本日も、総タイトルを何回も変えています。二回目のものが、『図書館猫デューイ』-2、ボーヴォワールより上かもしれない著者ヴィッキーマイロン』であって、それが、一番全体を表現していると思います。が、主人が、ホンを出したので、それを、前面に押し出した、タイトルを最終的につけました。
外出後、帰宅して、今、夜の11時になりました。推敲が終わりましたし、その1時間後に二回目の推敲もしましたので、タイトルの右横に、恒例の△印を二つ付けておきます。どうか、よろしく。
副題1、『私の勘の鋭さに、またもや驚く。NHKが放映するのに、平行して、私はデューイを取り上げていた』
副題2、『NHKクルーを迎えた図書館側、および、スペンサーの町の人々の興奮』
副題3、『ヴィッキーマイロンの動く姿を見て感動をした。背筋のピンと伸びた威風堂々たるインテリ女性だった』
副題4、『女性に役立つという意味で、・・・・・ボーヴォワールより、高い次元の本をヴィッキーは書いた・・・・・と、私は思うが・・・・・』
副題6、『アメリカでは、philosophy と言う言葉は万人のものである』
副題7、『人は誰でも、生涯に、一冊の本を書けるというが、主人が一冊出しました』
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副題1、『私の勘の鋭さに、またもや驚く。NHKが放映するのに、平行して、私はデューイを取り上げていた』
私は、2013年の11月11日は朝の五時に寝ました。皆様には、まだ、公開しておりませんが、ブログの新しいものを書いていたのです。最近はずっと真夜中に書く事となっています。今書いているものが、過度な集中が必要なので、真夜中に書く習慣に変えています。以前は午前中に書いていたのですが、主人が、外の診療所を閉鎖して、ほとんどの、時間、家に居る様になったので、真夜中の方が集中できるようになったのです。
それで、五時間後におきて、午前10時から朝食をとろうとして、『ながら視聴で、録画した番組をみてみましょう』と思い、テレビをつけました。最近では、諜略行為は、NHKニュースに主に現れるので、それは詳細に検討しないといけないからです。
すると、猫の番組をNHKのBSプレミアムが、放映しているので、方向変換をしました。猫好きですから。ニュースよりそれを優先したのです。番組は、タイトルを、決定版「ねこ大百科」といいます。
2、3分みているうちにデジャヴーがあるのに気がつきました。後で、ググると、2009年2月にも放映しているみたいなので、そのときに見たのでしょう。ただ、そのときは、楽しい番組だなあと、思ったぐらいで、それを大切なものとか、特別なものとは考えませんでした。
しかし、今回は違っていました。ちょうど『図書館ねこデューイ』と言う本を読了したばかりで、その本から女性の生き方(前報)、および母性愛の問題について、それぞれ、長い文章(次に公開する予定のもの)を書いています。
読了して、253頁以下に、・・・・・日本からNHKが来てデューイの番組を作ってくれたので、町中の人が大興奮をした・・・・・という記述があるのを知っていました。そして、午前10時10分には、直感的に、これが、その番組だと感じ始め、すぐ、読者の皆様に、お勧めニュースを書き始めました。それが、以下の文章です。
NHKが番組を準備するのは、一週間程度では間に合わず、各情報誌や、新聞に通達をいれるにしても、4週間から2週間前に企画、制作すると予測するので、例のごとく、チャネリングの現象に驚いたのです。あまりにもタイミングよく、猫のデューイに触れている、私の勘の鋭さにも驚いて、私自身も、いささか、興奮気味です。
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緊急のお知らせです。今、11日の午前10時ですが、NHKのBSプレミアムで、猫の特集番組をやっています。午前11時まで続くので、お気づきの方はごらんいただきたく、おせっかいながらお知らせをさせていただきます。
ここに書いてあった部分は、番組が終わってしまうと役に立たない部分なので、削除いたしました。
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副題2、『NHKクルーを迎えた図書館側、および、スペンサーの町の人々の興奮』
そのNHKクルーが取材に来た日について、説明をしている、部分は、この本『図書館猫デューイ』(早川書房2008年刊)の中で、もっともユーモラスな部分であって、しかも日本に、関係しているので、おせっかいながら、字で、起こさせてくださいませ。
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二本のDVDが届けられた。デューイがきてからすでに十六年たっていたので、あまり大げさにしたくなかったが、これは特別なことに思えた。わたしは新聞社に電話した。角の電気店は、大型プロジェクションテレビを貸してくれ、図書館は満員になった。その頃には、デューイはすでに、カナダとニュージーランドのラジオに出演していた。いくつもの国の新聞や雑誌に登場していた。写真は世界の各地で目にした。だが、これはちがった。これは、世界じゅうに放映されるテレビ番組なのだ!
わたしはビデオをこっそりみておいたので、ちょっと不安だった。ドキュメンタリーは世界じゅうの猫をタイトルのアルファベット順に訪ねるものだった。二十六匹の猫がとりあげられ、一匹がアルファベットのひと文字を担当した。そう、ドキュメンタリーは日本で作られたにもかかわらず、タイトルには英語が使われていた。
わたしは観客に説明をした。「このドキュメンタリーには、他にたくさんの猫たちが登場します。デューイは最後のほうに登場し、それ以外は日本で撮影されています。では、決をとりましょう。デューイの部分まで早送りをしますか、それとも最初から見ますか?」
「最初からみます! 最初から!」
十分後、観客は叫んでいた。「早送り! 早送り!」 猫がジャンプする映像と日本語での、インタビューは非常に退屈だったといっておこう。特別に愛らしい猫のときは、停止し、アメリカ人が登場すると停止したーーーーその理由で二度停止したが、一人の女性はイギリス人だと判明したーーーーだが、ほとんどは日本人とそのペットだった。
Wに到達すると、部屋に叫び声があがった。明らかに眠気がふっとんだのだ。そこにはわたしたちのデューイがいた。英語と日本語で「働く猫( Working Cat )と言うキャプションがつけられて。雨のなか、わたしは図書館に歩いていき、ナレーターは、日本語で何かいった。三語しか理解できなかった。「アメリカ、アイオワ、スペンサー」また大歓声。
数秒後にきこえた。「デューイ・リードモア・ブックス」
そしてデューイが登場した。正面ドアのそばにすわっている。(たしかに、尻尾を振っていれば、すてきだっただろう)。
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ここには、私(このブログの著者)が、説明を加えないといけません。デューイは、ヴィッキーがNHKクルー六人と一緒に、最初に、午前7時に図書館を訪れた際には、ドアの前まで迎えに来て、尻尾を振りました。それに驚いたクルーは、その現象の時にはまだ、撮影の準備ができていなかったので、撮影の準備をした後で、何回もそれを再現させようとしました。だが、どんな工夫をしてもデューイは二度と、尻尾を振りませんでした。犬じゃあないので、それは当たり前ですが、ホシさんはもう一回デューイがやると信じていたみたいです。
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続いて書棚にすわるデューイ、二つの書棚をあるいて行くデューイ、すわっている、すわっている、すわっている、そしてテーブルの下で小さな男の子になでてもらっている・・・・・すわっている。1分半でおわった。ひざにデューイをのせた女の子は登場しなかった。肩に乗るデューイもでてこなかった。本のカートも。ニューハンプシャーの家族も。書棚の上を歩いていき、本をかわしながら端から飛び降りるデューイの映像も使わなかった。彼らはただ一分半すわっている映像のために、地球を半周してきたのだ。
沈黙。茫然とした沈黙。
それから、大きな歓声がはじけた。わたしたちのデューイは、国際的なスターだった。これが証拠だった。
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ここで、ブログ著者が、もう一回挿入を入れます。確かに、デューイは他の猫とは違っていました。堂々たる威厳もあったし、なによりも、じっとカメラを見つめる目の賢そうなこと。それは、何事も理解をしている目でした。一日中、自分を追い回すNHKのクルーの要求をすべて理解している目でした。
しかし、彼らが帰った後で、こんこんと寝込んだそうです。かわいそうに、そうでしょう。疲労困憊したはずです。この一年後か、二年後にデューイは死ぬのですから。この時は、腸の病気もあって、すでに、衰弱気味だったのです。でも、みんなの期待にこたえました。この猫は著者ヴィッキーが言うように、確かに特別な猫なのです。そして、大スターでもあります。で、元へ戻ります。スペンサーで、DVDを大型画面で見ている人たちの反応へもどります。
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だからナレーターのいっていることがまったくわからなくても問題ではなかった。デューイに割り当てられた映像がコマーシャル程度の長さしかなくても、問題ではなかった。わたし達の図書館が登場した。司書たちが登場した。わたしたちのデューイが登場した。そしてナレーターは最後にこういった。「アメリカ、アイオワ州、スペンサー」
その日本のドキュメンタリーをスペンサーの町は決して忘れないだろう。おそらくその中身も。図書館には貸し出しできるビデオが二本あったが、誰も二度とみなかった。ドキュメンタリー映画(本の中の子猫)のほうがずっと人気があった。だが、東京からスペンサーにテレビクルーがやってきたという事実、それは決して、忘れられることはないだろう。地元のラジオ局と新聞はどちらも長い特集を組んだ。そして何ヶ月も図書館にやってきた人々は、それについて話題にした。
「クルーはどんなふうだったの?」 「何をしたの?」 「町にいるあいだにどこへいったの?」 「他に何を撮影したの?」 「信じられる?」 「信じられる?」 「信じられる?」
日本のテレビはデューイを頂点に押し上げた。今でも、地元の人間がデューイを話題にすると、決まって「それにあの日本人がここにきたでしょ、スペンサーに。デューイを撮影するために」という会話になった。それ以上、いうべきことはない。
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副題3、『ヴィッキーマイロンの動く姿を見て感動をした。背筋のピンと伸びた威風堂々たるインテリ女性だった』
以前見たときは注目もしなかったヴィッキーが出てきて動く姿を見せてくれたときに、私は感動してほろっときそうでした。彼女はこの本の中で、いわゆるプアホワイトと、日本人が歴史の教科書で習う、自営の小規模農場を営んでいる家庭に生まれました。アメリカにはアフリカンと言う存在があるので、白人であるだけで、中流階級となりますが、プアホワイトは、中流の下の方だとみなされているでしょう。そういう家庭に生まれたのです。だが、その堂々とした姿は、彼女が、修行と訓練により、一流の、人物に、成り上がった(変な表現ですが、お許しくださいませ)ことを示していました。
資産的には、まだ、中流の上の段階でしょうが、他の人に影響を与える力の大きさを考えると、すでに、上流の地位にあります。
彼女は愛について、達意の文章を書いています。だから、もっとふっくらした女性であるような感じを受けていました。だが、長年の、手術(24歳で、子宮全摘、50代で、乳房切除)の影響で、太れないのだと思います。でも、やせすぎとは思いませんでした。
この『図書館ねこデューイ』の本の方の目次はカラー印刷をされていて、そこに、16枚のスナップ写真が載っています。すべて、デューイのものですが、最後の一枚は、ヴィッキーの孫と一緒に写っているものです。孫は1歳から2歳のあいだでしょう。よちよち歩きの段階で、ねことほとんど同じくらいの体格です。とてもかわいいです。ふつう猫は赤ちゃんとか幼児を嫌がります。思いがけないやり方で、つまんだり、ぶったりするからです。でも、デューイは図書館に来る赤チャンを嫌がりませんし、老境に達して、しんどいだろうに、ヴィッキーの孫が、いじってくるのを嫌がりません。深い愛情を示すのです。
その写真を見た後で、本文をあわせ読むと、ヴィッキーが、自分の努力と、人生の岐路、岐路で、正しい選択をした結果、大きな勝利を収めたことが、自然に納得をされます。しかし、日本のふつうの人々がヴィッキーマイロンの名前を知っていますか?
たとえば、シモーヌ・ド・ボーヴォワールを、知っているように、知っているでしょうか?
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副題4、『女性に役立つという意味で、・・・・・ボーヴォワールより、高い次元の本をヴィッキーは書いた・・・・・と、私は思うが・・・・・』
ヴィッキー・マイロンが、まだ、有名ではないのは、インテリ固有の俗物主義に、世界、または、日本の文化界が毒されているからでしょう。それもあるが、ヴィッキー自身の健やかな庶民性と、健全性も影響をしているのです。彼女は肉体を医療で、散々に傷つけられて、そういう意味では不健康になっています。いつも、不調を訴えがちです。だが、精神は、すこぶる健康で健全です。
アメリカは大資本家が居る国です。私は、アメリカナイズをしている国際キリスト教大学を卒業しているし、実際にニューヨークで、長時間にわたり、版画家達と、一緒に仕事をして、よくわかっていますが、上昇し、成功することが大切な国です。
日本でも最近、勝ち組、負け組みと言う言葉が横行しています。ヴィッキーは身を挺して負け組みから脱出して、勝ち組になったのですが、
人間のあり方の理想として、彼女が提言しているものは、少し違うのですね。
この本のあっちこっちに、それが書いてあるので、見つけるのが容易ではないので、私の言葉で語りますが、ふつうの生活をふつうに行っている人々の大切さと、気持ちよさと、すばらしさを説いているのです。
スペンサーはアメリカとしては、田舎町の方です。人口は三万人程度です。そこに生きているふつうの人が好ましいということを書いているのです。反対側に居る存在として、テレビに映る人々の事も書いています。
ヴィッキーが、先ほどの番組で、デューイと同じぐらいの長さで、映りました。一分半です。だけど、一回目にみたときには、何も気がつかなかったように、彼女は、自分を前面に出すような人ではなかったのです。堂々たるインテリですが、それをきっかけにしてビッグになろうと考えるような人ではありませんでした。
242頁から始まる三節など、そういう彼女の哲学を見事に語っている部分です。字起こしをしたいのですが、他人の文章をキー打ちするのは、自分で書くよりも五倍以上の時間がかかるので、ここはスキップをさせてくださいませ。
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副題6、『アメリカでは、philosophy と言う言葉は万人のものである』
私が若い頃は、フランスの二人のシモーヌと言う女性哲学者、が、超有名な存在でした。1960年代に、私はハードカバーで、二人の本を読んでいます。でも、いまだに覚えていることは、『シモーヌ・ヴェイユが、自分に似ている』ということと、『ボーヴォワールって、とてもかわいそうな人だなあ』と言うことだけなのです。(笑い)
私は自分が、シモーヌ・ヴェイユみたいに悲惨な若死にをしたら、大変だと思って、親の勧めるままに結婚を急いだのでした。似ているからこそ、急遽、ふつうの人間の方へ舵取りをしたのでした。それから、ボーヴォワールの方に関しては、自分の容貌やら、家柄についての自信もないので、彼女の様に生きるのは論外です。彼女は苗字に、ドが入っているので、相当に家柄がよさそうだし、お顔もきれいだし、上品ですらっとしていて、背も高いですものね。だから、サルトルは彼女を手放さず、しかも、自分がいろいろな女性とベッドインをしたいので、入籍しない結婚・・・・と言う斬新な、しかし、女性にとっては残酷な形式を選んだのでした。
実際の事を言って、ふつうではない、人間であるらしい私は、晩年の父に、「ふつうに生きることが大切なのだよ。そして、難しいのだよ」と、さとされ続けてきました。71歳になって、やっとそういう方向(=ふつうの人)へ向かいつつあります。
そういう私にとって、ヴィッキーマイロンの書いた言葉の数々は、哲学的啓示を与えてくれるものでした。「今の自分は、迷いがない。これで、いいんだ」と、常に言っていますが、『人は、誰でも、その持ち場で最善を尽くせばいい』のです。それでこそ、布団の上で大往生をできるというものです。死ぬときに、あれを悔やむ、これを悔やむということがない形で、死ねるでしょう。
私は、この本、『図書館猫デューイ』を、電車の行き返りのホンの、慰みモノとして、読むつもりで買いました。だが、値段を、読了後に、初めて見てびっくり。ブックオフで、買ったのですが、売価が、850円でした。今、秋葉原のブックオフでは、ハードカバーをたくさん、105円で売っています。その次のランクが350円です。850円とは、秋葉原には置いてない値段かもしれません。
秋葉原のブックオフは、パソコン修理の帰りによるのに、適切で、よく寄るのですが、私が好むタイプのホンが少ないです。若い男性で、会社勤めの人向けの本が多いです。
で、これは、横浜駅西口にあるブックオフで買いました。ブックオフで、ホンを買う場合は、一冊ずつの、値段など、気にしないで買います。ただ、重さだけは問題で、あまり重いと自宅近辺の石段がきつくなるので、六、七冊でとどめ、全体で、三から四千円払います。でも、850円とは! たぶん、今まで買ったブックオフ書物の中で、最高値段でしょう。そして、十分にその価値はありました。
私がこの本と、その著者に特に魅了されたのは、哲学とは、アメリカでは誰もが、自分自身のものとすべきものだと考えられていて、まさしく、それを具現しているホンと著者だからでした。
私がこのブログで狙っているテーマも、大体同じなのです。ただ、カテゴリーを、哲学とすると、それは、あまりに口幅ったいでしょう。(笑い) 特に日本では、哲学が、庶民からは遠いものだとみなされていますからね。だから、一応は政治としています。でも、本当に追求したいのは哲学の問題です。
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副題7、『人は誰でも、生涯に、一冊の本を書けるというが、主人が一冊出しました』
私がこのような傾向を持っているのは、父の姿を見ているからです。父は考えることが大好きで、それを、お客として来た親戚の若い男性達に、語り続けていました。
『今なら、父の思考を一冊の本に、私がまとめてあげられるのに、そして、出版をしてあげられるのに』と思いますが、父がパーキンソン氏病を患い、それが、原因で転んで脳挫傷も患った後では、父はもちろん手稿をなすこともできず、何もデータが残っていないので、その思いを、キー打ちしてあげることもできません。目で活字を拾って、パソコンで意思を伝えられる装置が、父が寝たきりになった1980年当時にあったら、よかったのでしょうが、30年前には、そういう装置は、なかったのです。もし、あったとしても、庶民には手が届かない値段だったでしょう。
『人は誰でも、生涯に、一冊の本を書く事はできる』と、聞いたことがあります。父の本も、母の本も作ってあげていませんが、主人が本を出すことができました。71歳ですから、ようやっと間に合ったという形です。
私は、自分の本を6種類作っていますが、それは、苦闘につぐ苦闘として、作り上げました。ところが、これも、裏があったのかもしれませんが、文芸社と言うところから、主人に、お誘いが来て、相当スムーズに、楽に、彼は出版をすることができました。
無論、自分でもお金を出していますが、妥当なお値段だろうと、感じる程度です。装丁は地味ですが、表紙は、主人が自分が描いた絵を用いています。竹の子がたくさんの根を張っている絵です。生命力の象徴だとのことです。
主に健康の側面から人生や、社会について、哲学的考察を展開している本で、今のところ、知人に配っている段階ですが、好評です。鎌倉で、10年間鍼灸医をした結果としての患者さんたち、日産自動車の研究所時代の、同僚達、それから大学時代や、高校時代の学友達に、送付している段階ですが、好評です。お世辞ではないと思います。
私の本は全国展開をしていないので、鎌倉市雪ノ下2-3-7へ、お申し込みをいただければ、献呈をいたしますが、主人の本は、本屋で売っています。文芸社出版で、11月1日から展開をはじめ、1200円の売価です。
自分のところには、10月1日から、手に入り、『宣伝をしてくれ』と、いわれていますが、いつもえぐい、えぐい、文章を、この世界で、書いていますので、迷惑かもしれないと思っていて、宣伝を、今まで、ここでは、いたしませんでした。だけど、たまたま本日は、町の哲学者と言うポイントで、文章をまとめましたので、これは、好機かなと思って、語らせていただいています。
ヴィッキーマイロンもそうですが、主人も、市井の哲学者です。庶民の言葉で語っていますが、相当に、深遠なことを語っています。
私と主人の結びつきは、彼の方が放つジョークを、私がぴーんと即決で、理解できることと、その、『町の哲学者として、お互いに話が合うかな』という部分でしょう。彼の考え方を、私の方が、内心で、尊敬していると言っていいか、なんと言っていいか、いわく言いがたいのですが・・・・・
まあ、『彼は、昔から、健康で、さわやかな考え方をしている。それは、信じていた』と思っております。
このブログの読者の中には、ご自分の著訳書がたくさんある方も多いでしょう。特に私費出版の会社として知られている文芸社などで、出版したというと、「フン」と、鼻でせせら笑われる方もあるやとも、思います。が、ここは、オンリーワンで、行くつもりです。人は誰でも尊いのですよ。人は誰でも、自分の最善を尽くして生きていけばいいのです。
なお、このブログの、2010年度より数えはじめた、伸べ訪問回数は、1880618です。
2013年11月11日 雨宮舜 (本名、 川崎 千恵子)