孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

アフガニスタン  タリバンの攻勢で、出口のない不安に置き去りにされる人々

2016-11-10 22:55:33 | アフガン・パキスタン

(アフガニスタン中部バーミヤンで開催された国際マラソン大会に参加したランナーたち(2016年11月4日撮影)【11月6日 AFP】)

【「我が国はすべての難民を受け入れるまで完全とは言えない」】
1985年6月号の米誌ナショナル・ジオグラフィックの表紙を飾った「アフガンの少女」、シャーバート・グーラーさん(撮影当時12歳)が、アフガニスタン難民の送還を強化している隣国パキスタンの当局により、不正な身分証明書でパキスタンで生活していたとして逮捕された件については、10月29日ブログ“戦乱が続くアフガニスタンを逃れ、パキスタンで難民生活していた「アフガンの少女」の逮捕”http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20161029で取り上げたところです。

彼女の写真は、その印象的な緑色の瞳などからナショナル・ジオグラフィック誌で最も有名な表紙写真となり、多くの人々の関心を戦乱のアフガニスタンにひきつけることにもなったそうです。

4人の子どもを持ち、文字の読み書きが出来ないグーラーさんは11月4日、裁判で有罪を認め、禁錮15日の刑を言い渡されました。11万パキスタン・ルピー(約11万円)の罰金も支払い、刑期終了後に国外追放となることが決まっていました。

パキスタン・ペシャワル病院の病院でC型肝炎で治療を受けている彼女の取材報道【11月5日 AFP】がありましたので、禁固刑とはいっても病院入院の扱いだったようです。

子供を抱えて難民生活をする彼女にとって、約11万円という金額は相当な負担になった思われますが、アフガニスタン大使館が立替えでもしてくれたのでしょうか?

グーラーさんは「アフガニスタンは私が生まれた国というだけで、私の故郷はパキスタンだ。私はいつも、パキスタンが自分の国だと思っていた」「私はパキスタンで生き、死んでいくことを決意していたのに、この国は私に対して最悪のことをした。私があそこ(アフガニスタン)で生まれたのは私の責任ではない。私にはこの国を去るほか選択肢はなく、とても落胆している」とのことで、取材に対し「悲嘆に暮れている」と語っていました。【11月5日 AFP】

そのグーラーさんは、結局アフガニスタンに送還されましたが、“話題の女性”だけに、アフガニスタン側も大統領主催で歓迎式典まで開かれる歓迎を受けたようです。

****米誌掲載の「アフガンの少女」が母国に送還、大統領の歓迎受ける****
1985年に米ナショナル・ジオグラフィック誌のカバーに「アフガンの少女」として写真が掲載され、ロシア侵攻下のアフガニスタンの苦悩の象徴となったシャーバート・グーラーさんが、滞在先のパキスタンからアフガンに送還された。アフガンのガニ大統領は、歓迎の意を示した。

グーラーさんは写真撮影当時、難民としてパキスタンに到着。今回は、不法滞在を理由に送還されることが決まり、先月身柄を拘束されて以来入院していたペシャワールの病院からパキスタンの治安要員に付き添われてアフガニスタン当局に引き渡された。

パキスタンは、250万人のアフガン難民の送還を進めているが、アフガンでは依然、反政府武装勢力タリバンの攻撃が続いており、大量送還への対応に苦慮することが予想されている。

カブールの宮殿で行われたグーラーさんの歓迎式典で、ガニ大統領は「彼女を母国の深くに迎え入れる。あらためて述べておきたいが、我が国はすべての難民を受け入れるまで完全とは言えない」と述べた。そのうえで、家具完備のアパートを用意し、グーラーさんが「母国で尊厳をもって、安全に暮らせる」よう保証すると言明した。【11月10日 ロイター】
******************

グーラーさんについては、アフガニスタン政府も破格の配慮を示していますが、彼女は250万人とも言われているパキスタンに逃れたアフガニスタン難民の一人にすぎません。

“2014年、パキスタンは6万以上の身分証明書が外国の難民によって不正に取得されていると述べ、難民たちを送還する計画を発表した。国連によれば、35万人以上のアフガニスタンの難民がパキスタンを離れて祖国に向かっている。”【10月27日 NATIONAL GEOGRAPHIC】とも。

ガニ大統領自身が「我が国はすべての難民を受け入れるまで完全とは言えない」と認めるように、その受け入れがどのようになっているのか、今後どうする計画のなのか・・・懸念されます。

過去2か月に300以上の学校が破壊
前回ブログで取り上げたケシ栽培の大幅拡大が象徴するように、アフガニスタン政府は十分に機能しておらず、タリバンの攻勢も続いています。

アフガニスタン政府の実質統治が及んでいる範囲が国土のどの程度なのかさえよくわかりませんが、断片的な痛ましい事件・情勢も報じられています。

****武装集団が女子校焼き払う、タリバンの犯行か アフガニスタン****
アフガニスタン北部のジョズジャン州で28日夜、女子校が武装集団に焼き払われる事件があった。警察当局は、国内各地に足場を拡大している旧支配勢力タリバンによる犯行との見方を示している。当局者が29日、明らかにした。
 
州政府当局者がAFPに語ったところによると、武装集団は28日午後10時(日本時間29日午前2時半)ごろに校内に押し入り、警備員を襲った後、椅子や本、教室に火を放った。その際、武装集団は、少女らを二度と登校させないよう警告したという。学校には約500人が通学している。
 
地元警察当局は、事件にはタリバンが関与していると見て捜査を進めている。
 
政府報道官によると、アフガニスタンでは過去2か月に300以上の学校が破壊されており、その大半に国内各地で攻勢を強めているタリバンが関与していた。28日の事件については、まだ犯行声明は出ていない。【10月30日 AFP】
******************

タリバンだけでなくイスラム過激派は近代的な学校教育、特に女子教育を反イスラムの象徴として攻撃対象としています。パキスタンではマララさんが襲撃を受け、ナイジェリアではボコ・ハラムが女子生徒を拉致しています。

女子教育に熱心なイスラム国、イスラム勢力もありますので、女子教育がイスラム教義と相いれないという訳ではないと思われますが・・・・。多分に地域的・部族的な影響もあるのではないでしょうか。

今後、タリバンとの何らかの協議が成立して、停戦して政治参加する形がとれるような場合にあっても、最低、こうした女性の権利に関する考えを修正してもらわないと一緒にやっていけません。

女性にとって公の場でランニングすることは自由の象徴
アフガニスタンの女性に関して、珍しく明るい話題も。
あの巨大石仏がタリバンに破壊されたバーミヤンで国際マラソン大会が開催され、アフガニスタン人女性6人も参加したそうです。

****アフガン人女性にとって自由の象徴、バーミヤンで国際マラソン大会****
アフガニスタン中部バーミヤンで4日、同国唯一の男女混合スポーツイベントである国際マラソン大会が開催され、ヘッドスカーフを身に着けた女性アスリートらが、勝利よりも自由を味わうために、あずき色の山々を背景にコースを駆け抜けた。
 
秋の肌寒さをものともせず、因習を打破するために、アフガニスタン人女性6人とイラン人女性1人を含む15人の女性たちが男性アスリートと肩を並べ、旧支配勢力タリバンが2001年に破壊した巨大な仏像がかつてたっていた断崖のふもとをスタートした。
 
ゆったりとした白いシャツを着用してマラソンに臨んだ彼女たちは、そうした衣類にさえいつにない自由を感じていた。アフガニスタン北部マザリシャリフから参加したある医学生は、普段はレギンスと膝下まであるワンピースを着て練習していると話し、「ランニングは自由をくれます」と語った。
 
大会は2人の英国人男性――ジェームズ・ビンガム氏とジェームズ・ウィルコックス氏――が2年連続で主催し、アフガニスタン内外から合わせて100人以上が参加した。
 
紛争などで荒れ果てたアフガニスタンにおいて、このマラソン大会は貴重なスポーツの成功の象徴というだけではない。女性にとって公の場でランニングすることは、政府転覆を画る破壊活動そのものとみなされる保守的なイスラム教国のアフガニスタンにおいては、自由の象徴でもあるのだ。【11月6日 AFP】
******************

こうしたことが話題にもならない普通のことになればいいのですが・・・・。

反体制勢力全体の戦闘員は4万5000人
タリバンなどアフガニスタンの反体制勢力全体の戦闘員は4万5000人に上っているようです。

タリバンはアルカイダとの関係が強い組織ですが(ビン・ラディンをオマル師のタリバン政権が保護したこともあって、アルカイダはタリバン最高指導者に忠誠を誓う関係にあります)、一時アフガニスタンでもイスラム国(IS)が勢力が拡大しました。

しかし、タリバンによってアフガニスタンのIS勢力は弱体化したようです。

****イスラム国(IS)】アフガンで弱体化、戦闘員激減 アルカーイダとタリバンは関係強化 国連報告****
イスラム原理主義勢力タリバンと政府軍などとの戦闘が続くアフガニスタンの治安状況について、国際テロ組織アルカーイダがタリバンへの支持を強め、反体制勢力全体の戦闘員が4万5000人に上っていることが分かった。AP通信が5日までに、国連の報告書の内容として報じた。
 
アルカーイダとタリバンの関係は、タリバンの最高指導者マンスール師(5月に死亡)の下で強化。アルカーイダは、即席爆発装置(IED)の設計をタリバンに指導しているという。
 
一方、アフガン国内でのイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)の勢力は「明らかに弱まっている」とした。
 
ISは昨年、東部ナンガルハル州で9つの郡を支配していたが、現在の勢力範囲は約3分の1に縮小した。アフガン治安部隊による掃討作戦と国際部隊の空爆、国内で勢力を争うタリバンとの衝突が要因という。東部でのIS戦闘員の数は以前、3500人以下とされたが、現在は約1600人まで減っている。
 
アフガンの反体制勢力戦闘員の20〜25%は外国人で、最大はパキスタンから逃れてきた7500〜7600人。中国やロシア、中央アジアの出身者も目立つという。【11月5日 産経】
*****************

撤退できない米軍 「誤爆」も
4万5000人にものぼる反体制勢力・・・となると、弱体政府軍ではなかなか持ちこたえられないということで、撤退計画を進めたいアメリカなども撤退できずにいます。

アフガニスタン駐留米軍は今も空爆を行っていますが、当然のごとく「誤爆」も。

****アフガン空爆、民間人死亡の可能性「非常に高い」 駐留米軍認める****
アフガニスタン駐留米軍は5日、北部クンドゥズ州で実施した空爆で民間人が死亡した可能性が「非常に高い」ことを認めた。現地で激しい抗議活動が行われており、米軍はこの件を徹底的に調査するとしている。
 
同軍は、先に州都クンドゥズ市近郊で旧支配勢力タリバンの攻撃により米兵2人とアフガン特殊部隊の兵士3人が死亡したことを受けて3日未明に空爆を実施。少なくとも30人が死亡したが、その多くは子どもたちだった。
 
この空爆について駐留米軍のチャールズ・クリーブランド報道官は、初動調査の結果から「市民が犠牲になった可能性が非常に高い」ことが明らかになったと述べた。
 
クンドゥズでは4日、遺族たちが、ばらばらになった子どもたちの遺体を荷台に積んだトラックで市内を行進し、空爆に抗議した。
 
遺族の1人は集団葬儀の会場に遺体を運びながら「わたしの周りを見てほしい。誰もが深く傷ついている」と述べた。また、「犠牲者が何の罪を犯したのか。なぜこのように殺されたのか」と疑問を投げかけ、殺した者に対して法の裁きを求めるシュプレヒコールに加わった。【11月6日 AFP】
******************

シリア・イラクに関して“米国防総省は9日、米軍が2014年以降にイラクとシリアでイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」に対して行った空爆で死亡したとみられる民間人が119人に上ることを明らかにした。この人数は、人権監視団体が推計する死者数よりはるかに低い。”【11月10日 AFP】という話もありますので、実際は誤爆の可能性が「非常に高い」ものが多数あるのでしょう。

【「今ほど人生に希望が持てないと感じたことはない。出口が見当たらないのだ。不穏な時を過ごしている。」】
以上、グダグダとアフガニスタンの現況について書いてきたのは、下記記事の前置きです。
米軍侵攻とタリバン政権の崩壊、タリバンの復活・・・・という15年間を見つめてきた現地記者のリポートです。

****米軍進攻から15年、希望を失ったアフガニスタンの今****
アフガニスタンにとって、米国が進攻を開始した直後は大きな希望に満ちた黄金の日々だった。タリバンに支配されていた暗黒の時代が終わり、ついにより良い生活への道を歩み始めたかに思われた。だが15年を経た今、その希望は消え去り、生活は以前よりもさらに過酷さを増している気がする。

私がAFPのカメラマンとして働き始めたのは、タリバン政権下の1998年だった。タリバンはジャーナリストを嫌ったため、私はいつも身を潜めて仕事をしていた。外出時は伝統的な民族衣装を着用し、写真は手に巻いたスカーフに隠した小さなカメラで撮っていた。
 
タリバンによる規制のせいで、業務の遂行は困難を極めた。人だろうが動物だろうが、あらゆる生物の撮影が禁じられていた。(中略)

2001年9月11日の米同時多発攻撃は、BBCで見た。その際、アフガニスタンに影響が及ぶとはみじんも思っていなかった。数日後イスラマバード支局から、「米国がアフガニスタンを攻撃するといううわさがある」と警告を受けた。(中略)

それから1か月もたたない10月7日、タリバンが首都を置いていた、パキスタン国境に近い南部カンダハルへの空爆が始まった。(中略)

■物陰から姿を現した人々
そしてある朝、タリバンはいなくなった。跡形もなく消え去った。皆さんもご覧になったはずだ。通りは人であふれた。まるでずっと陰に隠れていた人々が、再び生命の光の中に姿を現したかのようだった。(中略)

■希望の一瞬
大きな期待に満ちた時だった。黄金の年月だ。街から戦闘が消えた。通りは英国やフランス、ドイツ、カナダ、イタリア、トルコの部隊であふれていた。兵士らは歩いて市内をパトロールし、あいさつしながら気楽な様子で笑顔を見せていた。私は彼らの写真をいくらでも撮ることができた。南でも東でも西でも、どこへでも自由に行けた。あらゆる場所が安全だった。

しかし2004年、タリバンが戻ってきた。最初は南東部のガズニ州だった。2005~06年には、ウイルスのように勢力を拡大し始めた。その後カブールでも攻撃を開始、外国人がよく利用する場所が狙われた。パーティーは終わった。

今ではまたタリバンが至る所にいる。私たちは大抵の場合、カブールに足止めされている。爆弾が仕掛けられた乗用車やトラックによる攻撃から身を守るため、「Tウォール」と呼ばれるコンクリートの壁があちこちに設置されている。カメラマンに優しく接してくれる人はもういない。攻撃的な態度を示す人が多い。皆、誰も信じない。外国の通信社に勤務している者などなおさらだ。「お前はスパイか?」と尋ねられる。

■希望を失った街
米軍による進攻から15年。アフガニスタン人には金も仕事も残されておらず、表に居るのはタリバンだけだ。2014年に外国部隊の大半が撤退したのに伴い、多くの外国人が去り、何もかも忘れ去られた。何十億ドルもの金がこの国につぎ込まれたことも。

米軍の到着直後のことが輝かしく思い出されてならない。もちろん、2001年以降この街は大きく変わった。新しい建物が作られ、小道の代わりに大通りができた。戦争の痕跡をとどめるのはダルラマン宮殿だけで、街にがれきは残っていない。店は品物であふれ、ほぼ何でも見つかる。
 
しかしここに希望はない。情勢不安により、生活はタリバン時代よりも厳しくなっているように感じられる。あえてわが子を散歩に連れ出すこともない。私には5人の子どもがいるが、5人とも日がな家の中に閉じこもっている。
 
毎朝支局へ向かい、毎晩帰宅する際に考えるのは、猫が仕掛けられた爆弾の犠牲になっていないか、人混みから自爆犯が飛び出して来はしないかということばかりだ。リスクを冒すことはできない。だから私たちは外出しない。
 
友人であり同僚だったサルダルのことを思い出さずにはいられない。彼は妻、娘、息子と一緒にあるホテルへ出掛けた際、襲撃に巻き込まれて死亡した。幼い息子だけが生き残った。
 
今ほど人生に希望が持てないと感じたことはない。出口が見当たらないのだ。不穏な時を過ごしている。【11月9日 AFP】
****************

タリバンは9日、アメリカ大統領選でのトランプ氏勝利を受けた声明で「アフガンの主権を侵害するような政策をやめるべきだ」と訴え、駐留米軍の完全撤退を要求しています。

トランプ“大統領”はどうするのでしょうか?
「アメリカ第一主義」ですから、“出口が見当たらないのだ。不穏な時を過ごしている。”という人々への思いはあまりなさそうです。

アメリカの海外での活動はとかくの批判があります。紛争を作り出しているとの批判も。「誤爆」などの住民被害への批判も。

ただ、アメリカがアフガニスタンから手を引けば、遅かれ早かれ、タリバン主導の流れになるのではないでしょうか。

ことアフガニスタンに関しては、アフガニスタン国民の多くがタリバン支配を望んでいるとは思えませんし、旧タリバン政権の、近縁の男性の同伴なしに女性の外出が禁止されていたような過酷な統治が住民にとって幸せにつながるとも思えません。

アメリカが「世界の警察」から手を引くとき、現実問題として、各地で頻発する紛争・弾圧に世界はどう対応するのか?その国の問題として捨て置くのか?「日本の平和第一主義」の日本にも関係する話です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする