さて、昨日の記事から持ち越しになっていたカンディンスキーです。
なんと、映画『しあわせの雨傘』の登場人物の口からカンディンスキーの名前が飛び出し、更には、彼の絵をこともあろうに雨傘の図柄に取り入れようともするのです!
折よく、「カンディンスキーと青騎士」展が、東京丸の内にある三菱1号館美術館で開催中と聞いて、早速行ってきました。
(1)日本にはどうもカンディンスキー愛好者が多いらしく、2002年にも東京国立近代美術館でカンディンスキー展が開催されています。
その際には、『コンポジションVI』(1913年制作、エルミタージュ美術館蔵)と『コンポジションVII』(1913年制作、トレチャコフ美術館蔵)の2点がメインの作品として出展されましたが、今回の展覧会では、下記の『《コンポジションVII》のための習作2』(1913年)がカンディンスキーの作品の末尾に展示されていて、これで10年近くの間隔を置いて二つの展覧会が繋がったかのような印象を受けました。
(2)今回の展覧会では、カンディンスキーの初期の頃の作品が多数展示されていて、どうやって後の抽象絵画が制作されるに至ったのか、その秘密がある程度垣間見れる感じです(2002年の展覧会でも初期の作品は展示されていましたが、後期の抽象画との繋がりというより、むしろその断絶の方を感じてしまいました)。
なお、この展覧会では、その30代~40代の作品が展示されているところ、彼は30歳の時に絵の勉強を始めていますから、「初期の作品」といえるでしょう(カンディンスキーの年譜はたとえばここで)。
たとえば、この『ムルナウ―家並み』(1908年)です。風景画であることは明らかですが、様々の対象が抽象化の過程を歩んでいるようです。
これが、次の『山』(1909年)になると、まだかなり具象的ながら、その抽象画の特徴が十分にうかがえる作品になっています。
そして、『印象III(コンサート)』(1911年)。
この作品については、ブログ「ART TOUCH」において、「まったくの抽象画とはいえない。グランドピアノや観客や柱らしきものが識別できるからだ。しかし、これがコンサート会場を描いたものだと知らなければ、それらの対象を識別するのは難しい。わたしは、この絵がシェーンベルグのコンサートの印象を描いた作品だと言うことを知っていた。実際に見れば、抽象画あるいは具象画、どちらにも見える。どちらか一方が、正しい鑑賞の仕方ということはないだろう」と述べられていますが、まさにそのとおりでしょう。
この絵のそばにあるプレートでも、「中央上部の黒い色面はグランドピアノであり、2本の垂直の白い帯はコンサート会場の柱、画面の左下半分には、聴衆が幾つもの山形の黒い線と多彩な色斑によって表されている」云々と説明されていますが、描かれているものがそれぞれ具体的な事物と結びつけられていることがわかったとしても、この絵を理解したことには全然ならないのではと思います。
(3)カンディンスキーを愛好する傾向はフランスでも見られるようで(尤も、晩年は、パリ郊外に住んでいましたから、ある意味当然でしょうが)、ブログ「はじぱり!」によれば、2009年の夏にも、パリのポンピドゥー・センターでカンディンスキー展が開催さています。
「はじぱり!」の記事では、彼が教官を務めていたバウハウスがナチス・ドイツに閉鎖され、パリ郊外に移住していた時期の作品「青い空」が取り上げられ、次のように述べられています。
「表面上の明るさを超えて、どこか哀しげな気分を感じさせます。とりわけ、背景に塗られた青は、謎めいた小さな生き物たちの奥で、静かで騒々しく、安定しているようで不安定で、想像を絶する緊張感を発している・・・。」と述べられ、「カンディンスキーが生涯にわたって追い求めたものは、もしかしたら、いつも彼のそばにあって、彼の絵に生命を与えつつ、彼をもっと別の表現へと駆り立てていた、この「青い空」なのかも知れません」。
「青」は、カンディンスキーにとって特別な色彩だったようで、wikiによれば、彼は、「青が深まるごと、なおいっそう人間に無限への思慮を呼び起こし、純粋さや、ついには超感覚的なものへの憧憬を喚起する。青は空の色なのだ」と述べているとのこと。
そして何よりも、今回の展覧会の中心である芸術家サークル「青騎士」の「青」なのです(注)!
(注)wikiによれば、カンディンスキーは、『回顧録』において、「「青騎士」の名前は、ジンデルスドルフの東屋のコーヒーテーブルに我々がいたときに考え出された。二人はともに青が好きで、マルクは馬、私は騎士が好きだった。そうしてこの名は自然に出てきたのだ」と述べています。
(4)さて、昨日のブログ記事から持ち越された問題は、映画とカンディンスキーとの関連性如何ということでした!
単に、カンデンスキーの作品が雨傘のデザインとして面白いというだけでなく、何かそれ以上のものがあるのかな、ということなのですが(下記は、映画に登場する雨傘工場内のデザイン部門)。
でも、どう考えてもよくわかりません。
仕方ありませんから、ここではとりあえず、カンディンスキーの革新性、もっと言えば、その革命性に主人公スザンヌの長男ローランが惹かれて、友愛の精神あふれる工場で製作してみようという気になったのでは、と考えておくことにしましょう。
というのも、上記の「はじぱり!」の記事に付したコメントで書いたことの繰り返しになりますが、カンディンスキーは、画家のサークル「青騎士」の首班として活動していたドイツから1916年にロシアに戻ると、2年後に教育人民委員会の造形芸術・工業芸術部のメンバーとなり、1920年にはモスクワの芸術文化研究所の設立に参画したりし(2002年「カンディンスキー展」カタログの「年譜」より)、「革命の余熱さめやらぬソヴィエトの、少なくともその初期において、カンディンスキーは美術政策を主導する重要なポジションに」いたようなのです(江藤光紀「ロシア・アヴァンギャルドとカンディンスキーの精神的水脈」〔雑誌『水声通信』2006年2月号〕)。
あるいはまた、スザンヌの長男ローランが、カンディンスキーの愛の遍歴に興味をひかれているのかもしれません。
ローランは、けっして金持ちの工場経営者のお坊ちゃんなどではなく、複雑な事情にあることが次第に分かってきます。つまり、彼が結婚しようとしている相手が、自分と浮気相手との間に密かにできた子供だとわかったロベールは、その結婚に対し頭ごなしに強く反対しますが、スザンヌはそれがわかっても何も反対しません。というのも、ローランがロベールとの間の子供ではなく、別の恋愛相手との間の子供だと知っていたからです。
そんな彼には、カンディンスキーが似つかわしいのかもしれません。
というのも、カンディンスキーは、モスクワで25歳の時に結婚した妻がいるにもかかわらず、30歳の時にミュンヘンに移住し、36歳の時に知り合ったガブリエーレ・ミュンターと10年以上生活を共にしますが、48歳で単身ロシアに戻ると、そこで別の女性と結婚してしまい、その後ロシアを離れますが、ミュンターとは会おうとしませんでした(下記の絵は、カンディンスキーによるミュンターの肖像画〔1905年〕)。
今回の三菱一号館美術館の展覧会でも、35歳の頃~10年余りの時期に撮られた写真がまとめて展示されていますが、そこにはミュンターとの別離を伺わせるような雰囲気は何も感じ取れません。その後二人の間に一体何があったのでしょうか?
なんと、映画『しあわせの雨傘』の登場人物の口からカンディンスキーの名前が飛び出し、更には、彼の絵をこともあろうに雨傘の図柄に取り入れようともするのです!
折よく、「カンディンスキーと青騎士」展が、東京丸の内にある三菱1号館美術館で開催中と聞いて、早速行ってきました。
(1)日本にはどうもカンディンスキー愛好者が多いらしく、2002年にも東京国立近代美術館でカンディンスキー展が開催されています。
その際には、『コンポジションVI』(1913年制作、エルミタージュ美術館蔵)と『コンポジションVII』(1913年制作、トレチャコフ美術館蔵)の2点がメインの作品として出展されましたが、今回の展覧会では、下記の『《コンポジションVII》のための習作2』(1913年)がカンディンスキーの作品の末尾に展示されていて、これで10年近くの間隔を置いて二つの展覧会が繋がったかのような印象を受けました。
(2)今回の展覧会では、カンディンスキーの初期の頃の作品が多数展示されていて、どうやって後の抽象絵画が制作されるに至ったのか、その秘密がある程度垣間見れる感じです(2002年の展覧会でも初期の作品は展示されていましたが、後期の抽象画との繋がりというより、むしろその断絶の方を感じてしまいました)。
なお、この展覧会では、その30代~40代の作品が展示されているところ、彼は30歳の時に絵の勉強を始めていますから、「初期の作品」といえるでしょう(カンディンスキーの年譜はたとえばここで)。
たとえば、この『ムルナウ―家並み』(1908年)です。風景画であることは明らかですが、様々の対象が抽象化の過程を歩んでいるようです。
これが、次の『山』(1909年)になると、まだかなり具象的ながら、その抽象画の特徴が十分にうかがえる作品になっています。
そして、『印象III(コンサート)』(1911年)。
この作品については、ブログ「ART TOUCH」において、「まったくの抽象画とはいえない。グランドピアノや観客や柱らしきものが識別できるからだ。しかし、これがコンサート会場を描いたものだと知らなければ、それらの対象を識別するのは難しい。わたしは、この絵がシェーンベルグのコンサートの印象を描いた作品だと言うことを知っていた。実際に見れば、抽象画あるいは具象画、どちらにも見える。どちらか一方が、正しい鑑賞の仕方ということはないだろう」と述べられていますが、まさにそのとおりでしょう。
この絵のそばにあるプレートでも、「中央上部の黒い色面はグランドピアノであり、2本の垂直の白い帯はコンサート会場の柱、画面の左下半分には、聴衆が幾つもの山形の黒い線と多彩な色斑によって表されている」云々と説明されていますが、描かれているものがそれぞれ具体的な事物と結びつけられていることがわかったとしても、この絵を理解したことには全然ならないのではと思います。
(3)カンディンスキーを愛好する傾向はフランスでも見られるようで(尤も、晩年は、パリ郊外に住んでいましたから、ある意味当然でしょうが)、ブログ「はじぱり!」によれば、2009年の夏にも、パリのポンピドゥー・センターでカンディンスキー展が開催さています。
「はじぱり!」の記事では、彼が教官を務めていたバウハウスがナチス・ドイツに閉鎖され、パリ郊外に移住していた時期の作品「青い空」が取り上げられ、次のように述べられています。
「表面上の明るさを超えて、どこか哀しげな気分を感じさせます。とりわけ、背景に塗られた青は、謎めいた小さな生き物たちの奥で、静かで騒々しく、安定しているようで不安定で、想像を絶する緊張感を発している・・・。」と述べられ、「カンディンスキーが生涯にわたって追い求めたものは、もしかしたら、いつも彼のそばにあって、彼の絵に生命を与えつつ、彼をもっと別の表現へと駆り立てていた、この「青い空」なのかも知れません」。
「青」は、カンディンスキーにとって特別な色彩だったようで、wikiによれば、彼は、「青が深まるごと、なおいっそう人間に無限への思慮を呼び起こし、純粋さや、ついには超感覚的なものへの憧憬を喚起する。青は空の色なのだ」と述べているとのこと。
そして何よりも、今回の展覧会の中心である芸術家サークル「青騎士」の「青」なのです(注)!
(注)wikiによれば、カンディンスキーは、『回顧録』において、「「青騎士」の名前は、ジンデルスドルフの東屋のコーヒーテーブルに我々がいたときに考え出された。二人はともに青が好きで、マルクは馬、私は騎士が好きだった。そうしてこの名は自然に出てきたのだ」と述べています。
(4)さて、昨日のブログ記事から持ち越された問題は、映画とカンディンスキーとの関連性如何ということでした!
単に、カンデンスキーの作品が雨傘のデザインとして面白いというだけでなく、何かそれ以上のものがあるのかな、ということなのですが(下記は、映画に登場する雨傘工場内のデザイン部門)。
でも、どう考えてもよくわかりません。
仕方ありませんから、ここではとりあえず、カンディンスキーの革新性、もっと言えば、その革命性に主人公スザンヌの長男ローランが惹かれて、友愛の精神あふれる工場で製作してみようという気になったのでは、と考えておくことにしましょう。
というのも、上記の「はじぱり!」の記事に付したコメントで書いたことの繰り返しになりますが、カンディンスキーは、画家のサークル「青騎士」の首班として活動していたドイツから1916年にロシアに戻ると、2年後に教育人民委員会の造形芸術・工業芸術部のメンバーとなり、1920年にはモスクワの芸術文化研究所の設立に参画したりし(2002年「カンディンスキー展」カタログの「年譜」より)、「革命の余熱さめやらぬソヴィエトの、少なくともその初期において、カンディンスキーは美術政策を主導する重要なポジションに」いたようなのです(江藤光紀「ロシア・アヴァンギャルドとカンディンスキーの精神的水脈」〔雑誌『水声通信』2006年2月号〕)。
あるいはまた、スザンヌの長男ローランが、カンディンスキーの愛の遍歴に興味をひかれているのかもしれません。
ローランは、けっして金持ちの工場経営者のお坊ちゃんなどではなく、複雑な事情にあることが次第に分かってきます。つまり、彼が結婚しようとしている相手が、自分と浮気相手との間に密かにできた子供だとわかったロベールは、その結婚に対し頭ごなしに強く反対しますが、スザンヌはそれがわかっても何も反対しません。というのも、ローランがロベールとの間の子供ではなく、別の恋愛相手との間の子供だと知っていたからです。
そんな彼には、カンディンスキーが似つかわしいのかもしれません。
というのも、カンディンスキーは、モスクワで25歳の時に結婚した妻がいるにもかかわらず、30歳の時にミュンヘンに移住し、36歳の時に知り合ったガブリエーレ・ミュンターと10年以上生活を共にしますが、48歳で単身ロシアに戻ると、そこで別の女性と結婚してしまい、その後ロシアを離れますが、ミュンターとは会おうとしませんでした(下記の絵は、カンディンスキーによるミュンターの肖像画〔1905年〕)。
今回の三菱一号館美術館の展覧会でも、35歳の頃~10年余りの時期に撮られた写真がまとめて展示されていますが、そこにはミュンターとの別離を伺わせるような雰囲気は何も感じ取れません。その後二人の間に一体何があったのでしょうか?
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