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「次の首相」の世論調査は意味があるのか?  ネット虫

2008年09月22日 21時21分19秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
★最近、新聞・テレビ各局は競って「次の総理は」の世論調査をして世論を煽っている。
 「次の総理」NO1だった安倍・福田総理は二人とも総理を投げ出した。
 こうした「次の総理」調査について「ザ選挙」で菅原琢氏が疑問を投げかけている。詳しくは   http://www.senkyo.janjan.jp/senkyo_news/0809/0809120988/

「次の首相」調査を重視する意味はあるのか?    菅原琢

 かつては、「次の首相」に類する調査はあまり見かけなかったように思う。それがいまや、どこの新聞もどこの局も、誰がふさわしいか、誰がよいと思うか、あらゆる人に回答を迫っている状況である。限定的な選択肢から択一させる奇妙な調査の結果を、国民的人気の指標としてほとんど全ての報道機関が利用しているのである。

 しかし、回答者が仕方なしに選んだ結果を、「国民的人気」というフレーズで繰り返し報道することが、正しいジャーナリズムと言えるのだろうか。しかも、過去2年で2回、みなが「首相にふさわしい」と回答し、「国民的に人気」だったはずの首相の内閣支持率が転げ落ち、政権を投げ出した後にである。だが(産経新聞ではなく)NHKの解説委員までが、根拠なしに麻生が国民的人気であると言ってしまうような状況が、今の日本にはある。

 以上のように、「次の首相にふさわしい人」を聞く類の調査では、政治家の人気を推し量ることは難しい。したがって、ここから選挙結果を占うのも無理がある。逆に言えば、この結果をもって麻生太郎は人気がない、というようなことを言えるわけではない。次回は、もう少しこの問題について考えてみようと思う。
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麻生太郎は地方に人気がある?        まもる

2008年09月22日 20時36分31秒 | 国内政治・経済・社会問題
総裁選の報道を見ていて驚いた。

 麻生が総裁選で地方票のほとんどを押えたことに、本人は無論、自民党幹部、関係者が諸手を挙げて絶賛評価をしている。
 その上マスコミまで尻馬に乗って、麻生の地方人気を喧伝している。      NHKまで地方の一般有権者にインタビューして、期待感を語らせている。

 冗談ではない!!! 今回、麻生が圧勝したのは、自民党の総裁選挙。
 地方自民党員の選挙?すなわち意向の集約に過ぎない。
 自民党の地方党員がどれ程いるか知らないが彼らの意向を県組織が判断した三票の集約である。確かに自民党県連は麻生を選んだ・・それだけである。地方県連はとしては構造改革推進の他候補より麻生のほうが戦いやすいそれだけである。
 
 どこをどう言いくるめると、麻生が地方に圧倒的人気があるという結論になるのか。
 いい加減の事を、少なくともマスコミは言わないで欲しいものだ。
 
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私の軍隊生活② 中野寂音

2008年09月22日 09時55分47秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
鈴鹿おろし。地震。伊勢大根。

斉宮第七通信連隊はとにかく寒かった。
東は見渡す限り大根畑、三キロ先は伊勢湾がある。
西には白い雪を頂く鈴鹿連山がそびえ立っている。

都会育ちの私には初めて見る景色、
その上冷たい鈴鹿おろしの風が絶え間なく吹き付けてくる。
毎日兵舎の床掃除は、水の雑巾での拭き掃除、
忽ち新兵たちの両手は霜焼けで真っ赤なグローブのようにふくれあがった。

私はあかぎれ体質であったので、毎朝の床掃除に専念させられた。
「霜焼け」この言葉は、今は死語となっているが、
戦前は小学校児童でも冬には沢山いた。
寒さと栄養不良が原因といわれた。
この頃食糧は慢性不足で東京では食糧の買い出しが始まっていた。
部隊でも食事給与は下がる一方である。
名産、伊勢大根が、大根入り飯、大根みそ汁、たくあんと
朝から晩まで毎日出てくる。
そのため栄養不良の霜焼け新兵の大増産となった。

昭和十九年十二月七日午後一時三十五分。
昼飯を終わり午後の演習に出る準備をしているときだった。
突然兵舎が上に横に揺れだして立っていられない。
二階から階段を転げて落ちて外に出た。
立ってはいることはできない、
地面にはいつくばるもの、
転ぶもの、
立木にしがみつくもの。

しばらくして地震は収まった。
時間の経過の記憶はない。
こんな怖い体験は生涯最高のものであった。
とにかく長い時間で、気がつくと兵舎は無事に建っていた。

その頃は戦争中、すべて軍事機密の報道管制で、
昨日地震があったと小さい新聞の記事があったらしい。
国民にはすべて隠された大地震であった。
これが東南海大地震であり、愛知県の軍需工場で
勤労動員の学徒が多数犠牲になった。
また全国で一千人余の犠牲者があったこと、
津波も太平洋岸各地であったことは戦後になり初めて知った。

我々の訓練はこの日予定通り行われた。
地震のことは上官からも何一つ知らされなかった。
一週間後東海地方はB29の空襲が毎日となり、
B29の通路のわれわれの部隊は、毎晩演習場や大根畑の中で、
名古屋方面の真っ赤な空襲の空を眺める夜間訓練の毎日となった。
この大根畑の中で、待機中引き抜いて食べた伊勢生大根の旨かったこと、
忘れられない思い出となった。

                     つづく

★写真は第七航空通信隊の戦災跡地の航空写真 ○が現在の明和町役所
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