孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

台湾、日本、中国、そして韓国 その微妙で複雑な心情

2017-04-18 21:18:34 | 東アジア

(八田與一像と墓【ウィキペディア】
像設置を固辞していた八田本人の意向を汲み、一般的な威圧姿勢の立像ではなく、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置されそうです。)

地元の有志によって守られてきた八田與一像
台湾南部・台南市で日本統治時代の技師、八田與一像の頭部が切り取られた事件については周知のところです。

*****八田 與一****
・・・・1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。

そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。

事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。

そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。(中略)

日本よりも、八田が実際に業績をあげた台湾での知名度のほうが高い。特に高齢者を中心に八田の業績を評価する人物が多く、烏山頭ダムでは八田の命日である5月8日には慰霊祭が行われている。

また、現在烏山頭ダム傍にある八田の銅像は、ダムの完成後の1931年(昭和6年)に作られたものである。住民の民意と周囲意見で出来上がったユニークな銅像は、像設置を固辞していた八田本人の意向を汲み、一般的な威圧姿勢の立像を諦め、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、郷里加賀出身の彫刻家都賀
田勇馬に制作を依頼し碑文や台座は無く地面に直接設置された。

その後、国家総動員法に基づく金属類回収令の施行時や、中華民国の蒋介石時代に、大日本帝国の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際も、地元の有志によって守られ、銅像は隠され続け、1981年(昭和56年)1月1日に、再びダムを見下ろす元の場所に設置された。

今では、台座上に修まる銅像の経過や、八田が顕彰される背景、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行ったことなど、八田の人柄によるところも大きく、エピソードも多く残されている。

中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に八田の業績が詳しく紹介されている。(後略)【ウィキペディア】
*****************

数年前、母が戦前に台南・嘉義に住んでいたことがあって、その方面を旅行した際に初めて八田氏の名前を知りました。

日本統治にもかかわらず、現在の台湾が日本に非常に好意的感情を有していることは多くの報道で知られるところですが、そうしたことも八田與一のような人物の地道な功績があってのことでしょう。

日本に対しては厳しい姿勢も見せた国民党・馬英九前総統も八田氏の慰霊祭に参加し、八田氏がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設することを表明し、2011年に完成しています。【ウィキペディアより】

今回の切断事件は非常に痛ましいことではありますが、台湾の一部に日本統治を否定しようという考えがあるのは極めて自然な話で、また犯人とされる元台北市議の男は“任期中、市幹部を殴り起訴された。また、2016年には急進的な台湾独立派の団体の敷地に放火し逮捕、起訴されている”【4月18日 産経】とのことで、やや特異な性格でもあるようですから、この事件をもってどうこうという話もないかと思います。

台南市政府からは、八田氏の命日である5月8日までに銅像を修復する意向が示されています。

今回事件を機に、日本と台湾の絆が再確認されれば、それはそれでよし・・・というところでしょうか。

相思相愛の台湾・日本関係に複雑な感情を抱く中国
台湾が日本に対し好意的なことは、多くの報道に示されていますが、中国もそのあたりは認識しています。
台湾人が最も好きな国に関するアンケートで、日本は2位で、1位ではなかったことを驚いているほどです。

****台湾人の好きな国、1位シンガポール、2位日本=中国ネット驚き****
2017年3月22日、シンガポール華字紙・聯合早報によると、台湾民意基金会による調査で、台湾人が最も好きな国は1位がシンガポールで、日本は2位だった。

この調査では、台湾の隣国と世界の主要国、合わせて12カ国についてその好感度を尋ねた。その結果、最も好感度が高かったのはシンガポールで87.1%、次いで日本の83.9%、カナダの83%、欧州連合(EU)の78.7%、オーストラリアの78.6%と続いた。

一方、反感を持つ国では、1位が北朝鮮で81.6%、次いでフィリピンの57.3%、中国の47.4%、韓国の41.7%、ロシアの33.9%と続いた。

報道によると、台湾人が好感、反感を持つ基準となっているのは、民主や豊かさ、社会の平等性、環境保護などの国の発展レベル、文化と血縁の相似性、敵意を感じるか否かだという。

これに対し、中国のネットユーザーから「まあその通りだな。日本は台湾のお父さんだし。でもなぜお父さんが2位なんだ?」「日本が1位なはずだろ。それに一番嫌いなのが中国ではないとは意外だ」と、この結果に驚くユーザーが少なくなかった。

また、「台湾を取り戻したら、台湾独立派をシンガポールに引き取ってもらおう」「実際のところ、香港も含めた東アジア全体で最も嫌われているのが中国だ」などのコメントもあった。いずれにしても、中国の好感度が低いということは中国のネットユーザーも自覚しているようである。【3月22日 Record China】
*******************

先述のように、日本統治に関する否定的な考えが影響する面もあるでしょうから、日本への好感度に一定の限界があり、シンガポールを下回るというのは、これも自然な話でしょう。

歴史認識で日本と対立する中国からすれば、どうして台湾は日本に対して・・・という感はあるでしょうが、“日本は台湾のお父さん”というのも面白い表現です。初めて目にしました。

“お父さん”云々はともかく、日本人も台湾に対しては“自分の家のような”親近感を強く感じるようです。

****訪台日本人数、昨年は189万人=「台湾は自分の家のよう****
2017年3月23日、中国メディアの観察者網は日本メディアの報道を引用し、昨年の訪台日本人数が189万人を超えたと伝えた。

記事は、多くの日本人が台湾旅行に行った理由について分析した日本メディアの記事を紹介。「台湾は日本人にとって自分の家のような場所」とのタイトルで、台北や台南では多くの店の看板が中国語と日本語で表記されており、日本料理店も多く、台湾人は日本人に対してとても親切であるため、日本人にとってどこか懐かしく親近感があると伝えた。

また、基礎的な日本語を話せる台湾人も多く、街には日本のアニメやゲームがあふれていて、日本文化を至る所に見ることができるため、沖縄の方がよっぽど外国のような感じがするほどだと紹介した。

記事はまた、実際に台湾旅行へ行った日本人女性が、「台湾には日本人がすでに失った人情味がある。1人旅をしていても孤独を感じることはないが、東京では全く逆だ」と話したことを紹介した。

この日本メディアの記事について、台湾の各メディアも好意的に報道。記事はそのことを皮肉り「台湾メディアが興奮して報道した」と伝えた。

これに対し、中国のネットユーザーから「もともと日本の植民地だったところが、いまでは花園になったんだな」「人情味だって?台湾に行って宗主国としての感覚を味わっているだけだ」など批判的なコメントが寄せられた。

また、「台湾に対して一国二制度を採用したら、面倒なことになりそうだ」との意見や、「沖縄人と台湾人は住む場所を取り換えたらどうだ?沖縄は日本から独立したがっているようだから」との主張もあった。【3月24日 Record China】
***********************

台湾を何としても取り戻したい中国からすれば、あろうことか台湾と日本が互いに好意的な現状というのは、なんとも複雑なところでしょう。微妙な三角関係です。韓国まで含めれば、複雑な四角関係でしょうか。

台湾側の日本への親近感を伝える最近の報道としては、下記のようなものも。

****日本時代の駅舎再建=開設101年、人気スポットに-台湾****
台湾の台北市で日本統治時代の1916(大正5)年に日本人の設計で建てられ、約30年前に解体・撤去された「新北投駅」の駅舎が、当時の駅近くに再建された。独特の和洋折衷様式が目を引き、一般公開から1カ月もたたないうちに、早くも人気スポットになっている。
 
台北北部の北投地区は温泉地として日本統治初期から開かれ、日露戦争の負傷兵が北投温泉で療養した記録も残っている。台湾総督府は温泉利用者の利便を図るため、16年に鉄道を延伸して「新北投乗降場」を開設。後に「新北投駅」と名称変更したが、ひのき造りの駅舎は80年代末の地下鉄開通時に解体された。
 
駅舎は長年、地元のシンボルとして親しまれ、住民の社交場としての役割も果たした。近くに住む魏子良さん(73)は「住民にとって駅舎は特別な存在だった」と懐かしむ。

2003年ごろから住民間で駅舎再建の機運が高まり、13年に駅舎が保存展示されていた南部の彰化県からの移築作業に着手。新たな材料も使って修復・再建を進め、地下鉄の新北投駅前の公園内に今年、完成した。
 
駅舎開設から101年となる今月1日から一般公開が始まり、2週間で約5万人が訪れた。管理する台北市文化基金会の呉峻毅さん(48)は「来年は汽車、レール、ホームも設置する計画。日本の方もたくさん見に来てほしい」と期待している。入場は無料で、駅舎内には関連資料・写真などが展示されている。【4月16日 時事】
******************

頑なに“日本的なもの”を排除したい韓国の“桜起源論争”】
中国もそうですが、中国以上に日本への対抗意識が強い面もある韓国などでは、とてもありえない話です。
韓国は、“日本的なもの”の抹消に躍起になっている感もあります。

そのひとつが、桜の起源に関する議論。
日本人からすれば、重要なのはその美しさと、日本の文化・社会との深いかかわりであり、どこ起源であろうが大した問題ではないように思えます。(もともと、日本文化の多くは大陸・朝鮮由来のものですから、そこにこだわっても仕方がないところがあります)

しかし、いまや韓国でも多くの人がその美しさに魅了されている桜が“日本のもの”というのは、韓国にとっては受け入れがたいものがあるようです。

****韓国が桜の「起源」に固執する理由****
韓国の桜の季節は日本の東北地方と同じ時期、東京よりは1、2週間ほど遅れてやってくる。桜の時期になると毎年繰り返して話題に上げるのが、日本-韓国間の「原産地」論争だ。

そうはいっても日本側での反応は薄い、というよりはさほど関心がないように見受けられる。
これに対し、韓国側では、韓国=原産地説を否定でもしようものなら、まるで顔に泥を塗られでもしたかのように、ヒステリックで感情的な反応を示す。桜の「原産地」だということへの執着は日本人の比ではない。この執着心はどこから生まれたのだろうか?
 
実は、桜の原産地が韓国だという主張は1950年代にも存在した。しかし、初期には一部による主張にとどまり、大部分の韓国人にとって桜は日本の花であり、日本を象徴する花だと考えられていた。

それは、1945年に第二次世界大戦が終わり、日本統治から解放された韓国のあちらこちらで、韓国人の手によって桜の木が伐採されたことが何よりもはっきりと証明している。「桜=日本のもの」という認識があったからこそ、日本に対する反感を桜に向け、怒りをぶつけたのだ。
 
また、戦後にも春になると喜んで「花見」に出かける韓国人たちの姿を見咎めて、問題提起をするような新聞記事も90年代までは何度も書かれている。日本文化である花見を楽しむ姿は目に余るという理由だ。
 
美しい花をみて、それを楽しむという行動が批判を浴びなければならない理由はなんだろうか? 所属する国家が違い、民族が違ったとしても、美しいものをみて美しいと思い、それを愛でたいと思うのは人間の「本能」とでもいうべきものだ。
 
終戦直後の韓国には、こういった本能的な喜びを素直に受け止めることすら罪悪視されるほどに強烈な反日感情が充満していた。

美しいものをみても「敵の文化と象徴を愛でてはならない」と、美しいと感じる感情は強迫観念にも似た罪悪感のもとに押さえつけられなければならなかったのである。
 
だが、この罪悪感はいつまでも韓国人の本能を抑え続けることができなかった。何処何処の桜が美しく咲き誇っていると話題になれば、人々は吸いつけられるかのように桜を見に出かける。近年では全国各地の自治体が観光客を誘致しようと観光地化を推し進め、競うように桜の名所と宣伝し始めた。

このような風潮に対して、「韓国の花もいろいろあるのに何で日本の花?」、「日本文化の真似だ」といった懸念の声があがったことは言うまでもない。
 
これに対し、これらの懸念をきれいに払拭してくれる主張が登場したのだ。それこそが「桜の原産地は韓国である」という主張だ。

つまり、日本の象徴であり、日本の花だとして知られていた花は実は韓国原産である、という主張は、桜を好み、愛する韓国人達を罪悪感から救い、強迫観念から解放してくれたのだ。今や自制する必要はなく、日本の目を気にする必要もない「名分」を得たのである。(後略)【4月13日 WEDGE】
*******************

上記【WEDGE】は続けて、仮に韓国原産であったとしても、韓国には昔は桜を愛でて楽しみ、あるいは生活の中に利用するような文化や情緒は無かったという事実、また、現在、韓国で咲いている桜の多くは戦後、在日韓国人達によって贈られた、「日本産」の桜であるということを指摘しています。

そのうえで、以下のように。

********************
少し話が飛ぶが、壬辰倭乱つまり、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に、朝鮮の陶工が数多く日本に捕虜として連行された。

しかし、彼らのうちの相当数は終戦後、韓国側の捕虜と交換に半島に帰れることになったのだが、朝鮮へ帰国を拒否し、日本に残り陶工として根をおろした。

商人や職人を蔑視する朝鮮とは異なり、日本では技術と努力に対し正当な評価が受けられたためだという。
 
私は、毎年春になれば、韓国が桜の原産地論争を持ち出すのを見るたびに、この陶工たちの話を思い出す。

「原産地」や「起源」よりも、その対象を認め、評価し、愛してきたのかということの方が、よほど重要な問題に思えてならないからだ。

植物のDNA検査の結果を持ち出して「所属」を主張することで、一体何が得られるというのだろうか?【4月13日 WEDGE】
******************

いたって正論です。個人的にも同感です。

まあ、しかしながら、そうであったとしても“日本的なもの”を受け入れがたく感じる韓国の心情、何がそのように頑なにさせているのかということにも思いをめぐらす必要もあろうかとは思います。

台湾の関連で、最近の独立志向の話、中国・アメリカとの関係などにも触れるつもりでしたが、今日はパスして、また別機会に。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ソマリア  干ばつとテロで... | トップ | “さまよう”アメリカの原子力... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東アジア」カテゴリの最新記事