銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

水沢勉氏は、ご自身の哲学の道=葉山=を、長時間かけて歩き、職場へ向かうのだった。2004年頃の話だが

2023-03-12 15:45:06 | 文化、芸術、書物

 すみません。慣れない音声入力を、しかも、スマホで、やったので、本文が出来が悪い事、悪い事。教養番組の最おおて、である、日曜美術館を論じるのに、こんな文章では、自分でも、恥ずかしくて、所謂・・・・忸怩たる思いの典型で・・・・・困り切ってはいるのですが、どうしても、時間が無くて、今夜=14日、早朝=には、推敲をしている暇がありません。第一節と、第二節だけ、推敲しました。推敲したところは、アンダーラインをしいておきます。また、青字で書いた長い挿入も入れます。そして、総タイトルも変更します。元は、【エゴンシーレ再び…画面三分の二を水沢勉氏が占めて・桝目どりを解説…だが私には聞こえない。補聴器は盗まれていて?!?】でした。そちらは政治優先、今回の変更後は、心理的・分析・優先です。

#1)・・・・312日の日曜日の日曜美術館、夜八時版は、エゴン・シーレの再放送です。げんざい、葉山の美術館の館長である、・・・・・と私が信じている、ただし、もう、ていねんで、お辞めになっているかもしれないが、・・・・・水沢勉先生がメイン解説者として、出演されます。実の事を言うと、ここで、公務員の定年は、どうなっているのだと、言う問題に入っていきたいのです。酒井忠康前神奈川県立美術館・館長は一般的な、公務員の定年を迎えて、こちらを去った後で、世田谷美術館の館長になられたのです。それを、私は、問題として考えているのですが、今、後、10分で、夜の八時になります。だから、その件について、語っている暇がありません。酒井先生の特例がどうして生まれたかについての、考察はしないで、先へ進みます。

#2)・・・・日曜美術館は、私が、45年以上の長きにわたって見続けている番組ですが、今回だけは、いつもと違う形で、番組が進行します。いつもは小説家の小川さんとNHKアナの〇〇さんが2人でスタジオで司会をするのですが、今回だけは上野の都美術館に森山未來さんが行ってエゴンシーレの絵を見ながら、いろいろ感想を語ります。

 美術の専門家ではない森山さんが、絵をいろいろ解説していくのですが、番組の真ん中で学究の人として、専門家である水沢勉氏が登場します。

 ここですが、鎌倉霊園に向かうバス停で、スマホで、音声入力したので、めちゃくちゃな変換に成っていますが、これから、直していきましょう。

#3)・・・・いつもは、スタジオで収録し、そこへ、学者とか、知識人が、一般の人向けの解説をするために、おまねきをされて訪問をするのですが、その形式で、スタジオに高階秀爾先生も、酒井忠康先生も、訪問すると言う形で登場します。若い方、特に美術の世界にいない方に向けて語りますが、高階秀爾と酒井忠康って、大変有名な人なのですよ。美術の世界では、とても偉い人なのです。

 で、両者からは、20歳は、若い水沢先生の特別扱いは、異例の事だと思います。・・・・しかし、私には、判っている。どうしてそうなっているかが?。・・・・・つまり、答えは、こうです。それは、私が大物だからなのですよ。(苦笑)、水沢先生は、私を切った人なので、それを、対私に強調するために、これほどの特別扱いとなっているのです。

:::::::::: あのね。それを言うのが胸が痛くなるほど、つらい事なので、言いたくないのですが、敵さん連中は、私を殺そうと1965年以来、何度もトライしたが、ことごとく失敗をしたので、今では、心理的な攻撃で、ノイローゼになるか、自殺をするかの、どちらかの手法で、殺してやろうと、考えています。

 水沢さんと、仲が良かったころは、展覧会の初日の、パーティへのご招待状をもらったと、言っています。これがあると、まず、入場券を買わないで済みます。そこで、2000円得をします。また、お土産として、プログラムをいただけます。歌舞伎や映画のプログラムと違って、大きな展覧会のプログラムって、厚さが、2cm以上あって、大体、3000円です。また、おもてなしの軽食とワイン等が提供されます。葉山の美術館って、相模湾を、東西に貫通する景色が、見えます。富士山の後ろに、夕日が沈み、美しいです。まあ、私は政治的な攻撃があるのを知っているので、自分からは、新しい知遇を求めてはいかないのですが、そういう様な憂いのない人は、新しい知己を増やしていきます。とても、幸せな気分のうちにあっという間に、二時間が過ぎ、二次会へと、みんながなだれ込みます。葉山だと二次会があるのかないのかは知りませんが、5人ぐらいの小さなグループで、「銀座へ戻って、二次会をしよう。いつものところでさあ」と、言う話は出ると思います。

 その二次会が、大切なのです。そこで、美術界における派閥の形成やら、階級の形成がなされるのです。社会的な知名度が同じ人は、同じレベルの人として、グループを作って、なじみます。そこでは、お酒も入って、無礼講となり、人の悪口を含む情報交換がなされます。

 他の分野の人でも、有名人の人生を見ると、六本木(村井邦彦さん)とか、新宿(俵万智さん)が、キープレイスだったことがわかりますね。そこで、お互いに知り合って、引き揚げてもらったと、言うケースがあるじゃあないですか。そして、それは、キャンティというレストランだったり、文人バーといわれる・バー・だったりして、必ず、飲み食いが、プラスしているのです。

 そして、ひとかどの人物となって、仕事で、お金でも入る様に成れば、毎週、どこかの展覧会のオープニングに招待をされて、その二次会で、その飲み食い会に参加をすることとなって、そこで、さらに自分の知名度を上げていくわけです。私は自分が石部金吉だから、それに参加しないというわけではなくて、最初にサラリーマンの妻となっていて、しかも、子供が二人いて、そのあとで、画家を志したので、40代は、二次会に出ることなど無理だったのです。

 で、子供が家を出ました。サー、出ていきましょうか?と、なっても、すでに、60代です。美術界において、権力を握っている人たちって、主に60代か、それ以上のねんれいのひとたちですよね。そうなると、「あの子は、お顔がかわいいから、引き揚げてやろうかな」という意味での、年齢制限が、とっくのとうに、オーヴァーしているのです。

 だから、こそ、私にとっては、水沢先生が、大切な存在でした。12歳こちらの方が上です。言ってみれば、遠い親戚の様な信頼感を、奥様には持っていただいていて、電話で、直接はなしができました。だが、ご主人の方とは、主にメールのやり取りだけで、頭脳と、頭脳の交換だけだったのです。

 私は、水沢先生に対しては、・・・・ほかにも大学教授や、安倍晋三さんなどの、相当に高度な読者がいた・・・・・メルマガを配信して居ただけで、水沢先生からは、時々、コメントをいただくという関係だけでした。ただ、ほんのまれに、鎌倉館で、直接話をしたことがありますが、電話を交わしたことはありません。非常に透明で、かつ束縛のない、自由な関係でした。それは、私が、厚誼については、外部に一切、出していなかったからです。しかし、CIA連中はありとあらゆる、ネットの技術を持っていますので、二人の関係が筒抜けだったのでした。

 それで、ある時に、鎌倉館の前の道路で、先生が、「メールがはじかれたので、直接お渡しします」と言って、白い封筒に入った、招待状をくださったのです。その時に私がどんなにぞっとしたか、ご理解をいただけますか。ただし、これは、皆様に、知らせたくない、エピソードで、ずっと黙っていたのですが、18年ぐらい前の話だったでしょう。私自身のパソコンは、40台以上壊されています。だけど、皆様のパソコンが壊されたら大変なので、語るに語れないエピソードだったのです。

 で、そういう前哨戦を経たうえで、上司だった、酒井忠康氏から、または、宮崎進氏から、「川崎千恵子との交流はやめなさい」と、命令が来たのだと、思います。それは、職業上の、大事ですから、言うことを聞かざるを得ないでしょう。でないと館長に成れないです。

 ここまで語ると、その経過は、陰惨極まりないです。で、私がつらすぎます。で、読んでいる方もつらいでしょう。だから、一つ明るい話を入れます。今の私は体力の衰えもあって、このブログも、未完成のまま、公開するときが多いのですが、メルマガは相手があるだけに、相当気を付けて、管理をしていました。で、気を付けて点検をすると、水沢先生からの、コメントは、午前五時台に発信されていることが多いのでした。

 で、たまたま奥様と、電話が通じた日に、「先生って、朝型ですか? メールが午前五時に発信されています」というと、おくさまが、『ええ、そうです。主人は、朝、歩いて美術館に通っているのですよ」とおっしゃるのです。私はびっくり仰天して、「それって、毎日ですか?」というと、「そうです。毎日、〇十分かけて通っています」とおっしゃるのでした。先生は、車は運転できるでしょう。自転車はあるでしょう。電動自転車だってあるかもしれない。そして、何よりもバスがあります。

 だけど、歩きなんだそうです。私は、総タイトルに、奥様がおっしゃった、数値を入れてしまっていました。だが、今、特定(identify)という事が大流行だそうなので、その数値を大急ぎで削除しました。

 世の中に、美術評論をする、人材は、たくさんいるでしょう。でも、その中でこの人を何度も学究の徒であると、書いています。

 それは、奥様から、先生の早朝の姿を聞いたときに、・・・・・朝、先生が、一番さえた頭で、研究をして、その続きは、葉山の町内の、できるだけ、車の通らない道を選んで、歩いている時間帯に、思考をさらに重ね、合計で、あるテーマの、研究を、八時間ぐらいは、続ける。自宅と、職場の間は、当時は、CD・Rか、USBで運んでいらっしゃった・・・・・・と、言うことを知っているからでした。

 テレビ画面内で、NHKが、特例扱いをしているので、立派な人だと、考えたわけではないのです。15年前から、学究の徒だとして、尊敬をしていたのでした。 

 【小さな箱】という、旧鎌倉館の歴史を書いた本の中で、新人が最初に、習うことは、お酒を飲むことだった」と、書いておられます。それじゃあ、夜には、研究ができないですよね。

:::::::::という長い挿入を入れて、元の、初稿へ戻ります。

 しかし今回の、メイン解説者、水沢勉氏は・・・・・多分ですが・・・・・ご自宅の書斎で取材に応じています。

 この特別扱いは、私が、養老孟司先生の【猫メンタリー】第一回に大変感動して、五回以上、録画を繰り返してみたし、ブログをイッポン書いているからでしょう。

 その番組の中では、養老先生は書斎で、紫煙を、くゆらせながら、あれこれを語られるのですが、その姿形も美しかったし、語っておられる内容も素晴らしかっのです。私は、その時に、自分の、ぶろぐで、それを書いています。(後註1)

 何度も見ているうちにやっとわかったのですが、質問者は、和久田アナでした。彼女の、美しい声は、聞こえるのですが、姿は、一切見せないと、言う形でした。

 ここまで、推敲をしました。時間としては、14日の、午前1時です。しかし、これ以降は、まだできません。今、大変忙しくて、これから先の推敲は、後日いたします。お許しくださいませ。

 実は、この番組は、私をいじめると、言う目的があり、(あと注1へ)それ故に、特別に水沢勉氏をアッピールする目的と、必要があったので、出演者は4人だけですが、水沢氏以外の三人は、立って、お話をするのです。で、画面上の、その三人のサイズは、小さいのですが、水沢勉氏は、クローズアップも用いられ、その姿形は、養老先生以上に、視聴者に印象深いものとして、映し出されます。

 最後のほうに女流作家の▽▽さんがエゴン・シーレの登場人物とそっくりな立体(多分乾漆系のお人形として)を作って彼女なりのエゴン・シーレ感を語ります。

#4)、この番組内で、水沢氏は、平易な言葉で、ご自分の研究の成果を発表なさるが、そのキーワードは、桝目どりで、あった。

 しかしメインの登場人物は45分間の間に、三回、登場する水沢勉先生です。彼は学究の徒の極みとしてエゴンシーレの、人生に新しい発見をしていて、それを語ります。オーストリアに、研修に行っていて、長い付き合いの研究対象としてのエゴン・シーレです。

 水沢勉氏の、新発見(科学ではないが、学問としては、新発見に近い事)を、ここで、説明して、しまうと番組のネタバレになってしまうので、それは抑さえます。が、キーワードがあります

 そのキーワードだけを、ここで、申し上げたいと思います。そのキーワードがどういう場面で、かつ、何を説明するために使われているかを、言ってしまうとネタバレになって、学究の徒の発表の、邪魔になってしまうと思うので、詳細には、触れず、キーワードそのものは申し上げさせてください。

 それは桝目どりと言う言葉です。

#5)、桝目どりとは、どういうことか?を、技術用語として、ここで、解説をさせていただきたい。美術の専門家には、不要なことなので、水沢先生も、番組内では、既知のこととして、説明抜きで、話を進められたからだ。

 もし、ここで、これを読んでいるあなたが、50過ぎの男性だと、仮定しましょう。女性は、40代から、趣味の世界に入ります。それは、女性には、男性ほど、重要な仕事を任せられていないので、子育てが終わると、余裕ができるからだし、友人たちが、みんなそういう生き方に入るので、趣味の世界を、極めて行きます。

 しかし、男性は、会社とか、学校とか、組織内での責任が、増えていくので、趣味に、没頭している暇がないと、言う形で、50代後半に、やっと、趣味を、持とうかなあ? それを、持っていないと、定年後、落ち込みが激しいと、聞いているし・・・・・と、なって、ピアノを弾いてみたり、油絵を描いてみたりするのです。

 ここでいう趣味とは会社での仕事上の付き合いで必要だった、ゴルフなどは、のぞきます。ごく、ごく、個人的なものを指します。しかも、高校まで、ブラバンに所属していたので、サキソフォーンを極めたいと、言う様なものではなくて、「絵でも、描いてみたいなあ。公民館で、展覧会がある。あれくらい、僕にも描けそうだ」と、感じる男性などを思い浮かべてください。

 横浜の関内駅、最寄りに、日本大通りと、言う広い道があります。ウィキペディアによると、以下の様に説明をされています。

:::::::::日本大通は横浜市中区の町名および道路。 道路は日本初の西洋式街路とされており、菊池道路環境賞などを受賞しているほか、平成14年度には国土交通省手づくり郷土賞受賞。 横浜市中心部の関内地区にあり、神奈川県庁などが位置する官庁街となっている。:::::::::

 私は、横浜立野(=本牧半島の一部)にある中学校に通っていたので、そこから、桜木町駅まで、よく歩いたものです。3キロぐらいです。京都に哲学の道と呼ばれる道があります。あそことは、まったく違って、ビルばかりですが、人通りが、ほとんどないので、1950年代の、そこを歩くと物を考えられるのでした。毎日ではないものの、本当によく通ったものです。今の虎ノ門当たりとは、まったく違う雰囲気です。だけど、後年、ニューヨークなどに行って、10階建てぐらいの古いビルの、集積している町もあるので、『なあーんだ。横浜と似ている』と、思ったりしたものですよ。マッカーサーが、主導する太平洋米軍は、勝利後、この辺りを、使うつもりだったらしくて、空襲に出会っていないのです。

 さて、そういう静かな・・・・・人の居ない通りも、1980年代になると、人間が存在する様になるのです。そして、日本大通りに絵を描いているグループを見かける様になるのです。その人たちが、この桝目鳥をした、透明なはがき大の、カードを持っていて、それを左手で、目の前30cmのところに固定して、その後ろにある風景を眺めているのです。

 それは、風景を正確にキャンバス、または、スケッチブックの上に、移していくのに、必要にして便利な道具なのです。でも、一年も使えば、そのカードを透かさなくても、正確に、自分が見た風景を、紙、または、キャンバスの上に再現できる様になるのですが、習いたての、時は、先生が、それを使う様に進めるのだと、思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#6)・・・・・

 私は、外交官夫人だった友人から、官舎で開かれていた絵画教室に誘われて、参加したことがあります。第一回目から、先生に、最初は、目の敵にされて(用具を戦前のものを使っていたので、貧乏だと誤解をされたのです)ちょっと、いやな思いをしたのですが、二時間ほど、経つと、正反対になって、先生に、べた褒めにされたほど、絵がうまいらしいのです。ピンクのカーネーションが画題だったのですが、花だけを、色を変えて、真っ赤な花にしたのですね。ピンクじゃあなくて。私は、色盲ではないのでよ。ただ、ピンクと、緑の葉っぱじゃあ、どんなに背景を工夫しえも、絵として、迫力が出ないからです。で、ものすごく生き生きした絵を描いたので、ほめられました。

 しかし、その絵も、このいま住む家から、盗まれています。恐ろしい世界です。この雪の下二丁目三番地と、四番地にまたがる一帯21軒の家がある小さな谷戸一帯は。

 なお、父は、1943年に安井曽太郎先生の審査委員長で、満州文展の特選をとっています。そして甘粕大尉の部屋とか、満鉄総裁室とか、ラストエンペラーの宮殿を飾っていました。それらを報道した、新聞記事の切り抜き11枚と、両親の結婚写真とか、種々様々なものが盗まれています。

 父は、終戦時、撫順炭鉱近辺にいたのです。今の言葉でいうオイルシェール(当時の日本語で、頁油岩)の研究をしていました。で、満鉄調査部、中央試験所というところに所属する技師でした。で、給料が出ます。だから、身分保障があって、週末に、安心して旅行をして、絵を描いていました。満鉄社員だから、交通費はただですし。画題は、主に中国の歴史遺産です。

 終戦時は、新京にも大連にもいなかったので、甘粕大尉(当時は、満映理事長)の部屋、とか、満鉄総裁の部屋の、自分の絵は、知人に、見てもらったそうです。すると、全部切り裂かれていたそうです。でも、それは、仕方がないことで、その件で、悲哀を語ったことはありません。

 ただね。藤田嗣次画伯のことは、大変、気の毒に思っていて、それで、私に、絶対に文科系の学部を死亡してはだめだと、言って居ました。戦争になった時に生きられないと、言っていました。しかし、父の予想は、外れて、戦後77年間も、日本には、戦争がないのでした。そして、私は、80歳になってしまっていて、すでに、働こうにもどこも雇てくれないでしょう。予想は、外れました。しかし、私は、ずいぶんと、受け身な、人生を歩んできたのだなあと、思いますよ。ヤマザキマリさんの母親などとは、正反対の教えを説く、両親でしたからね。

 ところで、日本大通りで、写生をしているグループに戻ります。私は、受け身の人でもありながら、父が、「男に生まれたらよかったのに」というほどに、芯がある人間だから、群れるという事が何につけても嫌いなのです。

だから、女性のヌードを描くとき以外は、集団の、お絵かきグループは嫌いです。女性のヌード(プロのモデルクラブ)から、たった一人だけで、呼ぶ、勇気はないですから、集団のお絵かきグループ(わたくしが参加したのは、横浜YWCAをつかっていたものです)

 でも、桝目どりの道具は、基本的な道具として、使う人が多いのです。まあ、正確に対象物を写し取ると、それは、絵がうまいという事になって、描いている本人は気持ちがいいですからね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#7)・・・・・・15分ぐらい巻き戻しを繰り返し、やっと、キーワードを把握した。キーワードは【桝目どり】だった。それがずっと、聞こえなかったのだ。 

 なお、水沢先生が、そのテクニカルタームを使って、どういう風な主張をなさったのかは、どうか、番組をご覧になってください。・・・・・と、一旦は、言っておくが、次の節で、そのネタバレをしてしまおう。もう、再放送も終わったことだし。

 私は、キーワードを把握できると、突然に、水沢先生が、どれほど、エゴンシーレを好きなのか? 28歳で、早世したことを、どれほど、残念に思っておられるかが、理解できました。長時間かけて、努力をしたのは、良かったのです。

エゴンシーレは、ウクライナに住んでいたわけではないけれど、ウクライナの、人々が、極限状態に置かれている今、先生の解釈はなるほどと思わさせられ、余韻は深いです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#8)、さて、この、日曜美術館エゴンシーレ篇・録画版を、主人が、見ているのを家事をしながら、隣で、ザクッと聞いていたのです。この番組が、私いじめの、威圧用番組、で、ある(あと注1で、それは、説明をしてあります)とは、わかっているので、その、ラフ視聴で、終わっても、いいから、・・・もう、削除しようかなあ・・・と、一旦は、思いました。

 しかし、それでは、自分の敗北に、輪をかけることに成ってしまいます。水沢勉氏を、NHK・カメラが大きく、とらえ、画面いっぱいに氏が浮かんで、伊藤玄二郎や、いまだ生きている井上ひさし、そして、ご近所人間の、大原光孝さんから

 「どうだ。お前、捨てられた

(しかし、恋愛ではないのですよ。実家がご近所だった縁での、知遇です・・・・・ただ、ただ、政治上の理由で、捨てられています。ただし、非公開のメルマガに対して、一時期、大変いいコメントをいただいています。それは、感謝至極だから、別れたことは、むろん残念です。・・・・・

     ことを、今でも、悲しく思っているだろう」と、

     問われているのを、ひしひしと感じるからこそ、ここで、録画を削除してはいけないと、感じました。で、覚悟を決めて、視聴しようと思い、10日の深夜、一人で、丁寧に聞いたのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~

#9)・・・

 すると、驚いたことに、キーワードが、聞き取れないのです。朝ドラ【おちょやん】で、杉咲花のセリフが、聞こえないという操作をされました。また、服部百音がフル・シンフォニーと共演した時も彼女のバイオリンの部分だけが、聞こえない・・・・・という操作もされました。

 私は、10日の深夜は室内に一人だけなので、どんなふうにテレビを操作してもいいので、その部分、2~3分を、五回は、繰り返しました。一回の、フレーズの中に、三回出てくるので、五階巻き戻したので、15回聞きなおして、やっと、それが、桝目どりと、言うキーワードだったと、わかりました。

 その時に水沢氏の体が、TV画面の三分の二を占めていることに気が付きました。

 ところがね全然聞こえないのは、私側の事情かもしれないのです。

 我が家ではテレビに属するスピーカを2種類つまり4個も買ってあり、聞こえないボリュームを上げてあります。ただしテレビ側のアウトプット口が1つしかないので、スピーカーは、一組だけをつけてあります。つまり、二個つけてあります。

 また、テレビ本体のボリュームも上げてあるし、スピーカーのボリュームをも、上げてあるのに、このキーワードが聞こえない。

 だから水沢氏の、話の、意味がさっぱりわからないし、主張の主要なポイントがわからない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#10)、酒井忠康氏がねえ。ひどいことをしていてね・・・・・・

これは、私の方が難聴であるということも関係しているでしょう。80です。で、難聴が始まってるんですね。でね、それを防衛するために大きな病院に行って自分の耳の聞こえ方を診察していただいて、その数値をきちんと使って私専用の補聴器を作ってくれる会社の方に、三か月ぐらいかけて作ってもらい、

 それを33日の金曜日に、受け取っているのです。ところが4日、または、5日に盗まれています。

 今ね。こちらの盗難については、語りたくないです。カトレアビルの管理人(多分ビルのオーナーです)が関与してきた、角コネクターの盗難について、語りたいのです。

 しかし、エゴンシーレ篇が、再放送をされるので、つい、この、一文を書きました。

  ただね、2005年には、すでに、去っていたであろう、水沢氏との別離が、もしなかったら、あきやま祐徳太子に、攻撃されることもなく

 したがって、山口みつ子さんが、殺されることもなかったでしょう。

 だから、水沢氏が、去ることが、私にとって、超不利になることと、同義です。が、その采配をしているのが、水沢氏にとって、職場の上司である、酒井忠康氏でしょうから、どうにも、差し止めができないことだったのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#11)、 私に対しては、一般人が、まだ、知らない最高技術が用いられる。桜田門の大型画面に液晶画面があり、そこに、サーモス多っと画像が、送られていて私が、家の中のどこにいるかが、CIAの家来としての警察には把握をされている。

 これは、平木さんの天井灯の、点灯との関係で、はっきりと、わかったポイントだった。技術的なこと他、詳細は、ここでは、語らないが、

 桝目どりと、言う術語がわからないために、テレビから、50㎝のところで、15分以上を過ごしたことが、敵方に把握をされて、誤解を受けるといやだなあと、考えた。

 五回とは、どういうことかというと、テレビから、50cmのところに立って、買ってなかったほどの、大きな画像で、映し出されている、水沢氏を凝視しているので、それほどに、恋い慕っていると、誤解を受けることをだ。

 それで、私は、10日の深夜、という事は、11日の早朝に、水沢氏の学説を、短い文章で、このパソコンに入れ込んだ。それをハッキングしている連中は、私が、それを使った文章を書く筈だと、見て、本日、12日は、猛烈な攻撃を受けた。

 つまり、私が、美術上の理解が深い・・・・・とても、深い・・・・・という事が、一般読者の目に触れることを避けたいのだった。

 エゴン・シーレなんて、全世界の、人が、共通して、大切に使う宝物なのに、「お前には、それに触れさせないのだ」と、言っている、いまだ生きている井上ひさしの姿が、目に浮かぶよう出会う。 で、#12の節で、それを開示させていただきたい。もう、二回ものTV放映が住んでいるので、許されると、勝手に判断をしておこう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#12)

カール・グリュンヴァルト肖像・・・・戦時中に、も、絵が描ける様に手配をしてくれたとか、クルマウ風景(町と河)1916年には、

 最初期の作品とは、異なった画風を感じさせる・・・・・

 ・・・・・戦争が始まった。すると生活は、とても限られたものとなる。

で、限られているからこそ、完成させたいと願うようになった。で、風景画を描く場合にも

 桝目どりをして、構図を整える。いる。それは、彼の、若い時にはなかったことである。

クリムトに言わせると才能がありすぎるほどのシーレなので、デッサン力も高くて、桝目どりなど、必要がない・・・・・そういう画風で、風景を書いていた。しかし、戦争が起きて、

一種のルネッサンス絵画風、古典の技術を採用する。・・・・・そういう風に変化をしてくる。

 戦争が終わった。で、一枚一枚をとても大切にして、完成度の高いものを目指した。それが、ある意味で、古典的な、落ち着いた画風への、探求につながる。その矢先死ぬ。スペイン風邪で。

 縞模様の服を着た エディット・シーレの肖像・・・・・これを水沢氏は、最高傑作だという。

水沢氏は、エゴンシーレの死について、自分の感情をみせない。語らない。だけど、だからこそ、画面を見ている人間には、水沢氏の悲しみが、深く、深く、伝わってくる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

後注1,

日曜美術館エゴンシーレ篇に、水沢勉氏が登場したので、その夜、私は不思議な夢を見た

2023-03-07 12:29:09 | 政治

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 清川病院院長は22-9-26に、カ... | トップ | 今、新しいものを書き始めた... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

文化、芸術、書物」カテゴリの最新記事