『1911』を渋谷TOEIで見ました。
(1)この映画は、『桜田門外ノ変』と類似の歴史物だから、きっと同じ感じになるのではないか、と見る前から危惧していたものです。ただ、大層面白かった『孫文の義士団』の流れがあることや(その映画のラストに、孫文が登場します)、ジャッキー・チェンの100本目記念作品ともPRされていて、それならばと行ってみたところです。
ですが、事前に抱いた危惧の念は、残念ながら当たってしまいました。
クマネズミには全然面白くないのです。
冒頭、武田泰淳の本(注1)でも知られる女性革命家・秋瑾が処刑されるシーンがあって、これはと期待させましたが、『孫文の義士団』から受け継がれたはずの孫文(ウィンストン・チャオ)は、本作での登場時間は長いものの、最初から最後まで建前的なことを喋るだけで(注2)、そんなことならわざわざ映画を見るまでもないのでは、と言いたくなってしまいます。

注目のジャッキー・チェンは、革命軍の軍事的な中心となる黄興に扮し(注3)、広州蜂起など最初のうちは活躍します(注4)。

ですが、後半になるとどこかに消えてしまい、それではあの戦闘の際に死んだのかと思っていると、後半、なぜか孫文の隣にいたりするのです。

そして、彼もまた、単純そのものの動きしかしないのです。
特に、孫文の女性関係は一切触れられず(注5)、ラブ・ロマンスとしては、黄興と徐宗漢(リー・ビンビン)の物語があるだけですが、通り一遍の描き方に終始しています。

こうした平板な感じになってしまうのも、歴史的な人物を描く場合には仕方がないとはいえ、本作の場合、孫文らの革命派の動きだけでなく、清朝の中枢部の動き、それに袁世凱の動きなどをも並行して追っているために、勢い各人物の掘り下げはおざなりになってしまい、建前的で、誰でもよく知っている動きしかしなくなっています。その結果、全体として、新鮮味に乏しく、面白味のないものとなってしまうのでしょう(注6)。
(2)本作のとりえの一つは、チュニジア、エジプト、リビアといった国々で、独裁者を追放して民主制を樹立するという中東革命の嵐があった時期に、こうした帝政を排して共和政を樹立しようとする映画(注7)を見ることは、もしかしたらそれなりの意味があるのでは、と思える点でしょうか?
でも、革命軍の若者が、最初の広州蜂起に際して随分と死んでしまったことをジャッキー・チェンが悼み、彼らの死体が水中に浮かぶ様が何度も描き出されますが、自分たちの方から清国軍に武力攻撃を仕掛けておいて、とも言いたくなってしまいます(事前に相手側の防備体制と自分たちの武力とを詳細にチェックしたうえで、大丈夫だと判断した上でのことではないかと思えるのですが、にもかかわらず、思いもかけない犠牲が出てしまって黄興らはうろたえているようです。とすれば、自分たちの判断ミスではないでしょうか。まあ、だからこそ、慙愧の念に堪えないのかもしれませんが)。
それに、孫文らは、革命を成就するにあたり、フランス革命とは違って、清朝の皇帝らを処刑することはないとして、現にラストエンペラーの宣統帝溥儀は、その後満州国皇帝に就いたりしています。
とはいえ、革命がそんなに綺麗事に終わるはずもなく、どうしても流血は避けられないものと思われます(注8)。一方で、革命軍の方に多数の死者が出ますが、他方で革命軍だって相手側(清国軍だけでなく、アンチ革命軍の者)を多数殺しているに違いありません(具体的なデータを持っているわけではなく、あくまでも推測ですが)(注9)。
本作が、その面を完全にオミットしてしまっているのも、厚みのない作品になってしまった要因ではないかと思われます。
(3)酷く詰らないことながら、見たのは「吹替え版」ではなく「字幕スーパー」のところ、冒頭、「19世紀末、清王朝は衰退の一途をたどり」云々という解説めいたことが日本語で語られるので、間違って「吹替え版」の方に入ってしまったのかな、と思ってしまいました。
この解説は、実際のものでは中国語でなされているのでしょうか、それとも日本で上映されるにあたり付け加えられたものなのでしょうか?前者でしたらその「字幕」を流すべきでしょうし、後者でしたら、そんな金魚の糞みたいな無意味な解説など不要だと思われます。
関連で、本作では、著名人が登場するたびに、その名前や経歴が字幕で左側に映し出されます。それが漢字で示されるために、日本語字幕の一部かとツイツイ見てしまうと、暫くして右側に日本語訳が現れるものの、すぐに消えてしまうため見逃してしまうことになってしまいます。
むろん、こんなことは観客側でうまく対応すれば済むことではありますが。
(4)渡まち子氏は、「ジャッキー得意のアクションは最小限に抑え、歴史大作にふさわしい重厚な物語に仕上がっている。ついに清朝最後の皇帝・溥儀を退位に追い込み、革命政府が樹立されるのだが、そこまでの道のりにあるのは、数え切れないほどの屍の山。ラストに革命に身を投じた若者たちの笑顔が登場するが、革命とは、多くの尊い命を犠牲にして成し得るものだということを痛切に思い知る」として60点をつけています。
また、福本次郎氏も、「物語は時代の大きなうねりに呑み込まれた人々の濃厚なドラマにするために、戦場を駆け巡った黄興にスポットを当てる。革命の偉大な成果は、数え切れないほどの無名の兵士や市民の犠牲の上に成り立っていることをあらためて考えさせる作品だった」として60点をつけています。
(注1)『秋風秋雨人を愁殺す 秋瑾女士伝』(筑摩書房、1968年)
(注2)孫文は外国での講演において、「わが国では、人が家畜同様に扱われている。それだからこそ革命を起こさなくてはならない」などと演説をします。
(注3)黄興は、「孫文とともに民国革命の双璧」とされながらも、従来、余り注目されてこなかった人物で、本作がそんな彼に焦点を合わせている点は評価されます。とはいえ、軍事面を専ら担当したためでしょうか、具体的な事績については本作を見ても曖昧なままです。
ただ、本作では、孫文が大総統の地位を袁世凱に譲ることについて、黄興が、「彼は皇帝になるかもしれない」として反対した場面が描かれています。実際、袁世凱は、1915年に帝政を敷いて中華帝国を宣し、中華帝国大皇帝となっていますから、その予言は当たりました(尤も、袁世凱が皇帝に就いていたのは83日間だけでしたが)。
(注4)黄興は、広州総督府攻撃に失敗した後、とうとう倉庫にまで追い詰められ、そこに清国軍から大砲を撃ち込まれますが、なぜか無事なのです。
ちなみに、映画の説明によれば、広州蜂起について、一般に72名の犠牲者の遺体が引き取られたとされているところ、実際には86名だったとのこと。
なお、広州蜂起時に孫文はサンフランシスコにいて、華僑に向かって革命の意義を説明し(「華僑の皆さんが屈辱を受けているのは、国が腐敗しているからだ」など)、募金活動を行っています。
(注5)20歳くらいで結婚して妻がいました(後に結婚する宋慶齢とは、辛亥革命の後に出会っています)。
(注6)本作では、ホーマーという米国人が孫文と親しくなって、金など要らないから革命に参加したいということで、革命軍の軍事顧問となりますが、さて彼がどんな活躍をしたのか何も描かれません。
(注7)本作において、孫文は、17省の代表者で構成される会議で選出されて「臨時大総統」になり、「長い中国の歴史において、初めて共和政が生まれた」などと感慨深げに語ります。
確かに、それまでの長い中国の歴史において、元首はすべて君主でしたから、画期的なことではあるでしょう。
とはいえ、孫文は、決して国民の投票によって「大総統」に選ばれているわけではありません。就任の経緯が明らかではなく、権限の明確ではない各省の「代表者」によって、選ばれたにすぎないわけで、はたしてそれで本来的な「共和政」が生まれたことになるのかどうか、疑問なしとしません。
(注8)その後のロシア革命に際しても、時の国王・ニコライ2世らは、レーニンの命によって殺されています。
(注9)いわゆる「赤色テロル」については、本年5月1日の記事の「注4」、及び5月3日の記事の「注3」を参照してください。
★★☆☆☆
象のロケット:1911
(1)この映画は、『桜田門外ノ変』と類似の歴史物だから、きっと同じ感じになるのではないか、と見る前から危惧していたものです。ただ、大層面白かった『孫文の義士団』の流れがあることや(その映画のラストに、孫文が登場します)、ジャッキー・チェンの100本目記念作品ともPRされていて、それならばと行ってみたところです。
ですが、事前に抱いた危惧の念は、残念ながら当たってしまいました。
クマネズミには全然面白くないのです。
冒頭、武田泰淳の本(注1)でも知られる女性革命家・秋瑾が処刑されるシーンがあって、これはと期待させましたが、『孫文の義士団』から受け継がれたはずの孫文(ウィンストン・チャオ)は、本作での登場時間は長いものの、最初から最後まで建前的なことを喋るだけで(注2)、そんなことならわざわざ映画を見るまでもないのでは、と言いたくなってしまいます。

注目のジャッキー・チェンは、革命軍の軍事的な中心となる黄興に扮し(注3)、広州蜂起など最初のうちは活躍します(注4)。

ですが、後半になるとどこかに消えてしまい、それではあの戦闘の際に死んだのかと思っていると、後半、なぜか孫文の隣にいたりするのです。

そして、彼もまた、単純そのものの動きしかしないのです。
特に、孫文の女性関係は一切触れられず(注5)、ラブ・ロマンスとしては、黄興と徐宗漢(リー・ビンビン)の物語があるだけですが、通り一遍の描き方に終始しています。

こうした平板な感じになってしまうのも、歴史的な人物を描く場合には仕方がないとはいえ、本作の場合、孫文らの革命派の動きだけでなく、清朝の中枢部の動き、それに袁世凱の動きなどをも並行して追っているために、勢い各人物の掘り下げはおざなりになってしまい、建前的で、誰でもよく知っている動きしかしなくなっています。その結果、全体として、新鮮味に乏しく、面白味のないものとなってしまうのでしょう(注6)。
(2)本作のとりえの一つは、チュニジア、エジプト、リビアといった国々で、独裁者を追放して民主制を樹立するという中東革命の嵐があった時期に、こうした帝政を排して共和政を樹立しようとする映画(注7)を見ることは、もしかしたらそれなりの意味があるのでは、と思える点でしょうか?
でも、革命軍の若者が、最初の広州蜂起に際して随分と死んでしまったことをジャッキー・チェンが悼み、彼らの死体が水中に浮かぶ様が何度も描き出されますが、自分たちの方から清国軍に武力攻撃を仕掛けておいて、とも言いたくなってしまいます(事前に相手側の防備体制と自分たちの武力とを詳細にチェックしたうえで、大丈夫だと判断した上でのことではないかと思えるのですが、にもかかわらず、思いもかけない犠牲が出てしまって黄興らはうろたえているようです。とすれば、自分たちの判断ミスではないでしょうか。まあ、だからこそ、慙愧の念に堪えないのかもしれませんが)。
それに、孫文らは、革命を成就するにあたり、フランス革命とは違って、清朝の皇帝らを処刑することはないとして、現にラストエンペラーの宣統帝溥儀は、その後満州国皇帝に就いたりしています。
とはいえ、革命がそんなに綺麗事に終わるはずもなく、どうしても流血は避けられないものと思われます(注8)。一方で、革命軍の方に多数の死者が出ますが、他方で革命軍だって相手側(清国軍だけでなく、アンチ革命軍の者)を多数殺しているに違いありません(具体的なデータを持っているわけではなく、あくまでも推測ですが)(注9)。
本作が、その面を完全にオミットしてしまっているのも、厚みのない作品になってしまった要因ではないかと思われます。
(3)酷く詰らないことながら、見たのは「吹替え版」ではなく「字幕スーパー」のところ、冒頭、「19世紀末、清王朝は衰退の一途をたどり」云々という解説めいたことが日本語で語られるので、間違って「吹替え版」の方に入ってしまったのかな、と思ってしまいました。
この解説は、実際のものでは中国語でなされているのでしょうか、それとも日本で上映されるにあたり付け加えられたものなのでしょうか?前者でしたらその「字幕」を流すべきでしょうし、後者でしたら、そんな金魚の糞みたいな無意味な解説など不要だと思われます。
関連で、本作では、著名人が登場するたびに、その名前や経歴が字幕で左側に映し出されます。それが漢字で示されるために、日本語字幕の一部かとツイツイ見てしまうと、暫くして右側に日本語訳が現れるものの、すぐに消えてしまうため見逃してしまうことになってしまいます。
むろん、こんなことは観客側でうまく対応すれば済むことではありますが。
(4)渡まち子氏は、「ジャッキー得意のアクションは最小限に抑え、歴史大作にふさわしい重厚な物語に仕上がっている。ついに清朝最後の皇帝・溥儀を退位に追い込み、革命政府が樹立されるのだが、そこまでの道のりにあるのは、数え切れないほどの屍の山。ラストに革命に身を投じた若者たちの笑顔が登場するが、革命とは、多くの尊い命を犠牲にして成し得るものだということを痛切に思い知る」として60点をつけています。
また、福本次郎氏も、「物語は時代の大きなうねりに呑み込まれた人々の濃厚なドラマにするために、戦場を駆け巡った黄興にスポットを当てる。革命の偉大な成果は、数え切れないほどの無名の兵士や市民の犠牲の上に成り立っていることをあらためて考えさせる作品だった」として60点をつけています。
(注1)『秋風秋雨人を愁殺す 秋瑾女士伝』(筑摩書房、1968年)
(注2)孫文は外国での講演において、「わが国では、人が家畜同様に扱われている。それだからこそ革命を起こさなくてはならない」などと演説をします。
(注3)黄興は、「孫文とともに民国革命の双璧」とされながらも、従来、余り注目されてこなかった人物で、本作がそんな彼に焦点を合わせている点は評価されます。とはいえ、軍事面を専ら担当したためでしょうか、具体的な事績については本作を見ても曖昧なままです。
ただ、本作では、孫文が大総統の地位を袁世凱に譲ることについて、黄興が、「彼は皇帝になるかもしれない」として反対した場面が描かれています。実際、袁世凱は、1915年に帝政を敷いて中華帝国を宣し、中華帝国大皇帝となっていますから、その予言は当たりました(尤も、袁世凱が皇帝に就いていたのは83日間だけでしたが)。
(注4)黄興は、広州総督府攻撃に失敗した後、とうとう倉庫にまで追い詰められ、そこに清国軍から大砲を撃ち込まれますが、なぜか無事なのです。
ちなみに、映画の説明によれば、広州蜂起について、一般に72名の犠牲者の遺体が引き取られたとされているところ、実際には86名だったとのこと。
なお、広州蜂起時に孫文はサンフランシスコにいて、華僑に向かって革命の意義を説明し(「華僑の皆さんが屈辱を受けているのは、国が腐敗しているからだ」など)、募金活動を行っています。
(注5)20歳くらいで結婚して妻がいました(後に結婚する宋慶齢とは、辛亥革命の後に出会っています)。
(注6)本作では、ホーマーという米国人が孫文と親しくなって、金など要らないから革命に参加したいということで、革命軍の軍事顧問となりますが、さて彼がどんな活躍をしたのか何も描かれません。
(注7)本作において、孫文は、17省の代表者で構成される会議で選出されて「臨時大総統」になり、「長い中国の歴史において、初めて共和政が生まれた」などと感慨深げに語ります。
確かに、それまでの長い中国の歴史において、元首はすべて君主でしたから、画期的なことではあるでしょう。
とはいえ、孫文は、決して国民の投票によって「大総統」に選ばれているわけではありません。就任の経緯が明らかではなく、権限の明確ではない各省の「代表者」によって、選ばれたにすぎないわけで、はたしてそれで本来的な「共和政」が生まれたことになるのかどうか、疑問なしとしません。
(注8)その後のロシア革命に際しても、時の国王・ニコライ2世らは、レーニンの命によって殺されています。
(注9)いわゆる「赤色テロル」については、本年5月1日の記事の「注4」、及び5月3日の記事の「注3」を参照してください。
★★☆☆☆
象のロケット:1911