海側生活

「今さら」ではなく「今から」

夏は来ぬ

2011年06月30日 | 東海道五十三次を歩く

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東海道五十三次を歩き出す前、ある人は「ただ、ひたすらに歩く事で雑念を取り払い、無の境地に近づき、何も求めない」と言って呉れた人がいた。

しかし自分の今回の「歩きの旅」は修行の積りは全くなく、ただ気軽に「忘れ物」を取りに行っただけだから、道中、実に様々な事を考えた。

また改めて知った事も多かった。
44番目・石薬師宿(現在の鈴鹿市)の本陣跡を過ぎた中ほどに明治の歌人・佐々木信綱の資料館がある。
道路沿いには白い小さな花を付けた長い垣根があり、その中に童謡『夏は来ぬ』の説明板があった。その中の歌詞の「卯の花」の説明がしてあった。
♪♪卯の花の 匂う垣根に 時鳥早もう来鳴きて 忍び音漏らす 夏は来ぬ♪♪
垣根の白い花が卯の花だと。

「卯の花」ってウツギの花だったのだ。
清楚な小さな花は、鼻を近づけると、なんだか木材の香りがする。初夏らしい香りがした。

子供の頃、「卯の花」ってどんな花かとも知らず、歌い易くて、つい口ずさんでいた記憶があるが、今になって小さな疑問が又一つ消えた。自分にとっては、この歌も自分の原体験を成していた事に気が付いた。

日常に戻り、たった一ヶ月間だが「歩きの旅」を振り返ってみると、人間の世界は途方も無く広く、豊かなのだと言うことを実感する。まさに千里の旅は万感の書に値するのだろう。


初めて見た

2011年06月27日 | 東海道五十三次を歩く

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田舎で育った自分にとって田畑の作物の名や、その作物に咲く花の色等は知っている積りだった。

東海道五十三次の「歩きの旅」で、吉田宿と呼ばれていた豊橋を出て御油宿、赤坂宿を経て二日目、 藤川宿に差し掛かった時の事。「藤川東棒鼻跡」の碑が建っている。宿の出入り口を棒鼻と呼び、大名通行の際はここで本陣や問屋の主人は出迎え口上を述べたと言う。

宿跡に差し掛かった時から気になっていた碑の反対側の作物に近づいた。それは陸稲かと見えたが、自分の背丈ほどの高さでこんなにも丈が伸びる筈は無いし、第一、稲穂が黒っぽく見える。
健康志向で古代米と称して、群馬・藤岡や長野・飯田などで栽培されている赤米・黒米・緑米等を見たことはある。しかし田植えが終わって間が無いのに時期的にもおかしい。

畑の隅に説明板があった。「紫麦」は江戸時代より藤川の名産だった。いつしか作られなくなり幻の麦となっていたものを、平成になってから栽培に成功した、と。
紫色した穂を持つ麦は初めて目にした、触ってみた、麦だ。瞬間懐かしい感じが蘇る。

殆どの経験はして来た積りで居ても、幾つになっても、初めて知る、初めて経験するって事があるのだと改めて知らされた思いがした。

そう言えば京都・三条大橋に夕方着いた後、高瀬川沿いの小さな椅子に腰を下ろした時、偶然隣に座っていた袈裟姿のお坊さんとの会話を思い出した。
『「歩きの旅」を終わって何を感じていますか』
『多くの人と出会い、忘れかけたものを思い出しました』と、道中に受けた見も知らぬ人からの親切の数々を思い描きながら答えると、お坊さんは
『毎日を新鮮にする一番の方法は好奇心を持つ事、自分はここに座ってヒューマン・ウオッチングをしています』

何故だか、その言葉が今でも頭のどこかに残っている。

藤川の麦刈りは終わったかな。初めて紫麦を見てから一ヶ月が過ぎた。


街道を歩く

2011年06月20日 | 東海道五十三次を歩く

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梅雨もやっと本番を迎えたらしい。
雨は落ちていないがドンヨリと灰色の雲が低く一面を覆っている。見慣れた江ノ島も靄の中だ。ただ港を出入りする漁船が影となってボンヤリと見え、エンジンの音だけが響いてくる。今の海を描こうと思えば、筆一本あれば色のある絵の具は必要ない。

歩き終えて早十日が経った。
身体の倦怠感もほぼ無くなった。足の指の血豆も取れた。ふくらはぎが自分の足で無いみたいにパンパンに腫れ上がり、まるで幼い赤ちゃんの足指のようにポンヨリとふっくらとなっていたのも取れた。  

何十年も前の「忘れ物」を取りに行った今回の「歩きの旅」だったが、同時に自分の体力と気力を試す事でもあった。

道中、多くの街道がある事を知り、様々な時代の出来事に触れ、多くの記念碑の中に書物の名を思い起こし、そして多くの人に出会った。
東海道の一部しか歩いていないのに、自分が生まれ育った日本って奥深くて、長い歴史がある事を改めて思う。
興味本位の研究材料が一気に増えた。

道連れが居て二人で歩むのは楽しい。
しかし、これまで波乱万丈の生き方をして来た人も、順風満汎に過ごしてきた人も、どんな人でも現状がどうであれ、ある時は一人で歩まなければならない時が必ずある。それを実感した「歩きの旅」だった。

また分相応は自分のモットーである。自分の身の丈に合った生き方をしていれば生活は安定する。だが分相応に暮らしながらも年相応の目的を持たなければ、その人の未来は無いとも思った。

今、自分は充分に陽に焼けた黒い肌と、まだ出来る!と言う自信に心地良く包まれている。


着いてしまった

2011年06月10日 | 東海道五十三次を歩く

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着いてしまった、京都・三条大橋に。

昨日、東海道五十三次の53番目の宿場・大津宿では、30階の部屋から見る琵琶湖の大きさに圧倒され、今朝、終点に向け出発した。

今日の出来事だけでも、日記の積もりで書き留めたい事は山ほどある。
松尾芭蕉のお墓は、なぜ義仲寺にあるのか。
逢坂の関の蝉丸って、一体誰なのか、等々。

三条大橋に着いた途端に雨が本降りになってきた。

何十年も前の忘れ物を取りにきた今回の歩き旅だったが、同時に自分の体力を試すと言うか、自分の気力は実際はどの程度か客観的に試してみたかった。

今までの纏めと報告は、体力が普通に回復してからにしたい。 とりあえず今回の自分の計画で、様々な心配と応援を頂いた方々に、無事に着いたと言う報告をしたい。

今夜は自分の、お気に入りの店で、美味い日本酒でイッパイ。感謝と乾杯!


もう少し寄り道を

2011年06月08日 | 東海道五十三次を歩く

もう少し寄り道を
52番目の宿場・草津宿に来てしまった。

東海道と中山道の分岐点には火袋付きの大きな道標が建っていた。 自分の「忘れ物」を取りに行く「歩きの旅」も、なんだかアッサリとここまで来てしまった感じがしてならない。 このまま歩けば明日は、東海道五十三次の53番目の宿場の大津宿、その翌日は京都・三条大橋だ。

今のまま先へと歩いたら後悔するかも知れない。 又忘れ物をしたような気がして来た。もう少し、この草津宿か明日の大津宿で寄り道しよう。
江戸時代のみならず、縄文・弥生の時代の遺跡や古墳も数多く存在し、古来より東西日本や北日本を結ぶ主要街道が通り、幾度も歴史の表舞台に登場してきた。 自分が識っている京都を中心とした歴史や、ここ数年で知った鎌倉時代の出来事など、自分の興味は一つずつの点だけで留まっているが、もっと寄り道や回り道をすれば、点の知識が一本の線になり、自分なりに納得が出来るかも知れない。

改めてホテルの10階の窓から遠くを眺めると、ここは我が国最大の湖・琵琶湖が横たわり、周囲を比叡・比良山系や伊吹山、鈴鹿山脈などの山々に囲まれた近江盆地だ。

三条大橋に着いたら、もっとノンビリしたくなるかな?


消える道

2011年06月07日 | 東海道五十三次を歩く

消える道
鈴鹿峠を越え、土山宿そして水口宿と東海道五十三次の50番目の宿も後にした。

歩いてみて解ったが、道は町の歴史と共に滅びる道もあれば、新たに生まれる道もある。

東海道も京都まで途切れる事なく続いている訳ではない。国道一号線に吸収され元の形さえ見えない区間、バイパスや新道のため歩道橋の上や、或は地下に追いやられた区間、また鉄道に遮断されたためエスカレーターに乗り改札前を通り、階段を降りて駅の反対側に向かうなどと様々だ。

しかし宿場町跡を保存したり、復元した区間は色濃く街道の面影を残している。
そう言う古い街道には古人の気配さえ感じる。その曲がりくねった道筋に路傍の道標に歴史がある。ある時は戦道となって人馬どよめき、ある時は参宮の道となって賑やかな笑い声に包まれたであろうこの道。東海道は遠い昔に、その役割を終え、今は地元の人達の暮らしの道として風景の中に残っている。

我々は便利さや効率を求めた開発という名の波に飲み込まれ、残しておきたい自然の美しさや、懐かしさまで奪ってきたのか。

滅びてしまった道は再び生まれ変わることはない。


追分

2011年06月06日 | 東海道五十三次を歩く

追分

昨日、関宿に着いたのは「東の追分」だった。今日、旅籠を出発して暫く歩くと「西の追分」に行き着いた。
髭文字の巨大な石標には「南無妙法蓮華経 ひだりいがやまとみち」とあり、伊賀上野・奈良に至る大和街道・国道25号線だ。右は自分が歩き進む東海道だ。

追分に差し掛かかっても、左右のどちらの道を選ぼうかなどと迷う事はない。自分にとって今回の歩きは目的地が決まっているから。

しかし、これまである時期までの自分が通って来た道には、いくつもの言わば追分があった。

人は自分の道は自分で切り開けと言うけど、人生案外そうは行かない。運命の分かれ道には大抵、誰かが立っている。誰だかは良くわからない、その人に腕を掴まれてこっちに来いと引っ張られる。もしあの運命の分かれ道にその人が立って居なかったら、今頃どんなになっていたか分からないって言う恩人も居れば、その人に会いさえしなかったらこんな事になってなかったと、一生後悔するような人も居ると思う。

自分の場合は、今振り返って考えてみると、いつも分かれ道に立っていた人は違ったが、その人に手を差し出され、そして引っ張られ、分かれ道を通過して来た様な気がしてならない。幾人の恩人に助けられてこれまで生きて来たのだろう。

追分に差し掛かかって、改めて思う。今からは自分が、迷っている人を引っ張る番だ、救いの手を差し出す番だと。

鈴鹿峠を越え、三重県から滋賀県に入った。


一里塚

2011年06月05日 | 東海道五十三次を歩く

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今日は朝から太陽が隠れていて歩きやすい。

45番目の宿場・庄野宿を後にして亀山宿を経て関宿へと向かう。 この歩きを始めた頃は、田植えが終わっていない田も見受けられた。ここ鈴鹿市に入ってからは、田植えもすべてが終わり、田は皆、青々として涼しげだ。

様々な歴史遺産を見つけては寄り道をし、説明板を読み、写真を撮って、そしてまた歩き始める。 土地の人の話す言葉も微妙に変わってきた。
一里塚を見つけた。 思わずホッとする。今日の目的地までの距離や時間がだいたい解る。一里塚には大きな榎などが植えられていたらしい。昔の旅人も木陰で休息を取った事だろう。
昨日も石薬師宿を出て暫く歩いた所で一里塚があった。その説明板には『くたびれたやつが見つける 一里塚』(江戸時代の川柳)と書かれていた。

まるで誰かが、どこかからか自分を見ているような気がした。
一人で苦笑いしながらも一歩一歩と京都・三条大橋にと近づいて行く.


歩く距離と新幹線

2011年06月03日 | 東海道五十三次を歩く

Fw:歩く距離と新幹線

東海道五十三次を再スタートする地点に向かうため今、新幹線で名古屋に移動している。

掛川を過ぎて程なく車窓から松並木が見え隠れしている。自分が歩いた松並木だとすぐ分かった。歩き始めたのはまだ二週間前なのに、何故だか遠い昔のような錯覚をしてしまいそうだ。

しかしあの松並木を忘れる筈が無い。歩き始めは自分の足が、まだ“五十三次”に慣れていなかった。二日目の昼食後、足が痛くなり、あの松並木の中でも一番大きな松の木の根元にビニールシートを敷き、休みがてら昼寝をした事があった。気が付けば小一時間もまどろんでいた。

思えば自分が10日間掛けて歩いた距離を、新幹線は約一時間で走り抜ける計算になる。

昨日の定期健診の結果は全く異常無しだった。そして今日、先日雨のため中断した桑名に向かっている。
今日は43番目の宿場・四日市まで歩く予定だ。それから天候次第だが、自分の“五十三次”も亀山宿、関宿、そして鈴鹿峠を越えたら滋賀県に入り、京都・三条大橋までは残り10の宿場になった。

今朝、駅に向かうバス停の側に早咲きの紫陽花が梅雨の晴れ間に咲いていた。この紫陽花は二週間前は小さな蕾だったのにと、時間の流れを感じる。何日か後、三条大橋から逗子に帰って来た時、この紫陽花はどんな彩を見せてくれるのだろう。


おジイちゃんとおバアちゃん

2011年06月02日 | 東海道五十三次を歩く

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船旅は東海道を歩き続けた旅人の骨休めになった事であろうが、現在『七里の渡し』の海は多くが埋め立てられ、現在渡しは無い。
桑名までの海上七里は、満潮時には陸地沿いの七里を渡る四時間の船旅で、干潮時には沖を渡るので十里になる事が多かったそうだ。
自分も昨夜の二日酔いの骨休めとばかりに、歩き始めて初めての電車で桑名宿に移動する。乗車時間はわずか20分間。
今日は、昨晩の激励会の幹事を務めたK,Uさんが一緒に歩く事になった、しかも奥さんも同行して頂ける事になった。

先ず腹ごしらえと桑名名物の蛤をご馳走になる。

桑名宿の『七里の渡し』跡には天明以来の伊勢神宮の一の鳥居が建っている。東から来た旅人には伊勢神宮への第一歩であった。

これまで通ってきた城下町、宿場町に比べ曲がり角と寺が多い。城下の道は何処も防衛の意味から屈折しているのが普通だが、岡崎宿も二十七曲がりもある城下町だった。

寺の一つ、海蔵寺の境内で「知らなかった--」と、奥さんが呟いている。
寺の入り口には(薩摩義士墓所)と案内板があった。
「薩摩義士とは、この地方に度々水害をもたらした木曽・揖斐・長良三大河川の治水工事による薩摩藩85名の犠性者を言います。この工事は宝暦3年(1753年)幕府より薩摩藩に命じられ、一年半の工期で完成した」と説明板があった。
幕府の目的は、外様大名である薩摩藩の財政弱体化が目的だったとも言う。工事完了後、大幅な予算超過と多数の藩士を失った責任を負い切腹した奉行平田靱負(ゆきえ)の墓碑を中心に、幕府に抗議し、また責任を取って切腹した23名の人達の墓がある。
思わず、この出来事が明治維新の際の薩摩藩の原動力の一つだったのかも知れないと思った。

二人をカメラで撮るうちに、二人との出会いが昨日の事のように思い出された。
会社では同じ課に所属し、結婚までは高いハードルがあった。時は流れ、この4月に孫が誕生した。昨日まで孫達は家に遊びに来ていたのに、今日また孫の顔を見に行きたくなる、今や二人は完全におジイちゃん、おバアちゃんだ。

雨が降り始めた。雨の中を歩くのは苦手だ。今日桑名宿を一緒に歩いたK、Uさんと同期で、昨夜の歓迎会で自分をサカナにしていたS、Kさんに、彼が手配してくれた湯ノ山温泉まで送って貰った。

別れ際、奥さんにOL時代と変わらぬ、何とも言えぬ甘い声で「お気を付けてぇ」と見送られた。

お互いに多くを語らなくとも、意思の疎通が図れる。彼らとのこんな友情は、今後は二度と得られることは無い。生涯の自分の財産だ。