銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

野島稔がショパンに見えた20年前。野島稔の消息の変遷に感無量だ△

2014-01-05 22:58:24 | 音楽

  さきほど、帰宅しました。夜の九時45分ごろです。さて、ニュースでも見るかとテレビをつけると、3チャンネル(ETV)にあわせてあって、それが、目に入ってきました。私の留守中に、主人が、日曜美術館にあわせていたと思われます。

 で、クラシック音楽館を途中から見ることと成りました。

 すごくいいメロディ。最近、交響楽団を聴くのがしんどくて、この番組が二時間となった途端に、チャンネルを回さなくなって、しかも録画も、大体していないのです。だから、本当に久しぶりにN饗の音を聴くし、ピアノ協奏曲も、久しぶりだし・・・・

 思わず、新聞を見ると、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番ですって。

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副題1、『ベートーヴェンのピアノ協奏曲なら、野島稔さんが忘れられない』

 すると、突然に、1974年からのち、数年間にわたってN饗アワーに野島稔さんが何回も出て、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を、汗を飛び散らせながら、弾いていらっしゃったことを思い出したのです。白黒テレビの時代です。

 野島稔さんって、どこか、雰囲気が、私の弟に似ているのです。とても不器用で清潔な感じがする。そして、優しい。もしかしたら、独身ではないかしら?

 世間の垢が、一切身についていらっしゃらない方。

 アメリカへ移住なさってしまったのも、日本人の、マスメディア利用主義と言うか、マスメディアで、有名になった人ばかり、優遇される措置に嫌気がさしてしまわれたのだと思っています。

 帰国されても、それほど、話題にならないのです。数年前に、埼玉芸術劇場で、公演なさった何かが、日経新聞か朝日新聞にあって、その、小さなコラムで読みました。

 「もったいない。埼玉で、この演奏が行われるとは?」と、締めくくってあったと思います。 

 テレビで、演奏を聴いたピアニストのうちで、その音に感動したのは、野島稔さんが初めてでした。

 そして、それ以降もめったにないのですが、クラシック倶楽部で、2012年度に放映されたケマル・ゲキチと言うピアニスト(1962年クロアチア生まれ)がものすごく、音がいいと思ったのに、続いて、

 本日のラルス・フォークト(ドイツ生まれ)も、音がいいと思いました。二時間に拡大する前にN饗アワーはずいぶん聞いているけれど、テレビで、本当に感動することは少ないのです。

 生で、ホールで、聴いてもそれほど、感動するものでもないです。いや、感動させてもらえるピアニストが、少ないのです。で、生で聴いても感動をさせてもらえなかったピアニストの名前は、どんなに有名人でも、その名前をもちろん、ここではあげません。

 CDなら、グレングールドなども聴いていますよ。 

 テレビなら、・・・・・と、ここから先に演奏家名を列挙していたのですが、弊害があるやもしれずと、感じ・・・・・と言うのも、映画もそうですが、音楽界も、日本では、ほめる以外の本当の批評は、まだないと思われるので、「私が感動しなかった」という文言が批評になってはいけないので・・・・・個人名を削除いたします。

 私は、音楽評論家ではなくて、ただ、単に純粋で素直なひとだと言うだけですから。いや、単なる、あほと言うべきかな?(笑い)

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副題、『缶ジュースが、カラン、コロンと、音を立てても、怒らなかった、野島さんに驚く』 

 私はたまたま、京急・北久里浜の丘の上に、10年間すんでいたことがあります。その北隣の駅、新大津が野島さんの実家があるところでした。で、ご両親が、三歳ごろから、野島さんをおんぶして、鎌倉までレッスンに通われたと噂に聞いていました。

  自分が男の子を育てていて、三歳から、ピアノに没入させる生活をさせたら、友達とも遊べないし、そりゃあ、普通じゃあない育ちだから、ああいう風に、不器用で、慎重そうな、シャイな青年に成るのも仕方がないだろうなあと思いました。

 『自分なら、そんな個性的なことは、絶対に、できないなあ』と思いましたが、野島さんには、お姉さんが二人ほど居て、そのお姉さんが、先にピアノを習っておられたので、ご両親としては、そうする方が、極く自然な成り行きだったらしいです。 

 1945年生まれです。戦後の開放主義の中で、文化への欲求が強いご両親だったのでしょう。それに、三人の子供に、鎌倉まで通って、レッスンをさせるのは、京浜急行の新大津駅からだと、とても、時間がかかるのです。車で通うのならいざ知らず、1950年代に、自家用車を持っている家庭なんて、ほとんどなかったから、電車でしょう。とても、芯の強いご両親だろうと推察しています。

 ご両親を、横須賀の文化会館の入り口で、・・・・・入場者に対して、挨拶しておられるのを、・・・・・・お見かけしたことがあるけれど、上品なご夫婦でした。

 でも、内面は強いのだと思う。『地域社会の、中での、子供』と言うことを捨てて、一途に特殊な道に進ませて、迷わないのだから。 

 横須賀市って、半島の中にあり、東西には両隣の町がないのですよね。南北も山にさえぎられているので、隣接感が少ないでしょう。

 それと、今は基地の町でイメージダウンがはなはだしいけれど、・・・・・あ、これも、言っちゃあ、いけないことかな?・・・・・いや、本当の事を言って、今日はひどく書きにくかったです。普段の20倍の時間がかかりました。・・・・・それは、こういうところが引っかかったのかな?・・・・・

 戦前は、海軍の拠点だったから、その誇りもあるのか、非常に地域主義が強くて、地域出身の有名人に対する援助意識も強いのです。それは、横浜市などとはまったく違います。

 画家の島田章三さんに対するオマージュも激しいのだけれど、

 ピアニストの野島さんに対するオマージュも激しくて、一年に一回は演奏会をお願いしていたみたいです。で、市が支援するので、入場料も安くて、しかも夏休みに開かれていました。で、子供がいっぱい来ていました。あるときですが、子供の誰かが、缶ジュースを、手から離したらしくて、演奏中なのに、缶がカラン、コロン、カラン、コロンと、いすの間にある階段を転がっていき、音が、文化会館と言う1500人が入れる会場中に、響き渡ったことがあるのです。

 その時に野島さんは、演奏を中断しなかったし、終わった後も、ニコニコして、決して、その音について、文句はおっしゃらなかったのですよ。その時に、非常に誠実で謙虚な方だと、感じました。

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副題3、『鎌倉で、20年前に野島さんが、演奏会をしたことがある』

 鎌倉市の旧松竹撮影所跡地には、芸術劇場と言うのが、作られています。そこは美術部門が狭いので、満足していません。中西レイさんが、主になって建築をされたとの噂で、音楽部門が優先をされていると思います。その上、鎌倉って山があるので、同じ、市内なのに、行きにくい場所があるのです。自宅の雪ノ下発で、芸術館に行くのは、東京へ行くのより億劫になるほど、時間がかかります。

 でも、JR鎌倉駅のすぐそばにある、旧中央公民館(現在名きらら)での、催しは便利なので、良く行きます。 

  すごい問題作である・ドイツ映画・『命の食べ方』もそこで見ました。

 きらら(旧中央公民館)は、500人程度の小さい会場ですが、そこで、野島さんの演奏会が開かれたことがあるのです。

 そのお世話は、野島さんが子供の頃、鎌倉までレッスンに通っていた当時のお仲間だと思われ、野島さん、ご自身が切符の手配をなさるわけでもないので、満員ではなかったのです。別にテレビで、宣伝されたわけでもないし、新聞に大きな広告が出ていたわけでもありません。私だって、A4サイズの紙にカラー印刷された告知を、たまたま、公民館に寄ったときに、見つけたので、知ったぐらいですから。 

 で、演奏の始まる直前に、『プログラムの変更があります』と言う発表がありました。難しい大曲からポピュラーな名曲へ、変更になったのです。

  お客さんが少ないので、そういうことになったのかと、いったんはがっかりしました。でも、却って、それが、うれしいなとも思いました。だって、知っている曲の方が楽しみも多い場合もあるのです。私は「自分は、今、音大在学中で、将来は専門家になるつもりです」というわけでもないから。 

 でも、その会場には、少ない人数ながら、野島稔が誰であるかを知っている人々が来ているわけです。だから、相当な期待を持って、耳を澄ませて聴いているわけです。

 で、それが、野島稔さんにもわかるのですね。それで、相乗効果が出ます。で、一体感が出てきました。大人だけが静かに聴いていて、しかも、その大人は、たぶんですが、熟練した音楽好きです。そういう人だけが聴いている落ち着いた会がだんだん熱を帯びてきたのでした。

 今、埼玉芸術劇場の座席数を調べてみました。行ったことがないので。すると、604とありました。音楽評論家と思しき人が、「名演奏だったのに、このホールではもったいない」と、嘆いたのも、なるほどと頷けますが、それでも、その日の演奏は、日経か朝日のどちらかの大手新聞に記録をされたわけです。

 だが、鎌倉での、300人程度の、あの日の演奏会は、新聞評が出たわけでもありません。今思うと、『本当に、もったいないものを聴かせていただきました』と感じます。地元で聴けば、歩いただけで、夜の九時前に、家にたどり着ける幸運。そして、美しい音色を聴くことのできた幸せ。もったいないことでした。

 その日、野島稔さんは、大変な美形に見えました。テレビで見たとき、また、35年前に横須賀の文化会館で、見たときの野島さんは、小太りでめがねを掛けておられて、お上品な事はお上品だが、美形と言うわけでもなかったのです。

   ただ、その鎌倉での、300人の演奏会では、ショパンかと見まごうほどの美形に見えました。ただ、やせておられるのも、そうみえる一因だと思い、ひそかに心配もしたのです。

 その頃、アメリカに定住されようとしておられた日々で、日本の音楽界で、いやな事が、あったのではないかと思って。野島さんは、桐朋音大の出身で、芸大出身ではないし。音楽の世界でも派閥や、嫉妬もあるだろうしと思って。美術の世界で、散々そういうものに悩まされている身には、大体のことは、推察もできるのでした。

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副題4、『10年前にコンクールが始まる』 

 私は実は、新聞を読む暇もないのです。で、むろんの事、チラシを読む暇はありません、でもある日、ふとですが、チラシを読むと、そこに、野島稔が横須賀芸術劇場で、演奏をすると出ていました。『久しぶりだ、行ってみるか』と思い、足を運ぶと、会場の入り口に、『横須賀ピアノコンクールが野島さん、主審で、行われる予定がある』とありました。

 『うわー、横須賀市もやるじゃん』と思いました。 

 このコンクールを野島さんが、提案したとは思えないからです。シャイな野島さんが、お金のかかることを、ご自分から提案するとは思えませんので。ここには現代の、芸術家とパトロンの、好ましい形がみえました。それは、いいことだと感じました。 

 で、帰ってグーグル検索で野島さんを見てみましたが、それは数本は、あったけれど、まだ、野島さん個人のwikipedia は、たっていなかったと記憶しています。

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副題5、『この一年間で、私は、ケマル・ゲキチと、ラルス・フォークトを知った』 

 そして、本日、2014年1月5日です。一年の年頭のクラシック音楽館。それはNHKとしても目玉商品としての演奏会を乗っける機会でしょう。そこで、2013年10月25日、または、26日放映の演奏会からの再放送でした。それが、途中から聴いたものだったので、新聞で、タイトルを調べ、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番だと知り、この文章の冒頭へ、戻る事となります。 

 外人の男性のピアニストでした。ものすごく美しいピアノの音色で、誰だろうと、思わず、新聞を見たのでした。すると、ラルス・フォークトとあります。最近のピアニストは知らないのですが、音がいい人なので、急いで、グーグル検索をして見ました。

 それで、項目はたくさん出ているのですが、こちらも、wikipedia   が、まだたっておらず、なんだか、欲求不満に陥って、昨年度中に、知り始めた、やはり、音のよいピアニスト、ケマル・ゲキチを、ググっていたりしていたのです。で、音楽の分野を、集中的にググっているうちに、ふと最近接していない野島稔さんを、ググって見ようかと言う気持ちになりました。 

 すると、野島稔2013と言う項目があるので、そこを開くと、驚いたことに、wikipedia が立っていました。 そして、他にもたくさんの項目が出ていました。10年前とは雲泥の差がありました。

 ただ、蛇足ながら言わせていただくと、音楽家のwikipedia には、その詳細さと言うか、情報量が足りないと思うときが多いです。野島さんの、wikipediaにもむろんの事満足はできません。デモ、あるだけよかった。上に上げたケマルゲキチも、ラルスフォークとも、私はまだ、日本語の、wikipedia は、発見していませんし。

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副題6、『あの野島稔さんが、学長になっていた。大丈夫? でも、消息の変遷にびっくりです』 

 その理由はやがて、推測がつきました。野島稔さんは、東京音大の学長になっていたのです。選挙の結果ですって。おおすごい。そんな椅子、つまり、政治的な部分を必要とする椅子に座ることは、とても想像ができなかったあのシャイな野島さんが、学長に!!!!! 

 内面は強いと思いますけれど、押し出しが強いとか、にらみが利くと言う人でもないでしょう。そこは、昔から、変りはないでしょう。

 そして、東京音大は、もう、小さな大学というわけでもないみたいですよ。と言うのも、お人形のようにかわいいギタリスト・パク・キュヒを出し、間接的ながら、辻井伸行さんを生んでいます。のぼり調子の大学です。 

 私は、今度は、東京音大側から、検索を開始しました。すると、どこにも「野島稔が学長だ」とは出ていないのです。それもまた、野島さんらしい姿勢だと感じました。

 とても、ほっとするニュースでした。ちゃんと仕事をこなしている人、そして、本当に才能のある人が恵まれていることを知って。

 なお、2010年から数えはじめた、このブログの伸べ訪問回数は、1968309です。

                                    雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)

 なお、「死刑執行が多数回行われている事の理由は何か?」と言う話の続きは、後日させていただきます。恐れ入りますが、そう、させてくださいませ。いつも、天から降りてくる文章を書き表すことにしていて、帰宅した後では、・・・・・それは、もしかしたら、小さい話題なのかもしれませんが、・・・・・野島稔さんに、心が集中して行ったのです。

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3 コメント

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これは、30年前のこととなります (雨宮舜)
2024-02-01 17:22:07
野島稔を鎌倉で、聞いたのは、1986年か、もっと前ですね。したがって、2024年の今から見ると30年は前になります。そのころ野島さんは、痩せていて、かつ、長髪でした。長髪にパーマをかけておられたのです。つまり、おしゃれをしていらっしゃったというわけです。だから、本当にショパンに見えました。眼鏡も外しておられたからね。この文章を書いてから、でも、二十年はたっていて、今、藤田真央という愛弟子が大活躍です。しかし、2023年に亡くなりました。惜しいですね。
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Unknown (同、)
2024-02-01 17:25:58
鍵盤の天皇という書物を読むと、野島稔さんは、井口愛子に、たいへん、かわいがられていたのですって。貰い物のお菓子の箱を、わんさか、「」持って帰りなさいと、いわれていたそうです。井口愛子、野島稔、藤田真央と、続く系譜です。
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Unknown (雨宮 舜)
2024-02-20 01:28:30
野島さんは、最晩年は、パーマはかけず、たばこのせいで、顔色が悪かったですね。だけど、知的仕事をする人には、たばこが、手放せない人が多いのです。野島さんは、曲の解釈に、心底、心と頭を使っていたそうです。
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