銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

井口基成、中勘助、宮沢賢治*****提婆達多は、中勘助の実生活に何らかの嘘やずるさが有ったとしても、作品として傑作です

2023-10-01 19:07:47 | 政治

今は3日の午前4時ですが、以下の文章の誤変換直しを終わりました。ところで、私の場合、悪意あるハッカーが居て、多数の誤変換が生じます。24時間以上間違ったままにしておいて、すみません。特に重要な間違いは、赤とか蒼で、訂正をしておきます。加筆部分は紫色のフォントで表します。いつものことですが、初稿の二倍以上になっています。

 この章ですが、総タイトルは、本当は、以下の様に、表現したいと思っています。ただ、字数制限があるので、短くしただけです。

 井口基成と、中勘助は、その生活の中での、性愛の表現がなんと違う事だろう。二人共天才であるのは確かだけれど。

 ところで、文学を通じて、仏教の伝道者たることを目指した中勘助と、宮沢賢治の違いについても言及したい。

 中勘助は、・・・・・彼に、一種のずるさ(日記体随筆という形で、私小説だと、そこまで書かないといけない都合の悪い部分を伏せている‥・・・富岡多恵子が、そう、分析しているのだが、私も提婆達多以外の中勘助の小説・・・・と今まで信じていたが、違うらしい・・・・は、好きではない。昔から好きではないのだ)があり、意外にも人間として、尊敬が出来ないとなったとしても、それでも提婆達多は傑作です。彼はものすごい美形で、知的で美しい女性たちに、もてて持てたらしいのですが、すべてさりげなく、退けています。江木万世(ませと読む)未亡人など、どんなにいらいらした事でしょう。

 なお、提婆達多と同じ系列に、犬という(これは、純粋に小説です)があり、それが、すごいものらしいのです。読んでいるうちに股間が濡れに濡れという小説らしいのです。ものすごい数(4千字以上)の伏字がある、そういう形で、最初、出版されたのに、岩波書店の雑誌【思想】が発禁になったそうです。岩波雄が、警察に陳謝したので、二人とも、罪科は、受けなかったのですが、いわゆる政治的問題ではなくて、発禁になったのはチャタレー夫人より前であり、富岡多恵子が解説している部分だけを読んでも、ぞっとするほどに深い魅力を持って居る小説の様ですよ。ビダラ法という、インド仏教書に伝わっている強烈な呪いの手法が手に入ったたことが、書くことの促進をさせてくれたそうです。ぞくっとするのは、醜い老僧と、彼が手籠めにする若い女性との、セックス(ともに犬になってね)の部分らしいです。です。女性が真実慕っている若い男性をビダラ法を使って、呪い殺すとかね。それは、すごいものらしいのですが、私は、まだ読んでおりません。

 14歳の時に学校の図書室で、借りた日本文学全集(筑摩刊)にはいっていたとしても、最初の部分だけで、嫌悪感一杯になって読みやめたのでしょう。でも、81歳の今は、読んでみたいです。

 という挿入を、2023ー10-2の早朝3:00AMに入れて、初稿の冒頭に入ります。

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これは、何本か前の章

河野多恵子は富岡多恵子が伸してくるのを密かに嫌っていた。それが判るのは私が美術界で、嫉妬され続けて来たからだった。渡辺幸子、栗田玲子、平野和子、酒井忠康     2023-09-21 22:42:59 | 心理学

の、続きの、一分枝となります。そして、25日の深夜に書き始めているのですが、日付を、10月1日に変えます。前報とは、直接関係がない文章ですが、本日は、これを発表したいのです。

 上のリンク先ですが、それを展開するとなると、別の分枝として、酒井忠康氏(神奈川県立近代美術館元館長、世田谷美術家現・?・館長、と、渡辺幸子さん(2023年9月20日現在、新制作、協友=ICU・1954年入学者、最初期のJALスチュワーデス)、栗田玲子さん(元ガレリアグラフィカオーナー。教育大学卒)、平野和子さん(元ギャラリーbeaux オーナー、元JAL・グランド・ホステス)などが徒党を組んで行ったすさまじいいじめ行為に繋がっていきます。それは、本当に、更なる悪辣な続きというものですが、その前半の初稿を書いた、21日の夜は、体力が尽きたので、そちらの方向には進まず、穏やかで、軽い方向へ進んでいます。軽いとは、超有名人について書くことでありました。超有名人について書くことは、読者様の知識としての前提条件が、あるので、楽なのです。多数のメディアで公開されているので、書きやすいのです。酒井氏などについて書かなかったのは、その夜に、午前二時になり、難しいものを書く体力が残っていないと判断をしたからです。

  で、副題4までが、上の章の中に含まれています。

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副題5、『【鍵盤の天皇】中央公論新社・・・・・それは、我が家から盗まれているのだけれど、幸い鎌倉の市立図書館に、保有をされていた』

 井口基成とその一族の一生を描いた、【鍵盤の天皇】は、去年から少しずつ読んでいたのですが、盗まれてしまいました。これを、盗んだのは、上の男(副題1~4までに出て来る)=ご近所様の一人だと思うのですが、盗んだときの実際の映像を見ていないので、誣告罪を恐れて、単純に、プロの画家とだけ言っておきます。実名をさらしません)かもしれません。だって、保田春彦先生(故人・武蔵野美大教授)の本とか、柄沢斉・・・・・・(木口版画制作の有名人、上の男を自宅に招いて、弟子として扱って来た。卒業大学が同じで、柄沢斉の方が年下なのだけれど、柄沢斉が、酒井忠康氏からのいじめの伝達者として、機能する為であろう)・・・・・の、箱にエンボスの入った、美しい版画集とかも、盗まれていますからね。泥棒のうちに美術関係者が居るのは確かなのです。そのプロの画家というのは、平木伸明さんよりも深く、その忌まわしさが、私の頭脳を占めているのですが、彼の行動は、秘密裏に遂行されているので、なかなか書きにくくて、それよりも、まず、表面に出て来ている平木伸明さんを分析するシリーズが先だと思っています。それが、終わったら、取り組みましょう。

 こちらの本【鍵盤の天皇】の面白さというのは、登場人物に私の興味があるという点です。井口愛子の、弟子が野島稔で、その弟子が、(この本には、時代が違うので、出てこないでしょうが)、藤田真央です。そのほか、本当に多数の音楽家が出てきます。まあ、それが、「へえー。そういう事もあったのだ」と、わかって、楽しいです。

 非常に多くの人とかかわった、井口基成、秋子、愛子一族の、物語はバックステージ物としても面白いし、ある種の天才に、触れる喜びもあります。

 演奏家は、作曲家と違って、天才と呼ばれることが少ないのですが、井口基成は、演奏家として、真実天才だったらしい。そして、精力絶倫の人です。愛子夫人との間に、9人かな? 次の奥様との間に、2,3人お子さんが生まれたでしょう。失礼な言い方ですが、精子と卵子の結合する愛という意味での、精力絶倫の人です。つまり、ペニスとワギナの連携するという意味での、愛の実行者であり、精力絶倫の人だったのです。それが、大量の弟子を育て、演奏家としても一流であり、桐朋学園を育てていく力になっています。鍵盤の天皇とは、言い得て妙でしょう。

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副題6、『さて、全く異なった生活を送った、天才が、中勘助です。仏教的求道者だと、思っていたが、これまた、大違い。濃密な恋愛を22歳年下の子さんとの間に、結んでいた人でした。しかし、子さんとの間は、一般的な言葉でいうと、プラトニックラブです。ただ、普通小説家が、プラトニックラブを表現する際には、同年齢、同世代、または、年上の女性を相手に、恋に陥り、結婚が出来ないという設定に悩むのですが、中勘助の場合は、友人の娘に、深い深い愛恋≒哀憐の、気持ちを抱いたのです。

 なお、そのお嬢様の、小さいころの写真が、白黒jpegで、創元社版内にも出てきますが、平凡社刊の再版本では、表紙になっています。最初はお人形さんだと思い、なぜ、このお人形が使われるのかと、疑問を持って居ましたが、富岡多恵子の【中勘助の恋】を、読んで、正しく、理解が出来ました。

スマホで、パソコンから、撮ろうと思っても、うまく、お顔が映っていません。で、アマゾンで、【中勘助の恋】を、探してください。平凡社ライブラリーの、再刊本が出てきます。その表紙が幼いころの妙子さんの、写真に、カラーを入れたものです。妙子さんの祖父は、新橋の写真館を経営していたそうなので、そこで、撮影をされたものでしょう。

 本文を読んでいくと、初版本で、表紙には、どうして、この写真が使われておらず、再刊本では、この写真が使用されたかは、私には推察されてきます。時代の変遷と、1941年に早世した妙子さんの死後、60年の時が経ており、中勘助の著名度と、評価が彼の死後、再刊時には、さらに高くなったことが、遠因としてあると思います。

:::::::::なお挿入の挿入となりますが、江木妙子さんの母上、万世(ませ)夫人は、これまた、美女という評判の高い人で、鏑木清方が、築地明石町のモデルとして使ったと、あります。

 ところで、富岡多恵子著の、【中勘助の恋】に、登場する男どもは、すべて、東京帝大卒で、登場する女性陣は、お茶大付属高校卒というエリート集団です。私ね、自分はお茶大付属高校卒で、今の野村萬斎氏の祖父ぎみのご仲介で、東大卒の方、二人とお見合いをしています。今の主人とキスもしていない段階で、東大卒の方と、二組お見合いをしたのです。主人からは、何も申し込まれていませんでした。だが、ね、自分自身、東大卒の人との生活が向いていないと、思い込んでいたのです。だが、今になってみるとまずったかなあ? と思っています。平凡に、現実的なエリート志向という、方向で、欲望優先にしていたら、中勘助の世界に、より近く入り込めたかもしれませんね。後の祭りというやつですが。(苦笑)

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 さて、中勘助自身に戻ります。私は、筑摩書房の日本文学全集(黄色い表紙)で提婆達多を、14歳で、読んでいます。それ以降、銀の匙には、感銘を受けず、ずっと、中勘助から、離れていて、今、急に富岡多恵子の、【中勘助の恋】を読んで、仰天をしているところです。

 中勘助は、江木妙子との、濃密な濃密な愛恋の世界に浸っていた人生でした。尚、中、勘助は、恋愛と、言う言葉ではなくて、愛恋という言葉を使っています。自分の妙子に対する愛情は、一種独特のものだと、考えて居たので、違う言葉を使ったのでしょう。

 ただし、中勘助と、妙子の間には、ペニスとワギナの、結合は、無いはずです。でも、いっせつによると、兄嫁との間にあったのではないかという話もありますけれど、それ以外は、無いでしょう。?!?!?

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副題7、『提婆達多を、中学生の時=14歳で、読んで、良かったなあと、思っている私である』

 中勘助は、57歳で、結婚はしているが、それ以前は、しょっちゅう住まいを変えます。その結婚は、恋愛によるものではなくて、ひとえに必要性に迫られた結婚でした。14歳年上の兄が、循環器系の病で、倒れ、ずっと、介護が必要でした。兄嫁が、亡くなって、そちらの夫婦の間にお子さんが居ないので、自分一人で、兄を介護することになり、それが無理だと思って、妻を迎えたのです。これから、読んでいきますが、その妻は、小説にはほとんど登場しない女性で、愛の対象ではないと、みなされます。

 中勘助は、兄嫁に、兄を託して、自分は、放浪の生活を送っています。と言っても今の様にネットカフェで、寝るとか、ビジネスホテルを渡り歩くと言う形ではなくて、各地の、お寺に、仮寓をして、20年前までの、・・・・・・流行作家が、出版社から、命令をされて、山の上ホテルに缶詰めで、書く・・・・・・という風な形態に、別に締め切りが無くても、自分を追い込んで、小説を書いて居ます。

 非常に静かな音のない生活を過ごした人です。

 富岡多恵子によると、中勘助の小説【提婆達多】における、主題は、生殖の罪であろうと言う事になります。引き続いて、書かれた【犬】にも、同じ主題が、犬になった主人公と、主人公が、支配する、女性(同じく犬になっている)との性欲の描写を、含んで、生殖の罪を追っているのだそうです。ここらあたりは、犬をまだ読んでいないし、提婆達多は、中学生の時に読んでいるので、私には何とも判断をしかねる部分です。

 さて、私が提婆達多を読んだのは、中学生の時です。だからセックスの描写も、さらっと、読み飛ばしたほどです。その上、1993年の富岡多恵子の書物が、出版される40年近く前でしたから、彼女が言うところの、生殖の罪とは、何を指すのか、当時は、全く、わかりませんでした。セックスという側面に、一切の知識がなかったころだったからです。今もそこは、はっきりせず、もう一度読み直してみる必要があると思います。

 それでも、この小説が、ものすごくスケールの大きなものだと、言う事はわかりました。

 そして、私がそのころ、つかんだ、この小説の主題とは、「この世には乗り越えられない壁というものがあるのだ」と言う事でした。小説は、原始仏教の時代のインドを舞台として物語が展開します。仏教の世界だから、静かな世界ですか?と問われれば、「とんでもない。火炎のごとく激しく、嵐のごとく、心揺さぶられる小説だ」と言いましょう。

 今から、65年は前の読書体験だから、結末を覚えておりません。だけど、涙滂沱だったと思います。

 たぶん、シッタルダ(いとこでもあるお釈迦様)が、死ぬのです。それで、とうとう、提婆達多は、あれほど、望んでいた事。イコール、シッタルダを超えることが・・・・出来なかったのです。しかしシッタルダが死ぬことによって、やっと、こころの、平安を得たのではなかったかしら。

 で、涙滂沱の原因は提婆達多のために流したのです。「よかったねえ。やっと戦う相手が居なくなって」と、言う思いがあふれたのでしょう。富岡多恵子は、大人として読んでいるわけですから、提婆達多が、シッタルダの奥様を誘惑して、性交をしてしまう点などを含めて、提婆達多における中勘助の主題は、・・・・・生殖の罪にある・・・・・と、いうのです。

 繰り返しますが、性交が、どういうものかも知らない中学生の私は、そんなところまでは到達できなかったのですが、提婆達多の感情の動きは、いちいち、共感が出来ました。まるで、彼が、私に、乗り移ってしまったかと、思うほど、共感が出来ました。

 ところであの、1955年から、1958年までの間に、私が誰かに嫉妬していたでしょうか? ほとんどしていなかったと、思います。それから、誰かから嫉妬されていたでしょうか? それも、新堀真知子さんが、音楽の宿題について、「うわーい。間違えている。古典派の作曲家から、選ばなくてはいけないのに、ラフマニノフなんか選んで」と、満座の中で、嘲笑した瞬間以外は無かったと思います。これもね。新堀さんは、プレッシャーを感じてイライラしていたから、あんな表現をしたのでした。新堀真知子さんは、最後はドイツ・フライブルグ大学の教授で、終わったので、成功した、人生だったと思います。だけどね。母君(遺伝上は生母ではない、叔母にあたる)から、芸大付属高校へ受験し、合格し、次に芸大を卒業することを、つよく、求められていたのでした。ところがピアノを始めたのが、井口基成一門のところだったので、芸大付属高校へは、不合格だったのです。当時は芸大派と、桐朋派が鋭く対立していた時期だったからです。それが、ひそかに、わかってき始めたのが、1955年、彼女が中一のころだったでしょう。だから、イライラしていたのです。

 それと、私は、音大などには、絶対に進学が許されなかったのでした。だから、新堀真知子さんの、苦しみは、ほとんどわからなかったのでした。今は、わかりますよ。今は、経験を積んで、理解力が増しているからです。

 父に言わせると「音大でも美大でも、そこを卒業した場合、戦争になったら、食えない」から、「進学はだめだ」となります。まあ、父の予測に反して、戦後、75年日本は平和でした。しかし、コロナ禍で、文科系大学、特に、芸術系大学、に進学した人は、不要不急の分野で、お金を儲けることが、厳しいという現実に側面をしのではないかしら。

 ::::::::あ。ごめんなさい。内藤松子さんのことをどこかで、内藤律子と誤記しています。謝罪します。村松画廊で個展を開いていた、旧姓・根岸松子さんは、内藤家に、お嫁入りして、内藤松子さんとなったのでした。川島画廊で、木材(バルサ材)で、構築したインスタレーションを発表していた人です。お茶大付属高校で、私と同期でした。その女性を律子と誤記したのは、サラブレッドの写真をとる事で、有名な、内藤律子さんの印象があまりにも濃かったからです。ごめんなさいね。内藤松子さんの場合は、ご主人の収入がある立場です。その上、コロナ禍の時期は、すでに、78歳でしたね。これは、被害を感じないという立場です。しかし、音大を出て2020年当時、40代だった人は、暗澹たる思いにとらわれたのではないかしら。と言って、実学を優先した私が、お金が稼げる人間になっているとは言えないのですよ。皮肉、皮肉。

 ただ、父の教えで、あれは、すごかったなあと思うのは、「人生の要諦とは、他者の嫉妬を招かないことだ」でした。私はね。その後、30代から、他者の嫉妬を招き続けることとなります。最もつらかったのは、娘が幼稚園時代に、年上の担任の先生の嫉妬を招き、それが、娘へのいじめとして現れた事でした。そして、その次は公募団体展関係者と、ICU同窓会展での、渡辺幸子さんの嫉妬という大騒動が起きるのでした。だが、それらを全く経験していない、14歳にして、提婆達多の苦しみはよくわかったのです。

 今、思うと、あの時代は、私にとって、ゆりかごの一つだったと思います。人生の中で、東横線を使い、横浜市電・麦田町で降りて石段を、本牧立野の丘に登っていたあの三年間は、もっとも平和で、守られていた時期でした。いい先生といい友人に囲まれていたと思います。

 しかし、実体験が無くても、心を動かすことで、提婆達多の苦しみはよくわかりました。彼に対して、シッタルダ(お釈迦様の現世でのお名前)の方は殆ど自分を説明をしません。そして、シッタルダの状況についてもほとんど説明がありません。シッタルダが提婆達多のことをどうみなしていたかなど、シッタルダの視線からの解説は一切ないのです。でも、仏教の神髄が判りました。

 この世には、越えられない壁がある事。そして、それに対して、結局はあきらめるほか、道は無い事。

下は、中勘助の人生における重要な日付の幾つかです。

1907年、江木定男、東京帝大在学中に、関万世と結婚 江木万世の写真は、創元社刊では27頁に載っている。

1908年、江木妙子生まれる

1909年、兄脳溢血で倒れる。勘助は24歳、東京帝大卒業の年

1920年 提婆達多脱稿 35歳

1922年、江木定男、死去

1927年、江木妙子 猪谷氏と結婚 自分は、42歳、

1928年、江木妙子、夫の留学で、パリへ行く

1940年、兄嫁倒れる

1942年、猪谷(旧姓 江木)妙子死去  妙子34歳、 中勘助 57歳、そしてこの年 兄嫁死去

   兄の介護のために、結婚をするのだが、その当日に兄自殺、

  1942年には、(これは、中勘助には、関係が無いが)、その年に、私=雨宮舜(本名 川崎千恵子)が生まれた

1943年、江木万世死去(57歳) 夫が亡くなってから、20年間、中勘助は、万世未亡人から、求愛を受け続けるが、さりげなく、無視し続ける。

  1922年から、1942年までの間。江木=猪谷妙子と、万世未亡人との間には、いざこざが絶えなかった。中勘助をめぐっての、心理的な争いである。母と娘の間の三角関係。中勘助が、キーパーソンだから、罪深い。その部分は、全く知らなかった。中勘助の私生活を知りたくて、この書物、【中勘助の恋】を、読み始めたのだが、彼が落ちた偶像化しそうっで怖い。

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副題8、『さて、仏教を信じる文学者としては、宮沢賢治が有名だ。彼の最高傑作は、【アメニモマケズ】だと思う。しかし生きている世界が違う、現代人が、宮沢賢治の、アメニモマケズを、自らの指針として、とらえることが出来るだろうか? うすぼんやりと、立派なことを言っているなあと、感じるだけではないかなあ。

 宮沢賢治の数多い作品を読む時、彼が、仏教を教えていると、あなたはお感じになるだろうか? 彼が、信仰の人であったことは、解説者の、言葉でわかる。本当に善人だったのだ。だが、周辺からは、一段と上の人ではあった。セロを弾き、数多いレコードを東京から、取り寄せる、そういう年長の人、は、農村の青年にとって、たとえ、その生徒側が、大地主の子供であっても、賢治を、一段と上の人だと、感じたと思う。

 なお、宮沢賢治の神格化は、父や弟の力が大きかったと、言われている。ただ、ウィキペディアに、こういう記述もあり、やはり、文学者となるべき人は、性愛の方向でも、想像だけでも、豊かだったと、わかって来る。

  

童貞だったとも言われるが、「一関の花川戸という遊郭へ登楼してきたといって明るくニコニコ笑って話しました」(『宮沢賢治の肖像』)という証言もあり、真偽は不明である[137]。晩年、森荘已池を訪ねた時は禁欲主義については「何にもなりませんでしたよ」「まるっきりムダでした」と話し、さらに「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい」と語って、変節したことを認めた[138]

賢治は浮世絵コレクターで、特に「和印(春画)」を積めば高さ30センチメートルになるほど集めていた[139]。それら農学校に持ってきて、同僚と批評して楽しんだ[140]ハバロック・エリスの『性の心理』を持っていて、翻訳本で伏字になった部分を仙台の本屋まで行って原書で読んで確かめた[141]。この本のことを聞かれると「いなかの子ども(農学校の教え子)が性でまちがいをおこさないように教えたいと思って」と答え[139]、実際生徒に「猥談は大人の童話みたいなもので頭を休めるもの」「誰を憎むというわけでも、人を傷つけるというものでもなく、悪いものではない。性は自然の花だ。」と話したという[142]

盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面は、時にあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ『銀河鉄道の夜』の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の「ジョバンニ」を賢治自身とするなら、「カムパネルラ」は保阪嘉内を表していると考える研究者もいる[143]

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副題9、『宮沢賢治は、そばにいる人が誰でも感銘を受ける様な人生を送った。そして、短い生涯で、亡くなった。一方、男性としては、限りない程美形であった中勘助は、大勢の女性から慕われた。だが、さりげなく、求愛を拒否し、それらの、人々を悩ませたはずである。非常に簡単な言葉でいうと、中勘助は、狷介な人であり、宮沢賢治は、徹頭徹尾、善人である。

 しかし、私が、仏教が何たるかを知ったのは、提婆達多であり、それを、手賀沼のそばの寺院に引きこもって、脱稿をした、中勘助の、集中度には、深く、深く尊敬する。

 作家としての人間的側面は、いざ知らず、宮沢賢治の物を多数読むよりも、提婆達多一を読む方が、血がわき、肉が踊り、心臓がどきどきして、しかも圧倒的な程度で、諦観の、重要性を教えてくれる。

 作品と作者の間の不思議な関係である。

 なお、私は、富岡多恵子の、(中勘助の恋)を、81歳になって読んでよかったと思うのだ。

 私は、20年前にエッセイ【ワインが割れて】を書いて居る。その登場人物は、大原光孝さんというプロフェッショナルな画家なのだが、彼が、他人に見せている顔と、本当の姿がどれほど、違うのかを、非常に深いレベルで、書いて居る。無論のこと、攻撃を受けたから、それを書いたわけだけれど。

 特に大原恵美子夫人が言う、「うちの光孝さんは、繊細なので、会社勤めが出来ません」は違うと判断をしている。彼は、嫁と姑の調整に多大な神経を使っている、人物で、単純な人物ではない。大原光孝という人物はなかなかの策士であり、あのワインが割れてのエッセーの、20年後の今は、それが、120%開示されており、私は、日々、その彼からの苦しめられエピソードを、思い出しているのだ。なかなかの策士であり、狷介という程度を超えていると、考えて居る。

 ところで、非常に彼に苦しめられ、嫌がらせを多数受けているので、ここまで、はっきりと書くのだが、その恵美子夫人は、家出をしている。一般的に言うと、姑と合わないから‥・・・という理由だろうと、考えられるが、そこが、複雑怪奇なのだ。

 一つには、姑が、光孝さんにとっては、養母にあたると、言う形がある。

 ここで、【中勘助の恋】に戻る。江木万世夫人は、姑の江木悦子さんと、大原家と同じ関係で、緊張関係にあった。というのも江木定男さんの実母・蝶子さんは、参議院議官の娘とお嬢様であったが、早世したので、関悦子さんが、後妻として迎えられた。妹の、関万世さんが、息子(育ての息子)定男さんの、妻になったので、姉妹でありながら、姑と、嫁の関係になったのである。悦子さんにとっては、とても、可愛い一人息子、定男さんを、奪ったのが、他人ではなくて、妹だったというのが、大きな苦痛を生んだ。東京帝大に入った息子(江木定男)を間に挟んで、嫁・姑の対立が生まれるのだが、そこに派手な妹と、静かな感じの姉の対立が加わる。いやあ、複雑です。

 だが、ここで、大原光孝さんにあれこれ、ひどいことをされているのが、江木悦子、ませ対立を解明するのに、役に立ってくる。私は、彼のやることにいちいち抗議をしないし、喧嘩にも持って行ってはいない。

 しかし、怒りは深いので、ずっと観察をしている。と、女性同士のいさかい、家庭内いさかいが、見事に見えて来る。それを処理している光孝さんの、立場や行動も見えてくる。したがって、中勘助の、日記体随筆としての小説(富岡多恵子によると、私小説ではないそうだ。その違いは、巧妙なる。自己保存、自己弁護にあるのだそうだが、)を、読むときに、日ごろの観察結果が、見事に生きて来るのだった。

 この章の、副題7までは、私自身の経験は提婆達多を読んで感動したと言うだけである。したがって、うすらぼんやりとしている。・・・・・と、私自身はおもうのだけれど、大原光孝という人物に関する、観察が、加味すると、非常に、生き生きとしてくるのだ。私自身の内部でである。今のところ、この章の中に、大原光孝さんが私に加えた悪辣な仕事について、述べるつもりが無いので、読者様は、フーン、そうはいってもうすらぼんやりのママですよと、おっしゃるかもしれない。だけど、私の脳内では、燃え滾るほどの、内容が沸騰をしているのである。

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副題10、『もう一人ディレッタント中のディレッタント=紳士中の紳士たる、増田忠さんと、私の1997年におけるエピソードが関係してくル。それは、江木妙子と、中勘助の関係、、いくばくかは似ている。

 増田忠さんと、私は、年齢の差が~25~30歳程度あって、増田忠さんの方が上である。私が忠さんと初めて出会ったときは、1952年10歳の時である。北隣の二人の年下の兄弟の父君として出会った。毎晩、素晴らしい音色でバイオリンを奏でる人で、戦時中は中島飛行機に勤務していたであろうと、考えられる、エリートである。昭和天皇の御料車の、デザイナーだと、聞いたことがある。

 その増田さんから、散らかったベッドの写真を見せられて、「チエコちゃん、片付けに来て」と言われたのが、1997年だった。神奈川県展の、私の作品を見に来てもらったときだった。増田さんは、日吉を引きはらい、横浜市・中区に住んでおられたので、見に来てくださいと誘ったのだ。

 その前の、ある日、40年ぶりに日吉で出会った。私の実家は、丘の上にあり、急な坂を上らないといけない。その北隣に増田さんの家もあった。その日、今は家がないのに、増田さんが、日吉に来ていたのは、以前付き合っていたご近所主婦様たちに、愚痴を言う目的があったと思う。

 日吉の坂での、具合悪そうな、増田さんと出会い、深く同情した。増田さんは、腰が悪いうえにお子様から冷遇をされていた。で、渡りに船と、甘えられてしまったのだ。

 ここに、江木定男、江木悦子さんの関係の反映も見られるのだった。増田忠さんは、兄が亡くなった後、兄の妻と、姪と結婚をして、その次に実の子としての坊ちゃんが生まれた。姪は。実子ではない。したがって気を使って、特に大事に育てたであろう。一方息子さんの方は実施だから、ついぞんざいに育てたのだろう。で、息子さんも、父親をぞんざいに扱った。日吉の土地を高額で売って、同居をしましょうと言う話だったが、ビル化された、新築の家の別の階に住む親子には、毎日、何の交流もない生活だったのだ。

 ますださんとの二回目のデートの時だった。甘えられて「チエコちゃん、僕、お金を使い切っちゃってね。お金ないのよ。だから、お昼ご馳走してね」とか、(神奈川県展に出した、緑色を主体にした、120号の私の絵を、)「チエコちゃんの絵、汚い」とか言われたうえで、散らかったベッドの写真を見せられて、「チエコちゃん、片付けに来てくれない」と言われたのだった。私は、イエスともノーとも答えなかったが、内心で、ただ、ただ、ぎょっとしていた。次の日に、朝の五時に長い長い電話がかかって来たのだった。

 その話し方が、私には気に食わなかった。つまり、増田さんは自分が、昔隣に住んでいた、25歳年下の、女の子に、「大人になった今、セックスしない?」と問いかけたのを、私が、正しく、その意味を、わかっているかどうかを知りたがっていた。そして、それを嫌がっているらしいが、本当に嫌がっているのかどうかを知りたがった。だが、増田さんは勇気が足りなくて、こずるかった。ストレートにそれを、聞いてこないで、カマをかけてきたのだった。まったく迂遠なところから、話が始まって、なかなか、本来のところに到達しなかった。私は、父が「男に生まれてきたらよかったのに」とよく言っていたが、太っ腹で、豪胆なのだ。外見に似合わず、スケルトンがあり、何でも、スケルトンに達しないと嫌な人だった。だから、そういう・・・・・逃げ腰でありながら、自分の心配だけは、解消したい・・・・という風な会話は、大っ嫌いだった。

 それが、1997年だった。もし、その時に、富岡多恵子の、1993年刊の【中勘助の恋】を読んでいたら、増田忠さんの、午前五時の長電話に、「増田さん、こういうお付き合いは、困るので、もう、電話をよこさないでください」というのではなくて、違う表現になったと思う。だけど、それをまだ読んでいなかったので、増田さんが、お隣の紳士から、男になってしまったと、言う状況を許容できなかったのだった。幼いころ、毎晩11時過ぎに聞こえてくる、増田さんのバイオリンを聴くのは大好きだった。窓枠が木製で冊子ではなかったので、よく聞こえた。そして誰も文句を言う人はいなかった。すばらしい音色だったから。が、あわよくばただで、セックスをしたいという増田さんの、驚くべき劣化ぶりにただ、ただ、許容が出来なかった。

なお、これは、カリタス小通学バス襲撃事件というのに繋がっていく。で、一回、増田さんとのエピソードについては、丁寧に書いて居るので、そのリンク先を後で、見つけておきたいと思っている。

 なお、カリタス小通学バス襲撃事件については、ブログ文は完成していない。水沢勉先生とか、やまゆり園事件が関係してくるので、大ごと中の大ごとなのだ。

 ところで、増田忠さんが持って居たバイオリンは、イタリアクレモナ製の、名器でご本人の物であろう。神戸育ちで、裕福なご家庭の出身なので、そうなる。

 ところで、増田さんのお宅も結婚のことで、上に少し言っている様に、普通ではない親子関係がある。戦争によって、男性の数が、少なくなったので、もし、兄弟の結婚相手が亡くなったら、その弟とか、妹とかが、兄、または、姉の子供を実子として育てることが多かったのだ。後妻として、兄、または、姉のパートナーと再婚をすると、言う形。

 新堀真知子さんが満座の中で、うわーい、間違えて、ラフマニノフなんか選んでいる」と言ったのは、私が、実の母と暮らしているのを、うらやんでいたのだろうか? 彼女は、いつも迎えに来ていて、一緒に日吉駅まで、行っていたのだが、「あなたのおうちまでくると、いつもみそ汁の匂いがしていたわ」と言っていた。新堀家は、パン食だったのだと思う。煮干し入りの味噌汁を、丁寧に、作る平凡な私の母親の姿を、真知子さんは、うらやましかったのだろうか? 真知子さんの丘あちゃま(実際はおば様)は才媛中の才媛だった。原田美枝子みたいなきれいな女性だった。

 増田家も、そうであり、実子の息子さんは、父親を冷遇していた。お嫁さんがお世話を拒否していたのだ。武蔵野美大卒で、いっぱしの作家活動をしたかったからだ。で、、忠さんは、寂しさのあまり、私に甘えすぎちゃったのだった。だが、私は、それ以前、忠さんが田園調布あたりで、開いていた音楽さろんで、付き合っていた、有閑マダムと、セックスを含む交流があったのだと、推察している。だが、私は、そういう(フランス貴族と似た生活をする)マダム達とは、違うタイプなのだ。私は弁護士さんから、「被害者像の典型だと、最初は見えたが、実際には、ひどく頭がいいし、しっかりしているのだね」と、言われたことがある。私を、甘い人間だと、見ると、手痛い目に逢う、そういう意外性を持った、スケルトンの有る、人物なのだった。

 結局、カリタスにお子様を昔、通学させていた、寺沢夫人が、息子さんに、反省をする様に、忠告をして、増田さんの孤独は収まった模様だ。日吉の先輩おばさん連中が、忠告をして事態は、収まったらしい。ただ、私より、25歳は上の人だったから、2023年現在は亡くなっていると思う。そして、私は日吉の実家周辺ソサイエティで、ただ、一人だけ、悪者になり、大損をした。増田忠さんは、自分がセックスに誘ったことはご近所主婦には言っていないと思うので、私が、きつい女性だと言う事になっていると思う。ひどい話だった。ただ、何度も言うけれど、富岡多恵子の、【中勘助の恋】を、読んでいたら、「増田さん、中勘助は、常にプラトニックラブだったみたいよ。その本を、読んでみて」と、軽くいなしただろう。

 増田忠さんは、悲しいことがあると、日吉のご近所主婦連中=神戸育ちで、婦人之友のグラビアに、お子様の写真を載せるほどの、名流婦人であった自分の奥さんより、ずっと、田舎っぽい、だが、誠実な事は、誠実であることを、疑わない、昔のご近所主婦=おばさん連中に相談に行っていたのだった。

 


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