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民芸の「静かな落日」を観ました。   落石

2009年11月17日 09時42分39秒 | Weblog
先日、静かな落日を観てきました。

戦後日本の黒い霧と言われた松川事件。
作家、広津和郎が友人の作家宇野浩二とともに、無罪を勝ち取っていったことは
私も知っていました。
広津家は、父・柳浪から和郎、娘・桃子と三代に渡って作家となりました。
父・柳浪は関東大震災から4年間も風呂に入らないような人ですが、
和郎はこの父から反骨精神を受け継いだようです。
娘、桃子は、母と別れ、別の女性と同棲している父に反抗しながらも、
戦争体験を通して、次第に父の偉大さに気付きます。
そして、戦後は、松川裁判に取り組む父を助けます。
実母の家、父の愛人の家、父の仕事場と3つの家を
行き来する桃子の姿を通して3代の作家魂が描かれていました。
広津和郎を伊藤孝雄、桃子は樫山文枝でした。
家が近所でいつもマージャンをしていた、先輩の志賀直哉も登場、
舞台に奥行を与えていました。

いかにも民芸らしいタンタンとして格調の高い舞台でした。
観客も、松川事件などの説明もいらない年齢層でした。
劇の基本的なメッセージは、広津が戦争中に書いた「散文精神」のようです。

どんな事がってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、
楽観もせずに生き通して行く、それが散文精神だと思います。

続いて、一緒に観た友人の感想です。

   

まず一番に感じたことは、今の自分の生活のありようを顧みるに、
背景となった事件などに関心を持った二十代は今よりものを見よう、
感じようとしていたなと言うことです。
それは今の生活全体が、「社会を変える、社会は変えられる」と思い(願い)
行動していた時代から遠く隔たったもの、
行動を伴わない頭の中での愚痴だけと思い知らされたと言うことです。 

関東の小さな世界で暮らしているうちに、
自分なりにアンテナは張って社会の空気は吸っているつもりだったけれど、
舞台に描かれたような世界の話はいつか遠いものになっていたことに気づきました。
例えば、一歩踏み出せば「九条の会」が身近にあるでしょうに、
その一歩が「ま、いいか」になっている現状です。

 広津和郎については恥ずかしながら
松川裁判との関わり以外についてはほとんど知りません。
読もうと思ったこともありませんでした。作品に関心がなかったといえます。
その人となり、生き方について、舞台で描かれたような人であったことは
初めて知りました。(^^;)

 組合の組織率がガタ減りし、労使協調してこの経済混乱を乗り切ろうと
声高に言われ、政治が小泉劇場「自民党をぶっ壊す」・小沢劇場(?)「政権交代!」と、
キャッチフレーズだけで踊る今の時代に、労働組合や共産党への弾圧という
歴史的な事実を踏まえて演じられた舞台を受け止めるのは
なかなかに気力(精神力)が必要でした。
「広津和郎」という人物の時流に流されない生き方、
と言う背景をそぎ落とした受け止め方をしてしまえば
余り気にすることはないのかもしれませんが。

 でも、民芸の舞台らしく(と言ってもそんなに見た記憶もありませんが)、
背景が重要なのだろうと思うと、見終わった後の重苦しさ、
よく言えば重厚な舞台を見終わったという思いを持ちました。
(「持たされました」というと、申し訳ないかな)

 この演目を選び、この重厚さを求めるのが「名演」という
演劇鑑賞集団なのかなとも感じました。
会場を見渡したとき、私と同世代の人(戦後民主主義の中で育ってきた、
安保改訂や学園紛争などを経験した人)の多さにそれを思いました。
今、こういう舞台を受け容れられるのはもうこの世代の人しかいないのではないか、と。

 警察の取り調べの場面で、妙に強調された(と感じてしまう)演技に、
突然「裁判員制度」との結びつきが浮かんできました。
また、最近の足利事件の再審での検察と弁護団のやりとりを見ていると、
この背景になったものは風化していないとも思い、
そういう観点から見れば現代に生きている舞台、といえるかなと思います。

登場人物の演技としては、宇野浩二役の役者の軽さが気に入っています。
樫山文恵さんの、いかにも新劇っぽい台詞回しは懐かしかったですが。

(私よりシッカリした見方です。ありがとうございます。)




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「天下り」規制論議に 文科系

2009年11月17日 01時22分37秒 | 国内政治・経済・社会問題
昨日の毎日新聞に、「『天下り』規制後退」なる社説が載った。マスコミによる最近の新政権批判論調には取って付けたような、あるいは為にするような議論が多いが、今回もそんな気がしたので、これを書くことにした。

社説は「6日に決定した(政府による天下り規制問題の)答弁書の見解」を批判している。こんなふうに。
【 答弁書で政府は「天下り」について「府省庁が退職後の職員を企業、団体などに再就職させること」としながらも「法令に違反することなく府省庁によるあっせんを受けずに適材適所の再就職をすることは、天下りに該当しない」と結論づけた。
 この見解には、落とし穴がある。もともと省庁は天下りの「あっせん」の事実すら認めようとはしておらず、省庁が「あっせんはない」と言い張ればあらゆる再就職が「天下りではない」と認知され、黙認されかねない。特に、公益法人などの幹部ポストが関係省庁の「指定席」となっている場合、対象外となるおそれがある 】
 この文章には三つの点が抜け落ちていると、僕は思う。
一つは、各省庁の「政治主導」が。官僚とつるんでいたと言える自民党の時代とは違って、各省庁の閣僚、副大臣、政務3役などが官僚に目を光らせる体制であることが。そしてこの監視は、現れてきた諸般の状況などから判断して当面は信用できると、僕には思われるのである。
次いで二つ目には、新政権が重視する情報公開にも全く言及がない。自民党は大いに意識してこれをサボり、それを利権にしてきたが、新政権は当面これにもある程度本気であると僕は思う。情報公開の本気度は、行政刷新会議などの厳しい進め方などを見ても、分かるのではないか。「再就職先」「あっせん」「利権」なども非常に分かりやすくなるはずである。
三つ目には、こんなことも自民党時代とは全く違うはずだ。無駄な予算が絡む団体への、それこそ「あっせん」であるならば、その団体への無駄な金が公開の行政刷新会議に懸けられるということである。そこにも新たに、政治主導の目が光っているということである。

こういう三つの明白な変化が存在するようになったそのうえで、上のように断言できるだろうか。「あっせんはない」と省庁が言えば黙認されていくなどと。これが独断であるとは論理的にも自明だと思うが、どうだろう。

ここで僕も既に述べてきたが、「再就職」が悪いのではない。「天下り規制」の定義とは、再就職一般ではないはずである。その定義が難しいにしても「適材適所」が悪いわけでもない。利権が絡む、あるいは例えば公募がないとかいうように「不公正な」、「法令に違反する」、そんなあっせんが悪いのである。こんなことは当たり前のことだと思うが、どうだろうか。

マスコミの新政権批判は昨今ことほど左様に、為にしているのかどうか、とにかく素人っぽいような、荒い論理が目立ちすぎる。まるで自民党時代に培われた先入観だけで見て、論ずるといったような。時代遅れの「玄人」の、サボり論難とならないことを願うものである。
コメント (1)
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