先日、静かな落日を観てきました。
戦後日本の黒い霧と言われた松川事件。
作家、広津和郎が友人の作家宇野浩二とともに、無罪を勝ち取っていったことは
私も知っていました。
広津家は、父・柳浪から和郎、娘・桃子と三代に渡って作家となりました。
父・柳浪は関東大震災から4年間も風呂に入らないような人ですが、
和郎はこの父から反骨精神を受け継いだようです。
娘、桃子は、母と別れ、別の女性と同棲している父に反抗しながらも、
戦争体験を通して、次第に父の偉大さに気付きます。
そして、戦後は、松川裁判に取り組む父を助けます。
実母の家、父の愛人の家、父の仕事場と3つの家を
行き来する桃子の姿を通して3代の作家魂が描かれていました。
広津和郎を伊藤孝雄、桃子は樫山文枝でした。
家が近所でいつもマージャンをしていた、先輩の志賀直哉も登場、
舞台に奥行を与えていました。
いかにも民芸らしいタンタンとして格調の高い舞台でした。
観客も、松川事件などの説明もいらない年齢層でした。
劇の基本的なメッセージは、広津が戦争中に書いた「散文精神」のようです。
どんな事がってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、
楽観もせずに生き通して行く、それが散文精神だと思います。
続いて、一緒に観た友人の感想です。
まず一番に感じたことは、今の自分の生活のありようを顧みるに、
背景となった事件などに関心を持った二十代は今よりものを見よう、
感じようとしていたなと言うことです。
それは今の生活全体が、「社会を変える、社会は変えられる」と思い(願い)
行動していた時代から遠く隔たったもの、
行動を伴わない頭の中での愚痴だけと思い知らされたと言うことです。
関東の小さな世界で暮らしているうちに、
自分なりにアンテナは張って社会の空気は吸っているつもりだったけれど、
舞台に描かれたような世界の話はいつか遠いものになっていたことに気づきました。
例えば、一歩踏み出せば「九条の会」が身近にあるでしょうに、
その一歩が「ま、いいか」になっている現状です。
広津和郎については恥ずかしながら
松川裁判との関わり以外についてはほとんど知りません。
読もうと思ったこともありませんでした。作品に関心がなかったといえます。
その人となり、生き方について、舞台で描かれたような人であったことは
初めて知りました。(^^;)
組合の組織率がガタ減りし、労使協調してこの経済混乱を乗り切ろうと
声高に言われ、政治が小泉劇場「自民党をぶっ壊す」・小沢劇場(?)「政権交代!」と、
キャッチフレーズだけで踊る今の時代に、労働組合や共産党への弾圧という
歴史的な事実を踏まえて演じられた舞台を受け止めるのは
なかなかに気力(精神力)が必要でした。
「広津和郎」という人物の時流に流されない生き方、
と言う背景をそぎ落とした受け止め方をしてしまえば
余り気にすることはないのかもしれませんが。
でも、民芸の舞台らしく(と言ってもそんなに見た記憶もありませんが)、
背景が重要なのだろうと思うと、見終わった後の重苦しさ、
よく言えば重厚な舞台を見終わったという思いを持ちました。
(「持たされました」というと、申し訳ないかな)
この演目を選び、この重厚さを求めるのが「名演」という
演劇鑑賞集団なのかなとも感じました。
会場を見渡したとき、私と同世代の人(戦後民主主義の中で育ってきた、
安保改訂や学園紛争などを経験した人)の多さにそれを思いました。
今、こういう舞台を受け容れられるのはもうこの世代の人しかいないのではないか、と。
警察の取り調べの場面で、妙に強調された(と感じてしまう)演技に、
突然「裁判員制度」との結びつきが浮かんできました。
また、最近の足利事件の再審での検察と弁護団のやりとりを見ていると、
この背景になったものは風化していないとも思い、
そういう観点から見れば現代に生きている舞台、といえるかなと思います。
登場人物の演技としては、宇野浩二役の役者の軽さが気に入っています。
樫山文恵さんの、いかにも新劇っぽい台詞回しは懐かしかったですが。
(私よりシッカリした見方です。ありがとうございます。)
戦後日本の黒い霧と言われた松川事件。
作家、広津和郎が友人の作家宇野浩二とともに、無罪を勝ち取っていったことは
私も知っていました。
広津家は、父・柳浪から和郎、娘・桃子と三代に渡って作家となりました。
父・柳浪は関東大震災から4年間も風呂に入らないような人ですが、
和郎はこの父から反骨精神を受け継いだようです。
娘、桃子は、母と別れ、別の女性と同棲している父に反抗しながらも、
戦争体験を通して、次第に父の偉大さに気付きます。
そして、戦後は、松川裁判に取り組む父を助けます。
実母の家、父の愛人の家、父の仕事場と3つの家を
行き来する桃子の姿を通して3代の作家魂が描かれていました。
広津和郎を伊藤孝雄、桃子は樫山文枝でした。
家が近所でいつもマージャンをしていた、先輩の志賀直哉も登場、
舞台に奥行を与えていました。
いかにも民芸らしいタンタンとして格調の高い舞台でした。
観客も、松川事件などの説明もいらない年齢層でした。
劇の基本的なメッセージは、広津が戦争中に書いた「散文精神」のようです。
どんな事がってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、
楽観もせずに生き通して行く、それが散文精神だと思います。
続いて、一緒に観た友人の感想です。
まず一番に感じたことは、今の自分の生活のありようを顧みるに、
背景となった事件などに関心を持った二十代は今よりものを見よう、
感じようとしていたなと言うことです。
それは今の生活全体が、「社会を変える、社会は変えられる」と思い(願い)
行動していた時代から遠く隔たったもの、
行動を伴わない頭の中での愚痴だけと思い知らされたと言うことです。
関東の小さな世界で暮らしているうちに、
自分なりにアンテナは張って社会の空気は吸っているつもりだったけれど、
舞台に描かれたような世界の話はいつか遠いものになっていたことに気づきました。
例えば、一歩踏み出せば「九条の会」が身近にあるでしょうに、
その一歩が「ま、いいか」になっている現状です。
広津和郎については恥ずかしながら
松川裁判との関わり以外についてはほとんど知りません。
読もうと思ったこともありませんでした。作品に関心がなかったといえます。
その人となり、生き方について、舞台で描かれたような人であったことは
初めて知りました。(^^;)
組合の組織率がガタ減りし、労使協調してこの経済混乱を乗り切ろうと
声高に言われ、政治が小泉劇場「自民党をぶっ壊す」・小沢劇場(?)「政権交代!」と、
キャッチフレーズだけで踊る今の時代に、労働組合や共産党への弾圧という
歴史的な事実を踏まえて演じられた舞台を受け止めるのは
なかなかに気力(精神力)が必要でした。
「広津和郎」という人物の時流に流されない生き方、
と言う背景をそぎ落とした受け止め方をしてしまえば
余り気にすることはないのかもしれませんが。
でも、民芸の舞台らしく(と言ってもそんなに見た記憶もありませんが)、
背景が重要なのだろうと思うと、見終わった後の重苦しさ、
よく言えば重厚な舞台を見終わったという思いを持ちました。
(「持たされました」というと、申し訳ないかな)
この演目を選び、この重厚さを求めるのが「名演」という
演劇鑑賞集団なのかなとも感じました。
会場を見渡したとき、私と同世代の人(戦後民主主義の中で育ってきた、
安保改訂や学園紛争などを経験した人)の多さにそれを思いました。
今、こういう舞台を受け容れられるのはもうこの世代の人しかいないのではないか、と。
警察の取り調べの場面で、妙に強調された(と感じてしまう)演技に、
突然「裁判員制度」との結びつきが浮かんできました。
また、最近の足利事件の再審での検察と弁護団のやりとりを見ていると、
この背景になったものは風化していないとも思い、
そういう観点から見れば現代に生きている舞台、といえるかなと思います。
登場人物の演技としては、宇野浩二役の役者の軽さが気に入っています。
樫山文恵さんの、いかにも新劇っぽい台詞回しは懐かしかったですが。
(私よりシッカリした見方です。ありがとうございます。)