九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

へそ曲がりさんのへそは、真っ直ぐ!!   まもる子

2008年09月17日 16時52分30秒 | その他
 へそ曲りさんは義理の兄です。へそ曲りさんが病になり、闘病生活の様子を傍らで見てきました。へそ曲りさんは実に粘り強く病と戦ってきました。またへそ曲りさんを支えてきた妻や医療も素晴らしいものでした。がんばり屋さんのへそ曲りさんの力がとうとう尽きて、私たちは悲しい別れを迎えました。

 無神論者のへそ曲りさんの考えに沿った「思い出のつどい」「お別れのつどい」という葬儀が身内のみで行われました。そこではへそ曲りさんの様々なエピソードや生き様が語られました。聞いているうちに、へそ曲りさんがとても 強く平和を考えていたということ、憲法9条を守ろうとしていたこと、人々の幸せを願っていたかということがひしひしと伝わってきました。
  葬儀には慣れているはずの会館の人が涙をこぼすほど心を動かすものがありまし
た。

 へそ曲りさんのへそが真っ直ぐに平和へむいていたことをけしてわすれません。平和の大切さ、憲法9条の重要さを次の世代に伝えていくことを決心しました。

 そしてこの夫婦の妹であることを誇りに思いました。
コメント (2)
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沢田研二・・「我が窮状」の歌、 今夜です。  ネット虫

2008年09月17日 16時05分51秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが
 忌まわしい時代に 遡るのは賢明じゃない
 英霊の涙に変えて 授かった宝だ
 この窮状 救うために 声なき声よ集え
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この窮状 救えるのは静かに通る言葉
 我が窮状 守りきりたい 許しあい 信じよう

★還暦を迎えても変わらぬ艶ののある声の沢田研二が
 平和への想いを自身作詞のバラードに込めて歌いあげる。

 NHK総合 11時 SONGSで

 まぎれもない、憲法九条賛歌だという。


☆昨夜のSONGSご覧になれましたか???
もしも、見逃した方はこちらで観る(聴く)ことができます。
collection 305  9番目の曲「我が窮状」
http://qjomiuchi.exblog.jp/7182920/
この記事の末尾のURLをクリックしてください。
コメント (4)
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紹介の「鶴 彬」の作品です。     ウイキペディアより     

2008年09月17日 12時18分32秒 | 文芸作品
俺達の血にいろどつた世界地図
飢迫る蟻米倉をくつがへし
軍神の像の真下の失業者
毒瓦斯が霽(は)れて占領地の屍
血税に上る兵工廠の煙
指のない手に組合旗握りしめ
稼ぎ手を殺し勲章でだますなり
肺を病む乳房にプロレタリアの子
血を喀いて坑をあがれば首を馘り
昼業と夜業夫婦をきりはなし
足をもぐ機械だ手当もきめてある
孫までも搾る地主の大福帳
奪はれた田をとりかへしに来て射殺され
銃剣で奪つた美田の移民村
ふるさとは病ひと一緒しょ帰るとこ
血を吸ふたままのベルトで安全デー
転地すれば食へぬ煙の下で病み
嫁入りの晴衣こさえて吐く血へど
ベルトさへ我慢が切れた能率デー
生命捨て売り出て今日もあぶれ
みな肺で死ぬる女工の募集札
吸ひに行く―姉を殺した綿くずを
ざん壕で読む妹を売る手紙
修身にない孝行で淫売婦
待合で徹夜 議会で眠るなり
売った日を命日よりもさびしがり
フジヤマとサクラの国の餓死ニュース
屍のゐないニュース映画で勇ましい
万歳とあげて行った手を大陸において来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし

★時代の凶暴さを怯むことなく作品にして権力にぶつけ、人々に伝えた気迫が伝わってきます。写真は鶴彬の住んだ高松街道。(ネット虫)
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川柳作家・鶴彬の顕彰碑    落石

2008年09月17日 10時10分27秒 | 文芸作品
鶴彬と言えば知る人ぞ知る反戦川柳作家で
官憲の拷問で70年前に29歳で死んだ。
大阪城公園内の鶴が収監されていた
監獄跡地に関係者の懸命の努力で顕彰碑が出来た。
9月14日に除幕式には、
建立に尽力した関係者、鶴彬の親族や縁の人達
および川柳関係者が参加。

鶴彬の句碑は今回の大阪以外には
石川県と岩手県にあるだけとのこと。

句碑の周りには白、赤、ピンク3本の百日紅が植え
られ咲いていた。句碑には

 暁を抱いて 闇にゐる蕾

と鶴彬の句が刻まれている。


(川柳作家の丸山さんのブログから一部を転載したものです。)



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ラジオと玉音放送③   中野寂音

2008年09月17日 09時56分40秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

毎年八月十五日、私は「三種の神器」を机の引き出しから
取りだして、ひとり感慨にふける。
玉音放送のカセットテープ。
手書きの終戦の詔勅コピー。
軍服の集合写真。
私の「三種の神器」の中に、昭和二十年八月十五日の
すべての物語がある。

この時私は中国河北省石家荘(日本軍占領により石門と改名)
当時の支那派遣軍第一航空教育隊の第六区隊に配属されていた。
この日部隊の医務室に入室中。
定期診断日のため、朝から石家荘市内の陸軍病院に出かけていた。
昼の休憩時間病院の廊下に待機していた私達の耳に、
ラジオの声が遠くから、とぎれとぎれに聞こえてきた。
ザアーザアーという雑音の中からかすかに声が聞こえる。
病院の長い廊下に座り静かに耳を澄ましている兵隊達。
この日放送の説明は、誰からもなく「終戦の詔勅」であると
知らされたのは、その日夜遅くであった。
夕方兵舎に帰ると、部隊はこの日正午全員営庭に整列して、
ラジオを聞かされたが雑音が多く何も分からない。
解散後どこからともなく、戦争終了の重大放送で、
天皇陛下の声であったいうことが伝わってきた。 

病院から帰った私達は非常事態であるのですぐ区隊に戻れとの命令で、
入室中の全員は医務室を追い出された。
私は第六区隊に戻った。
私の一番長い八月十五日は、ただ慌ただしく追かけられて、
何が起こったのか誰も分からないで終わった。

真っ先に考えたことは、戦争が終わった日本に
家に帰ることが出来ると思った。
雑音の中から聞こえる甲高い声が、初めて聞く天皇陛下の声であったことは、
八月十五日の音風景の記憶として頭の中に残った。

この年十二月六日日本に復員するまで、「玉音放送」は
私の頭の中から消え去っていた。

                  つづく
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