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邪馬台国を巡って(上)

2009年08月24日 | 古代史
 前日のブログにおいては、映画「まぼろしの邪馬台国」のDVDを見た際の感想を書きましたが、今回から3回にわたって、その映画の背景になっている「邪馬台国」を巡って、傍目八目的ではありますが、少々議論してみましょう。

①よく知られているように、邪馬台国がどこにあったのかという問題に関しては、100年以上にわたって畿内説九州説(宮崎康平の説もこれに含まれるでしょう)がしのぎを削ってきました。
 畿内説では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡を邪馬台国の都に比定する説が最近では有力とされているようですし、他方九州説にあっては、福岡県ないし佐賀県の筑後川流域周辺説、大宰府天満宮付近あるいは福岡平野説や大分県の宇佐神宮などの付近を都とする説などが乱立しているようです。

②そうしたところ、本年5月31日付け朝日新聞には、概要次のような記事が掲載されました。

 奈良県桜井市の箸墓古墳の築造年代が西暦240~260年ごろとする国立歴史民俗博物館の研究成果が、31日、早稲田大で開かれた日本考古学協会の研究発表会で報告された。
 同館は、箸墓古墳やその周辺で出土した土器の付着物の放射性炭素(C14)年代を測定し、築造時期を絞り込んだ。春成秀爾・名誉教授は、中国の史書「魏志倭人伝」の記述から、卑弥呼が247年に死去したと推定。さらに、「全長280mの古墳を築造するには10年前後かかったとみられ、今回分かった年代から、卑弥呼が生前に自分の墓の築造を始め、死亡時に大部分は完成していたとも考えられる。卑弥呼自身が箸墓古墳を築造していた可能性が高い」と報告した。



このように、仮に、奈良県にある「箸墓」が邪馬台国の女王であった卑弥呼の墓であるとすれば、邪馬台国自体も当然その近くにあったことになり、長かった論争も結局畿内説で決着を見ることになるでしょう。

③しかしながら、この発表についてはいくつかの問題点が指摘でき、国立歴史民俗博物館(歴博)による報告をとても鵜呑みには出来ないところです。

イ)まず、その後8月6日付けの朝日新聞には、本件に関し、概要次のような記載が見られます。

 国立歴史民俗博物館による5月の発表には考古学者から疑問や異論の声があがった。土器の型式変化と製作年が記された中国鏡などを手がかりに、奈良地方の弥生~古墳時代の歴史の物差しを作ってきた奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫総務企画部長もその一人。「数十年という誤差が避けられない放射性炭素をもとに、5年、10年という 微妙な歴史の違いを論じることができるのか」と述べている。

ロ)加えて、その朝日新聞記事には、放射性炭素を使った年代測定に関して、グラフ(下図)に添えて次のような解説がなされています。



縦軸が炭素14年代法による理論的な年代値で、1950年より何年前かを示す。横軸は年輪年代法などを使って補正された「実際の年代(暦年代)」。表の見方は、炭素14年代法で測定した年代値を、横にのばして網の帯と交わらせる。その部分を横軸の補正年代で読みかえて実際の年代幅を導く。

ハ)詳しい説明は省きますが、上記の解説については次のような問題点を指摘できます。
.年代の補正に当たって、大きな問題のある「年輪年代法」を用いていること。
 補正の結果、「1~3世紀では、「歴史の物差し」は日本版と国際版で100年ほどのずれがある」とされていますが、何故そんな〝ずれ〟が生じるのかも何ら説明されてはおりません。
.同一の測定値であっても、読みかえるとかなりの年代幅が存在すること。
 朝日新聞の記事には、「歴博の今村峯雄名誉教授(年代科学)は「誤差が±3年という精度で年代を得る見通しがたってきた」と語る」とありますが、果たしてそうなのでしょうか? この辺の年代数値は、誰が検証できるのでしょうか。

ニ)要すれば、5月の国立歴史民俗博物館の報告が依拠する「炭素14年代法」には大きな問題があり、考古学者の間でもその測定結果については強い異論がある、ということなのです。この辺の問題は、新井宏氏の論考など(注)にも、歴博の測定方法や数値に対する疑問が多く示されています。

(注)新井宏氏の論考は、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007)に掲載されていますが、例えばこのHPが参考になると思われます。  また、主に日本古代史や古代中世の氏族系譜を取り扱っているHP「古樹紀之房間」に掲載されているこの論考も、時点はヤヤ古いもののもしかしたら参考になるかもしれません。
 
④邪馬台国をめぐる諸問題は、年代論だけで解決できるものではありません。文献学的なアプローチや広く東アジアのなかの歴史の流れなど多くの総合的な視点が必要だと思われます。
 すなわち、福岡平野にあった「奴国」が後漢の光武帝から金印を賜ったのが西暦57年、その50年後に倭国王「帥升」が後漢に使いを出していて、ここまでは北九州に倭の王権があったことに誰も異論がないはずです。
 ですが、その100年後には、早くも、畿内大和の三輪山麓に北九州までを広く版図とする王権が成立して箸墓のような巨大古墳を築いたとみる見方は、歴史の流れとして正しいといえるのでしょうか。
 その当時、列島内には原始部族国家がいくつか複数で成立していたにすぎないとしたら、考古学的な見地だけで邪馬台国所在地問題を考えるのは、大きな無理があります。
 ですから、この問題を議論される方にあっては、客観的・総合的な視野が必要とされるものだと思われます。さらに、鉄器使用やわが国弥生文化の開始などの時期についても、中国大陸や朝鮮半島と対応する時期という視点が当然必要になってきます。


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