銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

武蔵小杉駅開通と、不動産の価値ーーー改稿後

2010-03-15 02:19:42 | Weblog
 横須賀線内に武蔵小杉駅が開通しました。今、とおりぬけたところです。ホームというか駅そのものが円形にカーブしているところに設定されているので、電車が傾いて止まります。
ところで、武蔵小杉という街は、40ねん前までは、非常に静かなところでした。商店街はとなりの元住吉と、新丸子が発達をしていて、駅は東横線、南武線ともにシンプルなもの。
 ただ、東横線のひがし側に大きなスペースの工場があって、そちらが、土地を売却し、その跡地に、高層マンションが数棟建ちました。で、人口が急増したらしい街です。これから、第二の町田になるかどうか? いまのところ、連絡は不便な模様です。

 で、この文章は前の日の赤瀬川関連分とまったく途切れているように見えますが、私の頭脳の中では関連していて、その部分には後段で入るとして、新駅と不動産価値のことについて、まずお話しをしたいと感じます。武蔵小杉の近辺が、急に値上がりするとも思えませんが、東戸塚駅が開通したときは、周辺は一気に値上がりをしたと思いますし、近々開通すると予測されている、東海道線の村岡駅(藤沢と大船の間)は周辺の地価を上げるだろうと、大いに予測をされています。

 ところで、この武蔵小杉駅の新設と新宿ラインの設定そのものが、東横線との競合が真因であると、ある人が言っていました。お客を奪われて、収入が少なくなることを恐れたJR東日本が急遽、開設した路線であると。『ふーん』と感心しますが、東横線が、延伸して相互乗り入れで、池袋の先まで続くらしいのです。それに対抗すると言う目的です。
 JR東日本は、この土地にもともとの貨物用の線路を持っていたので、軽く開設することができました。今はトラック輸送が発達したので、貨物列車といえば、石油のタンクローリーが走っているぐらいに思えますしね。うまい転進です。

 JR東日本は商売上手というかなりふりかまわないと言うか、昔の国鉄時代を思えば隔世の感があります。駅中商店街の開設など、既存の商店街を寂れさせる原因になっていると思いますが、(たとえば東京駅では八重洲地下街がさびれ始めている)、ホテルをはじめ、ルミネの運営等、あたるを幸いなぎ倒すという感じです。

 ただし、ここで、苦言を呈したいのですが、サービスが落ちている。しょっちゅう、トラブルが起きている。よく遅延します。それと、商売に走りすぎていて、顧客を、悲しませる将来が起因するのではないかと考える、ポイントもあります。

 車内の中吊りとして、しょっちゅう『安中榛名』のリゾート地売却のポスターが出ています。今日初めて、ホーム頁に入りましたが、118坪に、33坪の家がすでに建っている形の物件が、2900万円だそうです。

 一見すると、安く見えます。だけど、ディヴェロッパーとしては、十分に利益を上げているはずですから、もともとの土地はべらぼうに安く手に入れたところでしょう。問題は買った人の将来がどうなるかです。都会のマンションに住んでいる人が、『ああ、すばらしい自然が手に入る』と、夢を持って買ったとしても、土地が118坪で、平地ですと、隣はすぐそばとなります。一方向に窓が、整列されているマンションより、隣の家の窓が近いので、予測したほど、プライヴァシーの確保はできないと感じます。

 今、一番お金を持っているであろう、大企業を、部課長クラスで退職した年齢層を狙った金儲けの一種ですから、安易に人が乗って、退職金をはたいてしまって、そのあとで『ああ、都会のほうがよかったなあ』と思わなければよいが・・・・・・と心配します。
 安中榛名から都会に出るのは、交通費が掛かります。高いでしょう。簡単に都会へは、出られません。しかも隣に気に食わないタイプが引っ越してきたらどうします。いったん変えてしまった生活は、なかなか元へは戻せません。夢のような自然生活をまん喫するためには、一軒が、最低でも、500坪は無いと駄目です。それを見つけるためには、大規模開発に頼ってはだめです。

 私が60年近く前の大昔、船橋市の塚田というところに住んでいたころは、自分の家が300坪あって、しかも東、南、西は、田・畑・林の自然ばかりで、トトロの世界そのままでした。ただ一軒ある地境を接するお隣さんは、700坪の敷地を持っていました。東に畑や林を挟んで200メートル離れたところには、1000坪の敷地のあるお屋敷がありました。すべて、江戸時代以来の東京人が、戦時中の疎開地として開拓した住居だったのです。それを、二代目として戦後買ったのでした。今ではそこは、駅に3分という近さなので、まるで、にぎやかに成ってしまったという話です。私は10歳のときにそこから、日吉の東急の分譲地に引っ越してきて、お隣を近く感じるのに参ったのです。ひな壇で南側に家がないのに、人目を感じて窮屈で仕方がなかったのです。だから、真実の田舎暮らしをしようと思ったら、自分で探した、安い、しかも広い500坪ぐらいの土地がないとだめです。安中榛名みたいな、画一的な大規模開発地では、無理でしょう。

 その船橋市塚田の土地も、父が、一人で、こつこつ歩いて見つけたもののようです。今はパソコンの世界が発達したので掘り出し物を見つけるのが、かえって困難になったかもしれませんが、夢のような自然志向の暮らしを手に入れるためには、情報研究が大切です。時間と手間と努力を掛けて、お一人で、適宜な物件を、お見つけになるのをお勧めします。JR東日本の『安中榛名』の宣伝には、いつも、懸念を抱きます。ポスターのキャッチコピーが「おじいちゃんのうちって、素敵だね」となっていたので、特に、以上のような老婆心を、発揮しました。
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 土地って、今でも一番資産価値のあるものだと感じます。前報で述べた例の、赤瀬川さんの太陽特集号に、日傘雅水さんのオフィスの写真が載っています。白いカーテンが風に揺れ、日の光が燦燦と差し込む素敵な部屋でした。マンションではなくて、普通のオタクが開発したアパートを事務所にしておられたのです。しかし、場所がいい。表参道ヒルズの裏手当たりの、神宮前。抜群の環境の場所にありました。

 近所に好きな画廊もあり、日傘さんのオフィスを訪ねるのは、わくわくするような楽しみだったのです。とおりひとつ隔てて、区画の広さに差があり、(それは、開発された年度で違うのでしょう)より表参道に近い部分は、敷地が、各戸150坪以上はあるのか、ともかく瀟洒なマンションに建て替えられていて、しかも回りは静かです。

 こういう土地を戦前に手に入れた人たちは、東京の生まれ、または、地方の生まれを問わず、ラッキーでしたね。ところで、このあたりで、原稿用紙換算8枚を超えましたので、いったん、きりますが、この件は、「党のトップが不動産を買い占めるとき」に、続きます。
   2010年3月14日、21:30分これを書く、送るのは後で、雨宮舜
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