孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ  コソボ独立はパンドラの箱をあけたのか?

2008-02-27 15:34:27 | 国際情勢

(サラエボの街角 なにか特別な祝日のようです。 サラエボはエルサレムと同じように、ひとつの区画にイスラムモスク、カトリック教会、セルビア正教会、シナゴーグが見られる街だそうです。それだけに、難しい問題も・・・ “flickr”より By lnboz http://www.flickr.com/photos/lnboz/538073387/in/set-72157606205918686

コソボ独立については、その“連鎖反応”が危惧され、キプロスの外相は“パンドラの箱を開ける行為”と批判していましたが、確かに実際やってみるとなかなか大変なものはあります。
一番影響を受けるのが隣接するボスニア・ヘルツェゴビナとマケドニアでしょう。

特に、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア解体の動きのなかで、激しい内戦の結果できたガラス細工のような危うさのある国ですので、影響もひとしおです。
92年に独立宣言、独立を支持するクロアチア人17%・ボシュニャク人(ムスリム)44%に対し、33%を占める独立反対のセルビア人が激しく対立、内戦状態へ。
セルビア人を支援するミロシェヴィッチ率いるユーゴスラビア連邦軍が介入、更にNATO軍の制裁空爆、隣国クロアチアのクロアチア人支援等、クロアチア人とボシュニャク人の対立など、事態は混迷。

当時、かつてオリンピックが開催された美しい都市サラエボを包囲するセルビア人勢力のスパイナーが、小高い丘から市街にむけて狙撃を繰り返すシーンなどをTVで見た記憶があります。
激しい戦闘に伴って、虐殺・集団連行・レイプなどの痛ましい非人道的行為があったと言われています。
当初国際社会の関心をひくこともなく、セルビア人勢力に対し劣勢にたたされたボスニア政府側は、アメリカPR企業と組んで「民族浄化(エスニック・クレンジング)」という言葉を造り出しました。
(“ホロコースト”という言葉の使用にはユダヤ人が反発する、“ジェノサイド”を公的に認めると国際条約上の対応措置を取ることが必要になる・・・そういった背景でうまれた造語とか。)

このナチス・ドイツのホロコーストを思い起こさせる言葉、更に強制収容所を写したとされた写真などは欧米社会の関心を強くひきつけ、“セルビア=悪”のイメージを確立、NATOのセルビア制裁へ至る結果になりました。
ただ、よく言われるように、非人道的行為はひとりセルビア人側だけでなく、戦闘を行っているクロアチア人、ボシュニャク人側にも同様のものはあったようです。
ミロシェヴィッチの国際世論に対する配慮のなさが、自分の首を絞めることになったとも言えます。

3年半に及んだ内戦は、NATOの強力な対セルビア介入もあって、95年“デイトン合意”によって終結しました。
合意により、クロアチア人・ボシュニャク人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国というそれぞれ独立性を持つ国家体制を形成し、この二つが国内で並立する国家連合として外形上は一国と成すこととなりました。
“スルプスカ”というのは現地の言葉で“セルビア人の”といった意味だそうです。
領土配分は、スルプスカ共和国が約51%、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が約49%とされ、両国はそれぞれの主体が独自の警察や軍を有するなど高度に分権化されました。
国会や行政府は両勢力の共同運営で、議会議員も両勢力の各議会から選出され、内閣は3民族代表で構成する幹部会により指名されるかたちになっています。

その後、軍は統合された他、警察制度についても改革が議論されていましたが【ウィキペディアより】、コソボ独立という事態を受けて、流れは分裂の危機をはらんできました。
スルプスカ共和国議会は22日、国連とEUの加盟国の多くがコソボ独立を承認した場合、スルプスカ共和国も「住民投票によって共和国の国家としての地位を見直す権利を有する」との決議を、圧倒的賛成多数で採択しました。

ボスニアの人口380万人の31%を占めるスルプスカ共和国で住民投票が実施された場合、セルビア系住民の圧倒的多数が、独立に賛成すると見込まれています。
また、住民は独立後、最終的にはセルビアとの併合を望んでいるそうです。
アメリカはこのような動きに対し、すべてはデイトン合意で解決済みとして批判しているそうです。

一方、コソボに隣接するマケドニアの場合は、ユーゴ解体のなかで91年に独立した国家ですが、マケドニア人64%に対し、コソボと同じアルバニア人が25%を占めています。
コソボ紛争による50万人とも言われるアルバニア人難民が押し寄せるなかで、アルバニア人の民族意識が高揚し、2001年にはアルバニア系武装組織NLAが蜂起し、マケドニア紛争が勃発しました。

一時はコソボ自治州の武装組織の介入もありましたが、NATOの介入もあって、アルバニア人の権利拡大を認める和平合意が締結されました。
その後は散発的なテロ・衝突はあったものの、比較的落ち着いてきたと見られています。

しかし、これも今後、ボスニアからのセルビア人の独立、セルビアとの併合というような流れが出てくると、コソボ、マケドニアのアルバニア人、そしてアルバニア本国を含めた“大アルバニア”の動きも刺激されるのではないかと危惧されます。

ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争後、セルビア人難民が発生し、セルビアは彼らをコソボ自治州に入植させました。
これがコソボのアルバニア人を刺激する結果にもなり、現在のコソボ独立に至っています。
さらにコソボ独立がボスニア・ヘルツェゴビナの分裂、セルビア人の独立・併合を招くと、それはマケドニアの分裂、アルバニア人統合に・・・と、“玉突き”です。

コソボ独立がOKで、ボスニアのセルビア人独立がなぜだめなのか・・・なかなか説明がつきません。
“国家とは何か”というover my headな難しい問いかけにもなってきますが、それが及ぼす各方面の影響という現実的な問題を棚上げにして敢えて言えば、「一緒に暮らすのがいやな住民が、なにも無理してひとつの国家にこだわることもないのでは・・・、所詮国家は個人が生きやすいようにいくらでも作り変えればいい」と考えてしまいます。

もちろん、別れればいいというものでもないでしょうし、そもそも、かつては一緒に暮らしていた異なる民族間の対立を煽り、諸問題の原因を民族問題にすりかえるような偏狭な民族主義は、宗教的不寛容と並んで世の中の諸悪の根源だと思っています。
しかし、その経緯はともかく一旦憎しみあい、恐れあうようになった人々を従来の“国家”の枠組みに閉じ込めておいても混乱しか生まれてこないのでは。
ましてや、別れようとする動きを力で抑え込んでも憎しみを増幅させるだけです。

もっと“いい加減”に考えて、別れたければ別れて暮らし、お隣同士ですからその後の関係修復に努め、再統合の機運が出ればその時点で統合すればよし、地域連合的な関係が作られればそれもよし・・・ぐらいに柔軟に考えたほうが、国家・民族による戦争の犠牲者という本末転倒の悲劇を出さずにすむのではないでしょうか。

現実の諸問題を考えるとそんな簡単にはいかないし、第一、別れるといっても、両者が混在している地域をどうするのか、結局どこまで分割しても国家の中心的存在と相容れない少数派というのは出てしまうのではないか・・・ということもあります。
そのような少数派と共存できるように、偏狭な民族主義を超える努力は常に求められます。
かつての国家内で権利を抑圧されていたと感じる人々が分裂独立し、自分たちのなかに少数派を抱える立場に転じ、より冷静に事態を把握することでかつて別れた人々との関係についても修復の機運がうまれ・・・なんていかないか。

パンドラの箱の話も、最後に何が残ったのか、あるいは飛び出したのか、また、その解釈についても、諸説あるみたいです。
コソボ独立も、どう考えるかは人それぞれといったところでしょうか。
コメント
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