世界中がこのニュース一色だ。
『オフ・ザ・ウォール』(1979年)以降の彼のアルバムを、最近まですべて持っていたわたしとしても、とりとめはないけれどマイケルについて少し何かを書いておこう。(ちなみに『スリラー』は3枚持っていた。1枚はCDでCDプレーヤーの購入時に買いなおしたものだが、あとの2枚はLPレコード。そのうち1枚は発売当時の普通のLPで、2枚目はピクチャーレコード。)
マイケルとわたしはほぼ同世代だ。マイケルのほうが少しばかり年上だが。
マイケルは子供のころから、海の向こうでは活躍していた。しかし、わたしと同世代の人間のほとんどは、子供のころはR&Bには、特に親がそのジャンルに傾倒していたなどの特別な環境にいないかぎり、ほとんど興味を持っていなかったと思う。
1970年代の初めぐらいまで、洋楽などには興味がない東京在住のフツーの子どもの目や耳に入る海外の兄弟グループといえば、まずはオズモンズだった。だからジャクソン5の日本版二番番煎じといった感じのフィンガー5が出てきた時も、「オズモンズの日本版?」と思ってしまったぐらいだった。当時の「明星」とか「平凡」とかいった雑誌には、フィンガー5がジャクソン5を意識していることはきちんと書かれていたのだが。
もちろん、あの「ベンのテーマ」を歌っているのが「マイケル・ジャクソン」という黒人の男の子であり、どうやら兄弟でグループを組んで歌っているらしいというのは、どこかで聞いていた。が、そのグループが何を歌っているかはわからなかった。いま考えれば「ABC」とか「アイル・ビー・ゼア」はラジオで比較的頻繁にかかっていたと思うのだが、わたしの中ではそれがグループとしてのジャクソン5の存在には結び付かなかったのだ。R&Bというのは、子供にはそれほど遠い存在だったわけだ。
中学に入り、いわゆる洋楽に興味を持つようになっても、しばらくは洋楽と言えば白人の音楽のことだった。すなわち(すでに解散していた)ビートルズ、カーペンターズ、「キラー・クィーン」が衝撃的だったクィーン等々。
あの(良い意味で)化け物のようなアルバム『スリラー』は1982年の終わりごろに発売された。その翌年である1983年はこのアルバムからシングル・リリースされる曲が次々とチャートインした年だった。これらの曲と彼のビデオ・クリップが日本のテレビでもラジオでも頻繁に流れた。ビデオでマイケルのダンスを見た人は皆―少なくとも、小学生から比較的若い世代は―必死になって彼のダンスをまねた。
1983年の暮れにわたしはひどいインフルエンザに罹り、その年の大晦日を布団の中で過ごす羽目になった。熱があって気分も悪かったが、あまりにも暇なのでラジオをつけた。どのラジオ局にまわしても、AMもFMも「今年の締め」として、にマイケルの音楽が流れていた。「マイケル・ジャクソン以外に、今年の洋楽界には聴くべき音楽はない」と言わんばかりだった。
ところで、マイケルがギネスに掲載されるほどのブームを起こしたのとほぼ同時期に、アフリカン・アメリカンではプリンスもまた成功していた。当時、両名はしばしば比較された。
「黒人らしさ」という意味でいえば、マイケルは分が悪かった。「マイケルは心も音楽的にも白っぽくなって(=白人寄りになり)、そのために成功したが、プリンスは黒いまま成功した。だからマイケルよりプリンスのほうが偉大だ。」とは、当時わたしが、しばしば耳にしたり目にしたりしたマイケル評である。また彼の曲については、「無害すぎる」と言われることもあった。
また、アフリカン・アメリカンの中には、彼が「オレオ」(OREO=日本でも売っているバニラクリームを挟んだチョコビスケット。黒いビスケット中に白いクリームが挟まれていることから、「外見は黒だが中身は白」すなわち白人に迎合したり、白人のようにふるまったりする黒人のことを指す)であり、ゆえにマイケルを黒人を裏切った黒人とみなす人たちも少なからずいたらしい。
一方、白人の中では、黒人であるマイケルが白人の音楽であるビートルズの曲の版権を有していること、また彼が白人のエルヴィス・プレスリーの娘と結婚したことに対する反感を持つ人たちもいた。
が、そのような反感をもたれようが、マイケルの音楽と、歌と、ダンスはすばらしかった。そして、すばらしいので売れた。
マイケルの人気が絶頂期に達して以降、彼はいろいろなスキャンダルに見舞われた。次々に奇行が報道され、一方、外見もどんどん変化していった。彼のスキャンダルや顔面整形については、他の人がいろいろ書くと思うので、わたしはこれ以上は書かなくてよいだろう。
=====
あんな風に才能にあふれた人間は、もうしばらくは出てこないだろう。
『オフ・ザ・ウォール』(1979年)以降の彼のアルバムを、最近まですべて持っていたわたしとしても、とりとめはないけれどマイケルについて少し何かを書いておこう。(ちなみに『スリラー』は3枚持っていた。1枚はCDでCDプレーヤーの購入時に買いなおしたものだが、あとの2枚はLPレコード。そのうち1枚は発売当時の普通のLPで、2枚目はピクチャーレコード。)
マイケルとわたしはほぼ同世代だ。マイケルのほうが少しばかり年上だが。
マイケルは子供のころから、海の向こうでは活躍していた。しかし、わたしと同世代の人間のほとんどは、子供のころはR&Bには、特に親がそのジャンルに傾倒していたなどの特別な環境にいないかぎり、ほとんど興味を持っていなかったと思う。
1970年代の初めぐらいまで、洋楽などには興味がない東京在住のフツーの子どもの目や耳に入る海外の兄弟グループといえば、まずはオズモンズだった。だからジャクソン5の日本版二番番煎じといった感じのフィンガー5が出てきた時も、「オズモンズの日本版?」と思ってしまったぐらいだった。当時の「明星」とか「平凡」とかいった雑誌には、フィンガー5がジャクソン5を意識していることはきちんと書かれていたのだが。
もちろん、あの「ベンのテーマ」を歌っているのが「マイケル・ジャクソン」という黒人の男の子であり、どうやら兄弟でグループを組んで歌っているらしいというのは、どこかで聞いていた。が、そのグループが何を歌っているかはわからなかった。いま考えれば「ABC」とか「アイル・ビー・ゼア」はラジオで比較的頻繁にかかっていたと思うのだが、わたしの中ではそれがグループとしてのジャクソン5の存在には結び付かなかったのだ。R&Bというのは、子供にはそれほど遠い存在だったわけだ。
中学に入り、いわゆる洋楽に興味を持つようになっても、しばらくは洋楽と言えば白人の音楽のことだった。すなわち(すでに解散していた)ビートルズ、カーペンターズ、「キラー・クィーン」が衝撃的だったクィーン等々。
あの(良い意味で)化け物のようなアルバム『スリラー』は1982年の終わりごろに発売された。その翌年である1983年はこのアルバムからシングル・リリースされる曲が次々とチャートインした年だった。これらの曲と彼のビデオ・クリップが日本のテレビでもラジオでも頻繁に流れた。ビデオでマイケルのダンスを見た人は皆―少なくとも、小学生から比較的若い世代は―必死になって彼のダンスをまねた。
1983年の暮れにわたしはひどいインフルエンザに罹り、その年の大晦日を布団の中で過ごす羽目になった。熱があって気分も悪かったが、あまりにも暇なのでラジオをつけた。どのラジオ局にまわしても、AMもFMも「今年の締め」として、にマイケルの音楽が流れていた。「マイケル・ジャクソン以外に、今年の洋楽界には聴くべき音楽はない」と言わんばかりだった。
ところで、マイケルがギネスに掲載されるほどのブームを起こしたのとほぼ同時期に、アフリカン・アメリカンではプリンスもまた成功していた。当時、両名はしばしば比較された。
「黒人らしさ」という意味でいえば、マイケルは分が悪かった。「マイケルは心も音楽的にも白っぽくなって(=白人寄りになり)、そのために成功したが、プリンスは黒いまま成功した。だからマイケルよりプリンスのほうが偉大だ。」とは、当時わたしが、しばしば耳にしたり目にしたりしたマイケル評である。また彼の曲については、「無害すぎる」と言われることもあった。
また、アフリカン・アメリカンの中には、彼が「オレオ」(OREO=日本でも売っているバニラクリームを挟んだチョコビスケット。黒いビスケット中に白いクリームが挟まれていることから、「外見は黒だが中身は白」すなわち白人に迎合したり、白人のようにふるまったりする黒人のことを指す)であり、ゆえにマイケルを黒人を裏切った黒人とみなす人たちも少なからずいたらしい。
一方、白人の中では、黒人であるマイケルが白人の音楽であるビートルズの曲の版権を有していること、また彼が白人のエルヴィス・プレスリーの娘と結婚したことに対する反感を持つ人たちもいた。
が、そのような反感をもたれようが、マイケルの音楽と、歌と、ダンスはすばらしかった。そして、すばらしいので売れた。
マイケルの人気が絶頂期に達して以降、彼はいろいろなスキャンダルに見舞われた。次々に奇行が報道され、一方、外見もどんどん変化していった。彼のスキャンダルや顔面整形については、他の人がいろいろ書くと思うので、わたしはこれ以上は書かなくてよいだろう。
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あんな風に才能にあふれた人間は、もうしばらくは出てこないだろう。