知った事実だった(が、観客には、第1幕のかなり早い時期に、メグがそうしているらしいということが暗示される)。彼女はそうすることが嫌でひどく傷ついているが、それに耐えてきていた。
絶望して自らの額に銃を突きつけるメグを、説得しようとするファントム。今まで真実を知らなかったことを詫び、一時は説得が成功するかに見えた。が、ファントムがクリスティーヌの名を出したことから逆上したメグは、クリスティーヌを撃ってしまう。
撃たれて息も絶え絶えになったクリスティーヌは、ギュスターヴに対してファントムこそが彼の本当の父親だと告げ、ファントムにギュスターヴを託す。二人の最後のキスのあと、クリスティーヌは息絶える。
ファントムとギュスターヴは正面から向き合う。ギュスターヴはファントムの仮面を外し、ファントムはそれをするがままさせする。お互いが長く見つめあうところで幕が下りる。(ギュスターヴが醜い容姿を持つファントムを受け入れたであろうことが、このミュージカルの冒頭のフレックのセリフから推測される。)
◆◆◆
さて、本作で最も報われなかったのは、『オペラ座の怪人』では性格の肉付けがされていなかったメグ・ジリィだ。(CDから得られる情報では、メグが最後にはどうなるのかは不明である。)
彼女があれほど「ファントムに自分を見てもらいたい」「彼のためだけに輝きたい」と願った気持ちの源は何なのだろう、富と名声を求めるゆえか、自分に才能があると思いそれを証明したかったのか、才能豊かで美しいクリスティーヌに対する潜在的な憧れと嫉妬ゆえに彼女のようになりたいと思っているのか、純粋にファントムに恋をしているのか。この辺りは演出家が演出で明確に意図しない限り、観た者の解釈に任されるだろう。
恋と考えれば、その一途さに対してはもっとも強い説得力を持つ。しかし残念ながらファントムはフリークショーの見世物になるほど醜いという設定になっており、果たしてそんなファントムに、(クリスティーヌ以外の)女性が恋をするだろうか?
もちろん『オペラ座の怪人』の映画版のジェラルド・バトラーぐらいの容姿であれば(あれじゃあ、見世物にはならない)彼に恋する女性が1人や2人、いや10人や20人いてもおかしくない。なにしろ女は才能のある男が好きだからね。
(メグが歌っていた "Bathing Beauty" とは関係はないが、1940年代にそういうタイトルのアメリカ映画があった。日本語タイトルは『世紀の女王』。主演はエスター・ウィリアムズだった。)