孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ 今も癒えぬスレブレニツァの悲しみ

2020-07-13 22:30:53 | 欧州情勢

(ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァに近いポトチャリの墓地を歩くメイラ・ジョガスさん(2020年7月3日撮影)【7月13日 AFP】)

 

【スレブレニツァの虐殺が残した傷は癒えず、和解は遠いまま】

毎年、この時期になると目にするのが旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナで起きた「スレブレニツァの虐殺」に関する記事です。

 

1991年6月にスロベニア、クロアチアの独立宣言を機に始まった旧ユーゴスラビア連邦解体の過程で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年からボシュニャク、セルビア、クロアチア系の主要3民族勢力間の紛争に突入しました。

 

その過程で起きた、セルビア系武装勢力によるボシュニャク人虐殺のひとつが「スレブレニツァの虐殺」と呼ばれるものです。(なお、非人道的行為はセルビア系だけでなく、双方に一定にあったとも言われています)

 

****スレブレニツァの虐殺****

スレブレニツァの虐殺は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナスレブレニツァ1995年7月に発生した大量虐殺事件である。

 

ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍によって推計8000人のボシュニャク人が殺害された。スレブレニツァ・ジェノサイドともいう。

 

この時、スルプスカ共和国軍に加えて、クライナ・セルビア人共和国を拠点とする準軍事組織「サソリ」が虐殺に加担していた。(中略)

 

1995年7月11日ごろから、セルビア人勢力はスレブレニツァに侵入をはじめ、ついに制圧した。

 

ジェノサイドに先立って、国際連合はスレブレニツァを国連が保護する「安全地帯」に指定し、200人の武装したオランダ軍の国際連合平和維持活動隊がいたが、物資の不足したわずか400人の国連軍は全く無力であり、セルビア人勢力による即決処刑や強姦、破壊が繰り返された。

 

その後に残された市民は男性と女性に分けられ、女性はボスニア政府側に引き渡された。男性は数箇所に分けられて拘留され、そのほとんどが、セルビア人勢力によって、7月13日から7月22日ごろにかけて、組織的、計画的に、順次殺害されていった。

 

殺害されたものの大半は成人あるいは十代の男性であったが、それに満たない子どもや女性、老人もまた殺害されている。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方の分からない人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている。【ウィキペディア】

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中心的な人物ラトコ・ムラディッチはセルビアでは英雄扱いでしたが、 2011年5月31日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のあるオランダハーグに移送され、2017年11月に終身刑を言い渡されています。

 

この事件は現地住民はもちろんのこと、国連の名のもとに「安全地帯」を警備しながら、武装勢力の暴力になすすべもなかったオランダ軍にとっても深いトラウマを残しています。

 

また、後に当時のコフィ・アナン国連事務総長が「スレブレニツァの悲劇は国連の歴史に永遠に影を落とす」と述べたように、国連にとっても大きなトラウマとなっており、ルワンダの大虐殺への対応と並んで、その後の国連PKOの在り方にも強く影響しています。

 

事件から25年、7月11日に現地で追悼式典が営まれました。

 

****ボスニア、大虐殺から25年 現地で追悼式典****

敵対民族の根絶を図る「民族浄化」で多数が犠牲となった旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ内戦末期、東部スレブレニツァで1995年7月に起きたボスニャク(イスラム教徒系)住民らの大量虐殺から25年となり、追悼式典が11日に現地で営まれた。

 

紛争当時、歴史・宗教的対立を背景に三つどもえで争ったボスニャクとセルビア人、クロアチア人勢力の対立は根深く残り、国家の分断状況が続いている。

 

第2次大戦後の欧州で最悪となったスレブレニツァの虐殺が残した傷は癒えず、和解は遠いままだ。【7月12日 共同】

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【「もう生きる理由がない。気が狂わないように花の世話をしているが・・・」】

最近になって新たに身元が確認された9人の犠牲者の合同葬儀も執り行われましたが、今でも1000人以上が発見されていないとも。残された家族の悲しみも癒えることはありません。

 

****「どこかで生きているかも…」 息子を待つ母親たちの苦悩 スレブレニツァの虐殺から25年****

ファティマ・ムジッチさんは毎日、夫と3人の息子に祈りをささげている。4人は、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで、25年前の夏の数日間繰り広げられたイスラム教徒の大虐殺で殺されたのだ。

 

だが、今も行方が分からない長男に祈りをささげることは毎回ためらってしまうと、ムジッチさんはAFPに語った。「まだどこかで生きていると思う。長男のために祈り始めると手が震えて、どうすればいいのか分からなくなる」

 

ボスニア・ヘルツェゴビナでは、1992年から始まった内戦が終わりに近づいていた1995年7月11日、イスラム系住民が多数を占めるボスニアの町、スレブレニツァをセルビア人武装勢力が急襲。数日間でイスラム教徒の成人男性や少年約8000人を連れ去って殺害し、遺体を埋めた。

 

ムジッチさんの夫と2人の息子の遺体は内戦終了後に集団埋葬地で発見され、6600人以上の犠牲者が眠る追悼施設に10年前に埋葬された

 

しかし、今でも1000人以上が発見されていない。

 

現在、サラエボ近郊の村に住むムジッチさんは、長男が発見されたという知らせを聞くために生きていると話す。

しかし、最後に84か所の集団埋葬地が発見されてから10年が過ぎた。行方不明者協会の広報担当者は、「2019年7月以降、犠牲者の遺体が発見されたのは13人だけだ」と述べた。

 

■「ママ、僕から離れないで」

ムジッチさんは今も、子どもたちを最後に見た時のことを思い出す。

 

当時、「安全な避難場所」とされていたイスラム教徒の居留地を守っていてオランダ軍をセルビア武装勢力が制圧したため、数千人のイスラム教徒の女性、子ども、高齢者がスレブレニツァ郊外の国連基地の前に集まっていた。ムジッチさんもその一人だった。

 

ムジッチさんの16歳の末の息子は、ムジッチさんにしがみつきこう言った。「ママ、僕から離れないで」

「私は息子の癖毛をなで、『離れないから』と言った」「彼らが息子を連れ去ろうとしたので、追いかけた。ひょっとしたら殴られたのかもしれないが、その後のことはまったく覚えていない。」

 

夫と残りの息子2人は森に逃げようとしたが捕えられたという。

 

■「生きる理由がない」

71歳のメイラ・ジョガスさんは、残りの人生を自分の人生が「止まった」場所で過ごすと決めている。

 

毎朝テラスの花に水をやりに行くと、スレブレニツァにある記念館のすぐそばの家からは、何千もの白い墓が緑の芝生に広がっているのが見える。

 

19歳と21歳で死んだ2人の息子はそこに眠っている。20歳だった三男と夫はスレブレニツァの虐殺が起こる前の1992年に殺されていた。

 

「もう生きる理由がない。気が狂わないように花の世話をしているが、自分自身の花は黒い地中にある」

 

■「二度と会えない」
ラミザ・グルディッチさんは、17歳と20歳の息子たちと夫を殺した男たちにも「子どもはいたのだろうか?」と考える。

 

夫と一緒に森に逃げ込む前、長男はたばこを1本吸うとグルディッチさんに言った。「もう二度と会えないと思う」。下の息子は何も言わなかった。

 

2人の息子の遺体は後に発見されたが、長男は半分だけしか見つからなかった。グルディッチさんは、残りの半分がいつか見つかることを願っている。 【7月13日 AFP】

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戦争に伴うあまたの悲劇同様に、言葉を失う悲しみを感じます。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナの国内事情、あるいは旧ユーゴスラビアのセルビアとコソボの関係・・・それらを語るとき常につきまとうのが「和解は遠いままだ」という現実です。

 

****ハントケさんのノーベル文学賞受賞に怒りの声、「虐殺否定論者」の指摘****

オーストリアの作家ペーター・ハントケさんにノーベル文学賞を授与した決定に反発の声が上がっている。旧ユーゴスラビア紛争当事国の関係者からは、「ジェノサイド(集団虐殺)否定論者」への授賞は「恥ずべき」ことだとの指摘も出た。

 

1942年生まれのハントケさんは、1990年代のユーゴ紛争を巡る発言や同紛争に絡み戦争犯罪で訴追されたセルビアの故ミロシェビッチ大統領と近い関係にあったことで批判を受けた。

 

2006年に行われたミロシェビッチ氏の葬儀では弔辞を読んだ。ハントケさんは同年のインタビューで自身の判断を擁護し、ミロシェビッチ氏は「英雄ではなく悲劇の人間だ」「私は作家であって裁判官ではない」と語っていた。

 

授賞決定を受け、コソボのシタク駐米大使はツイッターで「あきれた判断だ」と反発。「ジェノサイド否定論者やミロシェビッチの擁護者を称賛すべきではない」とも述べた。

 

さらに「私たちは人種差別主義への感覚がまひし、暴力に鈍感になり、安易な融和に流れるあまり、集団虐殺マニアのねじれた政策への同意と奉仕を看過してしまうのか」と問いかけた。

 

アルバニアのチャカイ外相代行も、授賞決定を「不名誉な恥ずべき行為」と評し、「人間の経験を豊かにする文学の永遠の美と力を心から信じる者として、そして民族浄化とジェノサイドの被害者の1人として、この判断にあぜんとしている」とツイートした。

 

ロイター通信によると、ハントケさんは受賞の連絡後に記者団の取材に応じ、「スウェーデン・アカデミーは勇気ある決定を下した」「奇妙な自由を感じる。何と言って良いか分からないが、無罪を言い渡されたかのような自由だ。それは真実ではないが」と語っていた。【2019年10月12日 CNN】

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【前向きな小さな一歩も】

そうした対立・分断・憎悪のなかにあって、前向きな一歩も。

 

****セルビアとコソボ、関係正常化へ協議再開****

旧ユーゴスラビア構成国セルビアのブチッチ大統領と、2008年に同国からの独立を宣言したコソボのホティ首相は10日、関係正常化に向けテレビ会議形式で会談した。

 

コソボが18年末にセルビアからの輸入品の関税を引き上げて以降、関係が悪化し協議がほぼ途絶えていたが、今回の会談で再開した形だ。会談には独仏首脳も参加した。

 

AFP通信によると、ホティ首相は「正常化は両国が国家としての地位を認め合ったときのみ達成できる」と語り、セルビアが独立を認めるべきだと主張した。両首脳は16日、ブリュッセルで対面して会談する。【7月11日 時事】 

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もちろん、憎悪が癒えて・・・という話ではなく、関係正常化がEU加盟の条件とされていることなど、現実的要請に基づくものでしょう。

 

そうであるにせよ、関係正常化に向けた協議が再開されること自体は喜ぶべきものでしょう。

 

なお、両国は今年1月、21年ぶりに直行便を再開することでも合意しています。

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